Tsutomu Nambu

北海道生まれ。1976年、大同生命保険に入社。1992年、在日外国人を対象に日本語学習支援ボランティア活動を開始。この活動を通し日系カナダ人と出会う。2011年、同社を退職。現在、宮城県庁に勤務のかたわら各種ボランティア活動を継続。仙台市在住。

(2013年2月 更新) 

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Kizuna: Nikkei Stories from the 2011 Japan Earthquake & Tsunami

「東北の新月」初上映会を仙台で開催!

東日本大震災発生から5年を迎える日の9日後となる2016年3月20日。私たち市民有志は、リンダ・オオハマさん製作の記録映画「東北の新月」の上映会を仙台で開催しました。映画は2月末に完成。その作品を収めたブルーレイを携えて、3月7日にリンダさんが来日。初演の地として仙台を選んでくださったのです。

上映会当日の午前9時。上映会場となる「せんだいメディアテーク」の扉が開錠されると、数十人が館内になだれ込み、一斉にシアターを目指しました。午前10時の上映開始に合わせて受付の準備をしようと思っていた私たちは焦りました。打ち合わせもそこそこに、各人が持ち場についたのが午前9時20分過ぎ。すでに通路は100名以上の人々でごった返す有様。

「2列に並んでお待ちください」。はやる気持ちの来場者に、誘導係の宮田達雄さんが優しく何度も声をかけ、混乱も収束。来場者たちは配られた整理券を片手に整然と場内へ。定員180名のシアターもあっという間に席がふさがっていきます。

上映開始直前、「満席を理由に入場をお断りした。でも、『何としてでも午前10時に上映される映画を見たい』というお客さまがいらっしゃる」との連絡をスタッフから受けました。その方に、2回目の上映時にご覧いただくようお願いしても理解していただけません。どうすべきか、考えあぐねているところに、「1つだけ余席があった」との場内係からの報告。その方には最後の座席に着いていただくという一幕もありました。

午前9時50分。司会の立花裕子さんがオープニングを宣言。続いて、大橋庸晃実行委員長とリンダさんからご挨拶。映画完成を祝う実行委員会からリンダさんに花束が渡された後、メッセージが代読されました。発信人はカナダのジャスティン・トゥルードー首相。当日の来場者と被災地の人々あてのものです。そこには、リンダさんが被災地のためにしてこられたことと、カナダ国民を代表して復興を祈っているということが書かれていました。カナダの首相からメッセージが届くなどとは思いもよらぬこと。驚くとともにとてもうれしく感じました。来場者も同じ気持ちだったことは間違いありません。一国の首相からメッセージが届いたことに、実行委員一同、リンダさんへの認識を新たにしました。

午前10時。場内の照明が落とされ、第1回目の上映開始。リンダさんが仙台に来られる折に部屋を無償で提供している大橋宅の台所から映画が始まります。日常生活のシーンに続くのが、毛筆で書かれた「故郷」「家族」「歴史」「思い出」「美」「愛」の文字と、それを読み上げる声に重ねて流れる震災の傷跡の数々。映画が始まり1分しかたっていないこの段階で観客席からすすり泣きが聞こえてきました。あの恐怖の体験がよみがえってきたのだろうということは容易に想像できます。

津波が町を飲み込む衝撃的映像が流れた後の静寂。このなかで女優草刈民代さんの端正で温もりのあるナレーションにより、リンダさんが東北を訪れることになった経緯が告げられます。直前の猥雑で緊迫したシーンと対照的な、草刈さんの静かで優しい語り口に、私の涙腺も緩みはじめました。震災直後より被災地のために数々の支援を行ってきたリンダさんの後ろ姿を見てきているからかもしれません。

