ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1288/

収容所でラリーが椅子をデザイン(英語)

(英語)(収容所に到着した)翌日、私たちは、鉄製ベッドの古くて最悪なマットレスの上で目を覚ましました。そして、ローレンスがこう言いました。「昨夜、マットレスに詰め物をしに行った時、仮設便所の裏で木箱を見つけたよ。お母さんとおばあちゃんに椅子を作ってあげられると思う。」この時既に、弟には木箱を素晴らしい椅子に作り替えるアイデアがありました。

1つ目の箱は、ほとんどそのまま形を変えず、上の板だけ取り除き、低い位置に付け替えてシートにしました。そして、2つ目の箱のサイドの片面を取り、背もたれになるようシートに取り付けました。箱の3面を利用し、3面から成る椅子を作りました。そして、2組の重い板を使い、肘掛けも付けました。本当に完璧な椅子でした。ラウンジにあるような椅子で、背の低い人にはピッタリでした。

母と祖母は、5フィート(152.4センチ)もありませんでしたので、椅子がすっかり気に入りました。祖母は、クッション、つまり座布団を収容所に持って来ていたかどうか定かではありませんが、いつも座布団に座っていました。ダッフルバッグ(厚い布製の大きな筒型バッグ)に入れて収容所に持って来ていたかもしれません。私たちは、それぞれ自分のダッフルバッグに物を入れて収容所に行きました。祖母は、座布団を椅子に敷いて使っていました。

収容所の人たちが椅子を褒めてくれたので、祖母が「ここもそんなに悪い所ではないわね。」と言ったことを今でも覚えています。祖母は、「ありがたいことよ。ここは水が良いし、一年中美味しい水が飲めるでしょ。これ以上何も望めないわ。感謝すべきね。」と言いました。「椅子だってあるもの。」「私は本当に幸せなオバアサン(日本語で)よ。」

私は、祖母がそう言ったことを今でもよく覚えていて、母はとても喜んでいました。椅子の評判は瞬く間に広がり、噂を聞きつけた人たちはトイレの木箱を取りに走りました。その後、私たちが2脚以上の椅子を持つことができるまで、長い年月がかかりました。


ラリー・シノダ 工芸 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2011年9月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フランクリン・ルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名した日、グレース・アイコ・(シノダ)ナカムラさんは、15歳でした。1942年5月16日、シノダ家の7人は、ロサンゼルス市中心部のユニオンステーション駅から列車でカリフォルニア州マンザナールの強制収容所に移送されました。

マンザナールでは、グレースの弟、ラリーが母親と祖母のために便器用の木箱をリサイクルし、ひじ掛けと背もたれ付きの椅子を2脚デザインしました。それらは、収容所内で「センセーション」を巻き起こし、大勢の見物人の称賛を得ました。その後、ラリーは世界で活躍するデザイナーとなり、彼の1963年製コルベット・スティングレイとマスタングBoss429は、今なお高い評価を得ています。

1944年春、グレースとラリーは、母親と共にバスでマンザナールを去り、コロラド州グランド・ジャンクションに移住しました。グレースは、クエーカーアメリカフレンズ奉仕団日系アメリカ学生転住審議会からの奨学金を得て、レッドランズ大学に入学しました。彼女は、進学のためにカリフォルニア州に戻り、大学を優等で卒業した最初の日系アメリカ人となりました。そして、卒業式の翌日からパサダナ学区で教員としてのキャリアを開始し、ここでも彼女は、日系アメリカ人として採用された最初の教員となりました。その後、彼女は2つの修士号を取得し、教育と芸術分野の仕事を続けました。グレースは、大学の美術教員であるヨシ・ナカムラ氏と結婚し、3人の子供たちに恵まれました。(1912年9月)

ジェームス・ヒラバヤシ

10代での収容所生活 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ユリ・コチヤマ

隠蔽されたキャンプでの出来事(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

収容所のポジティブな側面(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

アーチ・ミヤタケ

父に教えられた収容所の写真の重要性(英語)

写真家・ビジネスマン。

竹下幸男

JACLとの関わり(英語)

「アメリカ生まれの日本人」・元ビジネスマン。(1935年生)

ロイ・H・マツモト

アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

ツールレイク収容所での貝殻による手工芸品作り(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

リチャード・コサキ

収容所への442連隊の兵士の訪問(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

ロジャー・シモムラ

戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

フランク・ヤマサキ

ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

パット・アダチ

スロカン日系カナダ人収容所での家族生活(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

ポール・テラサキ

年代による収容所に対する印象の違い(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

エリック・ナカムラ

父からではなく歴史の本を通して学んだ収容所(英語)

『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長