ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1255/

家族経営の花屋で働き、グレタ・ガルボと出会う (英語)

(英語) 若いころ、母はよくフラワー・マーケットに行っていた。そしてデザイナーを雇っていた。母はそんなにデザインが得意でなかったから。私たちは大きなフラワー・アレンジメントを作って、それをウィルシャー・ブルーバードで展示したの。それが私たちが成し遂げた大きな仕事だったわ。

それからもうひとつ、よく知られた歌手だったんだけど、ブロンドの女性で、グリーク劇場で歌を披露し、そのあとハリウッドのある場所で彼女のための大きなパーティーが開かれたの。私たちは、すべての花の準備も行ったんです。

その頃グレタ・ガルボにも会ったわね。彼女は20代後半、いえ、前半だった。大きなリムジンに乗ってよくやってきた。運転席のドアが開いて、彼女は後ろに座っていて。彼女はよく両腕一杯のスイートピーを買って行ったの。本当に素敵で美しい人だったわ。


アメリカ ロサンゼルス カリフォルニア グレタ・ガルボ 草花栽培家

日付: 2011年5月24日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

スミコ・コザワ氏は、1916年ロサンゼルス生まれ。五人兄弟の長女であり、第二次世界大戦前は日本で3年間、琴や生け花、茶道を学ぶ。家族が経営する、シルバーレイクの「トーキョー・フローリスト」は、新鮮な花々を適当な値段で買えるためハリウッドの地域で人気だった。スミコ氏はお店を手伝う中で、有名な無声映画スター、グレタ・ガルボを含む多くの人々に出会う機会を得る。日本が真珠湾を爆撃すると、スミコ氏と家族はマンザナへと送られる。スミコ氏はそこで家族、祖父、妹の世話をした。コザワ氏は、2016年12月、100歳で亡くなりました。(2016年12月)

サカエ・シゲカワ

地域によって違った差別の状況 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

堀切 エドワード・徹

出生地(英語)

帰米二世(1929年生)

堀切 エドワード・徹

ホテル経営を始めた父

帰米二世(1929年生)

堀切 エドワード・徹

アメリカで働く(英語)

帰米二世(1929年生)

大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

大友 八郎

アメリカで直面した偏見

溶接業を営む新一世(1936年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

ロサンゼルスへ移住(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

豊島 年昭

2度の3年契約を経てアメリカへ

寿司職人。リトル東京にある「鮨元」のオーナー(1949年生)

豊島 年昭

日系コミュニティの一員に

寿司職人。リトル東京にある「鮨元」のオーナー(1949年生)

高塩 明

初めて来たときのアメリカの印象

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

高塩 明

海外に憧れ調理師免許を取得

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

高塩 明

移住当初の生活

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

イワオ・タカモト

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ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)