映画では、岩手、宮城、福島の被災者がそれぞれのその日とその後のことを語るかたちで物語が展開していきます。津波に流され九死に一生を得た女性と家族。とっさの判断で奥さんを連れ出し、ふたりとも難を逃れた男性。津波で土台だけとなったかつてのわが家を案内する女性。原発事故の影響を恐れながら暮らす女性と7人の子どもたち。原発事故でふるさとを失った男性。住民の避難により風前の灯となった伝統行事を守ろうとする男性。ボランティア活動のため島根県から被災地に移り住んでいる男性。ネットで世界に救援を呼びかける市長。原発事故から子どもを守りたいと思いながらも、それを口にすることさえ憚られる雰囲気のなかで葛藤する福島のお母さんたち。それぞれの境遇に感極まる観客も少なくありません。「上映中、ずっと泣き通しだった」と教えてくれた中年男性もいました。その気持ちも分からなくはありません。程度の差こそあれ、だれしもが似たような経験をしてきているのですから。

「映画を見終わった後は、心を爽やかな風が通り抜けていったような感覚を味わった」という人が大勢いました。それは、最後の20分くらいの間に流れる映像が、困難ななかにあってもめげることなく、明るく前を向いて生きようとする東北の人々の姿を映しだしているからなのかもしれません。

上映が終わって出口に向かう人々をお見送りするのはリンダさんと私。どの人の目も潤んでいるのが分かります。リンダさんに握手を求めたりハグしたりする人もいました。その気持ちも理解できます。被災者の気持ちを、映画がみごとに代弁しているのですから。

このようにして当日は4回上映し461名の方々に「東北の新月」をご覧いただくことができました。また、地元で有名な音楽バンド・モンキーマジックのメンバーであるブレイス・プラントさんと、プロ野球楽天ゴールデンイーグルス元ジェネラルマネージャーのマーティン・キーナートさんも駆けつけてくださり、上映会に花を添えていただきました。

おかげさまで仙台での上映会は無事終了しました。しかし、上映会実現までの道のりはけして平坦なものではありません。リンダさんが製作する映画の自主上映会を開こうと思い、準備に取り掛かったのが2013年10月。その日から2年半、杉本みえ子さんと二人三脚で団体や自治体、有力者を訪問。開催への協力を呼びかけました。でも、確かな手ごたえを感じられないまま、いたずらに月日がたつばかり。軌道に乗ってきたのは映画完成を間近に控えた昨年12月。最終局面では、協力を申し出てくださったボランティアや、リンダさんの思いに胸を打たれた市民やマスコミの方々が後押ししてくださいました。これらの人々がいらっしゃらなければ、上映会が実現していたかどうかも分かりません。上映会開催に携わってくださったすべての方々に厚くお礼申しあげます。

映画がカナダで上映される日もそう遠いことではないと聞いています。その折には、逆境にあっても未来に希望を見出し力強く生きていこうとする東北人の姿をご覧いただければ幸いです。

最後になりましたが、震災直後より被災地にたくさんのご支援をいただきましたことを心よりお礼申しあげます。

 

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復興に影落とす人口減

3月11日に震災4年目を迎えた。遅々とした歩みだが、被災地は着実に復興に向かっている。集団移転先の整地。災害公営住宅の建設。店舗・工場の修繕と建替え。鉄道の復旧。事業の再開。速度に違いはあるものの、日々変わり続ける日常の風景の中に街の再興を感じ取ることができる。

しかし、子細にその歩みを見てみると、各地一様ではない。原発の影響を受ける地域と受けない地域。内陸部と沿岸部。都市部と農漁村部。どのような切り口でアプローチするかによって、その断面はいかようにも映る。

岩手県の沿岸部に位置する大槌町は、水産業を中心とする町だ。人口は1万2,600人ほど(2014年5月現在)。津波により流失した家屋は2,506棟。震災と津波により被害を受けた棟は3,800ほど(2011年9月28日現在)。町内の約半数の建物が被害を受けたことになる。

これらの被害に対し、国、県、町は、未曽有と表現されるような支援策を講じた。それらは生活の再建と地域経済の復興にとって死活的に大きな役目を果たしている。たとえば、津波で家を失った人が新しく家屋を建設する場合、最大で600万円の支援金が支給される。

住宅再建に係る支援金の合計額(新築のみ)1

世帯区分

国(基礎)

国(加算金)

県・町

町独自*

合 計

複数世帯

100万円

200万円

100万円

200万円

600万円

単独世帯

75万円

150万円

75万円

200万円

500万円

*注)全壊又は半壊解体をした世帯に限ります。

また、商工業者や水産業者に対しては国や県の補助金制度がある。町も、復興を力強く後押しする復興計画を練った。2 

笛吹けども踊らず。新約聖書「マタイ伝」に出てくる一節が、今の復興状況を表していると言ってもいいかもしれない。

今年2月上旬、友人であるノーム・イブキ氏から、復興の遅れを問うメールが届いた。それに答えるべくにわか勉強で確認したところ、主な理由は2つ。ひとつは建設業の人手不足。もうひとつは建設費の高騰。3  

一方、本年3月6日付けの朝日新聞は次のような記事を掲載している。津波に襲われた沿岸部や原発事故で避難指示が出されている計42市町村の首長からのアンケート結果だ。アンケートは、①復興の遅れ ②その原因 ③復興の時期 ④現在比で10年後の人口予想を尋ねている。

このアンケートの中で、大槌町は「10年後20%以上の人口減少」と答えている。20%以上という数値は、他の市町村と比べても極めて高いと言わざるを得ない。4

ある時期から日本で続いている、人口の都市部への流入と地方からの流出。大槌町でも以前から見られたその現象が、大震災で加速したと指摘する向きもある。大槌町では、震災後、若者や子育て世代が土地を離れていく話をよく聞くそうだ。結果として町に残るのは高齢者たちだ。

住宅建設に要する多額の資金を借りられるか?借りても返済できるか?得意先が相次いで町外に出て行くなかで、事業を再開して採算が取れるか?考えれば考えるほど気が重くなり、国や自治体が用意する支援メニューの利用を躊躇する人々の姿が目に浮かんでくる。

そのような中で、事業用宿泊施設と自宅を津波で流され、仮設住宅で再起を期すご家族の存在を知った。その一家の三女である東谷いずみさん5とのやりとりをここにご紹介しながら、この一家のこれからの日々に心からのエールを送りたい。


Q. 震災でどのような被害を受けましたか?また、その時ご家族はどこにいらっしゃって、その後どうなさいましたか?

私の家族は父・母・姉二人・祖母・私の6人家族です。私の住んでいた岩手県大槌町は地震・津波の影響で壊滅状態となりました。家があった場所は海から近かったため、津波で流されています。

震災当時、わたしは高校2年生。地震があった時刻は学校で部活動に励んでいました。父は消防団員です。地震があったときはすぐに水門を閉めに行きました。また住人の避難誘導にあたってもいたのです。母と祖母は家にいました。そのため地震直後すぐに避難できています。長女は仕事で(内陸部の)盛岡にいました。盛岡で働く次女の被害も少なかったです。おかげさまで家族はみな無事でした。

その日、家族はそれぞれの地で被災。私が父・母・祖母と会えたのは、翌日です。盛岡にいた姉2人は、電話がつながらない状況が続いたため、私たちのことが心配だったようです。


Q. 震災により、お仕事や生活などに関しどのようなご苦労がありましたか?

約4か月間は親戚の家にお世話になり、その後、仮設住宅に移りました。家だけでなく宿泊施設も流されたため、民宿業を営んでいた父と母は仕事も失ったのです。震災直後は、お世話になっている親戚の方の仕事場で働いたり、ガレキ処理の仕事をしたりしていました。仮設住宅に移ってからの両親は、慣れない仕事をしながら家計を支え続けています。

親戚の方は優しく私たちを受け入れてくださいました。しかし親戚とはいえ、やはり気を遣うところはあります。そのため仮設住宅への入居が決まった時は、少し安堵したのを覚えています。

仮設住宅に入り3年近く。仮設住宅の狭さや床のゆがみ、耐寒性などが気になります。特に80歳を過ぎる祖母にはこたえるようです。また、祖母は、異なる地域から入居してきた人々との交流に最初戸惑いを感じたようです。入居当初はありがたかった仮設住宅も、今は住むことでの精神的な苦痛やイライラが募る存在に変わりつつあります。


Q. 現在のお住まいは仮設住宅ですか?もし、そうだとすると、だれとだれがそこに暮らしていらっしゃいますか?

上述したように仮設住宅での生活です。父・母・祖母の3人暮らしです。


Q. 今後のお住まいや生活に関する計画などがあれば、お教えください。

家を建て、仮設住宅を出る予定です。そのための土地は、昨年の11月に決まりました。今は土地引渡しを待っているところですが、少し時間がかかるかもしれません。住宅建設はその後ということになります。


Q. 大槌に暮らしていて、震災前と比べて不便に感じることなどはありませんか?もしあるとすると、どのようなことですか?

高校3年生まで大槌で過ごしましたが、今は(東北地方における経済の中心都市である)仙台に住んでいます。

その当時や今地元に帰って不便に感じることは、住まいが仮設住宅であること、その住まいが市街地から離れていることです。そのため、友人に会うのにも苦労します。また、交通の便もよくないため、祖母が通院する時は、タクシーや父母の送迎に頼らざるを得ません。それに、仮設住宅そのものが、震災前一軒家で暮らしていた私たちには窮屈に感じられます。


Q. 町の復興の遅れが指摘されていると思いますが、その原因などはどこにあると思いますか?

原因は町全体にあると思います。元々、震災前から人口が減っていた大槌は震災後、更に町外へ出る人が増えました。若い人々も大槌を離れてしまう状況です。震災前からあった人口流出問題が、震災後、再び注目されるようになりました。

大槌は高齢者が多く、働き盛りの若い人が少ないのです。先日地元へ帰ったとき、ある記事を見ました。保育所の保育士の数が少ないというものです。この状況が続くと、乳幼児の受け入れ拒否も考えられるのだとか。働きづらい環境があり、それに加えて人も減るという最悪の状態と言えると思います。

復興にはマンパワーが必要です。この問題は町全体で考える必要があるのではないでしょうか?復興の遅れを住民がただ非難するのではなく、当事者として真剣に考えるべきだと思うのです。町全体で変えなければ、復興どころか衰退していく一方ではないか、と私は危惧しています。
 

注釈:

1. 住宅再建に関しては、大槌町復興局の資料を使用しています。
 大槌町独自支援事業【被災者支援に関する補助事業】 
 (大槌町復興局、平成25年8月)

2. 大槌町東日本大震災津波復興計画・実施計画【第2期 再生期 平成26年度~平成28年度】
 (岩手県大槌町、平成26年3月)

3. 時論公論「遅れる住まいの復興 長引く仮設住宅生活」
 (NHK解説委員室、2014年7月24日)

4. 人口減少については、岩手日報電子版の資料を使用しています。
 「進む人口減少(上) 回復するかは不透明」 (2014年1月7日)

5. 東谷いずみさんは、この4月から大学4年生です。

 

 

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被災者の今、そして行政

震災から4年となる日を間近に控えた2015年2月14日。被災者の一人を訪ねた。名前は大久保勝彦さん(74)。被災者のために用意された借上げ公営住宅1に入居している。

震災当時、大久保さんが住んでいたのは、仙台市若林区荒浜地区。夏は海水浴場として賑わう同地区を9メートルほどの津波が襲った。退職金で建てた築5年の大久保さんの住宅はこの波にすっぽりとのまれてしまった。

「津波が間もなくやってくる」。ラジオから流れるこのニュースを耳にした大久保さんは、ただちに自宅を飛び出した。自分は町内会長。至急避難するよう町内の住民に伝えなければならない。

自転車での避難呼びかけが終わったので、荒浜小学校に避難した。それから間もなく津波が襲来。2階の教室にいた大久保さんは、2階の天井に届くほどの高さの津波が廊下を流れて行くのを、ただ茫然と眺めていた。流れが一方向に向かっていたせいか、教室内に浸入してきた水は、膝下で済んだ。恐怖のほどは、もちろん膝下程度ではない。

翌日には陸上自衛隊霞目駐屯地の体育館に移動。その後、八軒中学校、サンピア仙台を経て現在の仮住まいに落ち着いた。現在は奥様との二人暮らし。

大久保さんが住む借上げ公営住宅には、現在51世帯が入居している。東松島市など他市から避難してきた人々もいるこのコミュニティーは、いわば寄せ集め。でも、近隣の草刈り作業などには対象世帯数の80%ほどが参加する。大久保さんによると、いいつながりを持つコミュニティーなのだとか。

大久保さんが住んでいた地区は、災害危険区域。新築も増築も認められない。そのため移転することになる。かつての住民には仙台市より3つの選択肢が示されている。①集団移転か②単独移転か③復興公営住宅入居か。大久保さんは集団移転を選択した。移転先に建築中の住宅はこの2月に完成。3月には引っ越しとのこと。このことを話す時の大久保さんは少し誇らしげだった。

「行政の支援は十分だったか?足りないと感じた支援はなかったか」

私のこの質問に、大久保さんは「十分だったと思う」と答えた。「ただ、プレハブ仮設住宅には各種支援が届いたようだが、借上げ公営住宅には最初届かなかった。自分の住む所は避難先を示す地図にも載っていなかった」とも付け加えた。

「行政の対応はどうだったのか?」

私の次なる質問に大久保さんは次のように語った。「市役所が私たちを対象に何度か住民説明会を開いた。その際、私たちの質問や要望をその場で回答していただけず、持ち帰ったことが何度もあった。また、集落ごとの移転を希望したが、聞き入れられなかった」

「復興に時間がかかるのはなぜだと思うか?」

難しそうな質問のせいか、答えが出るまでにやや間があった。そして大久保さんは次のように話した。「住民の意見がまとまらなかったことかも?」

仮住まいの生活が始まって少したった頃から、荒浜地区住民の意見は2つの派に分かれた。元の場所で生活再建したい派と、身の安全を第一として内陸部に移転する派に。対象地区住民の意見に耳を傾けながらも同地区を移転対象地区と仙台市が決めたのは、2011年11月。

移転対象地区の世帯数は約1,540。対象世帯には、前述のように3つの選択肢が示された。2014年8月1日現在、集団移転を選択した世帯数は675。単独移転を選択した世帯数は514。復興公営住宅を選択した世帯数は317。その他未定など34となっている。2

集団移転を選択した場合、被災宅地の買い取り(任意)、引越し費用の補助、住宅再建・土地取得に係る利子の補助を国から受けられる。また、仙台市からは住宅再建・土地取得への経費補助と、希望者には上限を50年とする移転先宅地の無償貸与を受けられる。

一方、単独移転を選択した場合も、集団移転を選んだ場合とほぼ同じ支援を受けられる。ただし、この場合、仙台市の独自支援策である移転先宅地の無償貸与は受けられない。

また、もうひとつの選択肢である復興公営住宅(集合住宅)は、2014年9月末現在、728戸分が完成。2016年3月末までには3,206戸分すべてが完成予定である。

住まいの再建に向けた選択肢が用意されるなかで、仮設住宅に入居し続けざるを得ないという現実が存在しているのも事実だ。2015年1月1日現在、市内の応急仮設住宅の入居状況は下表のとおり。現在の入居世帯数は、ピーク時となった2012年3月末の約6割となっている。これを多いと見るか、少ないと見るか。判断の分かれるところだ。

応急仮設住宅の種類

入居世帯数(世帯)
2015/01/01現在

入居世帯数(世帯)
2012/03/31現在

プレハブ仮設住宅

802

1,346

借上げ民間賃貸住宅3

6,043

9,838

借上げ公営住宅等

365

825

合計

7,210

12,009


応急仮設住宅に入居できる期間について2015年1月9日更新の仙台市公式ウエブサイトには次のように記載されている。4応急仮設住宅の供給期間は合計5年以内。震災から5年目となる来年には、ほとんどの入居者が退去せざるを得なくなると言えそうだ。それは、応急仮設住宅入居中に負担を逃れていた家賃、あるいは移転先の住宅取得費用の負担が発生することを意味する。

これまで述べたものは、被災者の住まいの再建・生活再建に関するものだ。それと並行して、仙台市では津波防災対策も進めている。県道かさ上げ工事もそのひとつだ。海岸線から1キロほど内陸に入った所を走る県道の高さを6メートルほどにかさ上げしようというものだ。この発想は、大震災後の津波が陸地に浸入してきた際、仙台東部道路が防波堤の役目を果たした、という教訓と深い関係があるかもしれない。

津波防災対策としては、他にも避難道路や津波避難施設の建設、海岸公園の整備などが進められている。これらは地権者との交渉や地域との調整などが必要なため、工事完了までには数年を要しそうだ。それは大震災がもたらした爪痕の深さと、行政側が練った復興計画の綿密さを表していると言ってもいいかもしれない。

第3回国連防災世界会議が3月14日から5日間、仙台市で開催される。193か国から参加者を迎えての大イベント。仙台は最後の準備に余念がない。各国からお迎えする大勢の人々を前にして、被災地から世界に向けてどのような情報を発信されるのか。開催地の市民としても興味が尽きない。海外から届いた支援に対するお礼の気持ちもその中に含まれていると、ちょっぴりうれしいのだが…。

注釈:

1. 借上げ公営住宅等:市などが保有する公営住宅や企業の社宅などを被災者に無償で貸している住宅

2. 戸建て住宅を建設して移転する形態のうち、集団移転は市が提供する地区に移転するもので、単独移転はそれ以外の地区に移転するもの。復興公営住宅は、基本的に集合住宅であるが、一部戸建て住宅もある。

3. 借上げ民間賃貸住宅:民間が所有するアパートやマンションを県が借り上げ、被災者に無償で貸している住宅。

4. 参考資料:仙台復興レポートVol.27
http://www.city.sendai.jp/shinsai/report/report27.pdf

 

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「キルト・プロジェクト」のお手伝いをして

1.全国での展示も終了間近

2012年12月30日。この日は、津波で壊滅的被害を受けた岩手県沿岸部の大槌町でキルト展が行われていた。国内での展示も残り2カ所。リンダ・オオハマさんの提唱でカナダ全土から届いたキッズメッセージ・キルトによる復興支援プロジェクトも国内での最終局面を迎えようとしていた。前年6月にキルトが日本に届いてから1年半。目を閉じるといろいろな情景がよみがえってくる。

2.キルトが届いて

2011年6月25日。カナダに住む友人のノーム・イブキさんから1通のメールが届いた。「被災地の子どもたちを応援しようとカナダの子どもたちがキルトにメッセージを描いた。そのキルトを持ってリンダさんという人が被災地の学校を訪問する。仙台でお手伝いできる人を探してほしい。日曜日までに」。その日は日本時間で土曜日。時間的余裕は1日しかなかった。

当時私の住まいは福島県郡山市。しかも1カ月後に定年退職を控え、残務整理で連日休日出勤している身。「飛ぶ鳥跡を濁さず」。今は業務が最優先。そうは思うもののノームさんからの依頼と被災地の映像も脳裏をかすめる。

「どうしよう」。気持ちは焦るが妙案は浮かばなかった。時間だけが過ぎて行く。その時ふと思い当ったのが仙台国際交流協会だった。5年前まで私のボランティア活動の拠点だった所だ。祈るような気持ちでダイヤル。つながったのは旧知の菊池さん。状況を説明すると、「通訳ガイドボランティア団体のGOZAINに連絡してみたら?」とのこと。

早速、GOZAINをネットで検索した。「あった、あった」。連絡先として副代表の郡司さんの電話番号が。手を合わせながらプッシュホンのボタンを押す。「藁をもつかむ」とはこのような心境か。こんなことを思いながら受話器を持つ耳元に、穏やかな声が届いた。「郡司です。まず状況を知らせてほしい。代表の朴澤さんと私にメールを送って」。

早速メールを作成。精一杯のお願いの気持ちを込めて送信した。そのメールを受け、郡司さんがただちに会員に呼び掛けてくださった。「7月1日、閖上中学校。通訳可能な方は至急連絡を」。

3.最初の被災地訪問

郡司さんの呼び掛けに応じてくださった会員の方々の通訳により、閖上中学校でのキルト展オープニングセレモニーも無事終了した。カナダ大使館員、名取市長ご臨席のもと、リンダさんのプロジェクトは静かな船出をしたのだ。

その日の夕方、仕事もそこそこに仙台に向かった私は、初めてリンダさんと会うことになった。約束の場所は市内にあるファミリーレストラン。そこに現れたのは満面に笑みをたたえ、フレンドリーな雰囲気を漂わせている方だった。簡単な自己紹介の後、話に耳を傾けていると、これからの予定として「石巻、南三陸、気仙沼、塩釜...」。このように被災地の名前がいくつか挙がった。でもよく聞いてみると、それはリンダさんの希望する訪問先でしかなかった。その時点で決まっていたのは訪問済みの閖上だけ。「訪問先探しに協力してほしい」。これがお話の主旨だった。

「話が違う!」こんな言葉をぐっと飲み込み、GOZAINの朴澤さんと郡司さんに連絡し状況説明した。翌日、仙台国際交流協会の菊池さんへご相談することになった。リンダさんの仙台滞在予定は2週間ほど。「その間の訪問予定を立てなければ」と、いざ4人が顔を合わせてみても、あてはまったくない。長い時間かけた話し合いの末に出た結論は、それぞれが心当たりを当たってみることだった。

朴澤さんは、ご主人の後輩が校長を務める石巻市大須中学校に。郡司さんは、いとこが町長をなさっている女川町に。そして私は、知人で市会議員の佐藤さんに紹介いただいた折立小学校に。「カナダの子どもたちから届いたキルト応援メッセージをぜひ見ていただきたい」。必死の思いでそれぞれの所と折衝した。

その焦りにも似た熱意が相手に通じたのか。それぞれの先で受け入れオーケーの返事が。それに加えて郡司さんは七ヶ浜町の避難所からもご了解を得た。さらにノームさんのもう一人の友人である黒須さんの案内で南材木町小学校、かたひら保育所も訪問した。こうしてリンダさんの仙台滞在中、6カ所での展示が実現した。

4.その後の被災地訪問

リンダさんは7月14日に広島県尾道市に帰られた。その他のメンバーもそれぞれの持ち場へ。残ったのは私のみ。福島、岩手の被災二県を訪問するようにリンダさんから依頼された私は、インターネットで調べた各地の国際交流協会や教育委員会、各学校に連日電話した。「子どもたちを勇気づけるメッセージをぜひ生徒たちに見せていただきたい」とお願いし続けた。しかし震災後の混乱と相まってか、「ご厚意はありがたい。でも展示は遠慮したい」という返事ばかり。一方、リンダさんからは「福島はどうなったか?岩手は?」との連絡がたびたび入る。

8月1日。退職して仙台に戻ってきた私は、この日を境に訪問先探しに全精力を傾けた。ある時は原発事故で避難対象となった町の仮設役場を訪問。また、ある時は避難所を。「カナダの人々の善意を無にしたくはない」。その思いを支えに、各地で展示をお願いして回った。「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」とはよく言ったものだ。断られながらも福島で4カ所、岩手で2カ所、宮城で1カ所が申し出を受け入れてくださった。

5.全国でキルト展示

10月13日。駐日カナダ大使館高円宮記念ギャラリーで、カナダの子どもたちから届いた応援メッセージと、被災地の子どもたちが描いたお礼メッセージが展示された。これを皮切りに全国各地でキルト展が開催されることとなった。その数、33カ所。リンダさんご自身とボランティア各位の努力と、各地実行委員会、広島県尾道市にあるプロジェクト事務局長尾さんとの連携の賜物だ。また、多くの開催地で被災地への応援メッセージが作成された。

6.新潟・仙台で展示

私は、全国での展示のうち6カ所を担当した。中でも新潟と仙台には特別の思い入れがあった。被災地訪問活動に対し昨年資金を助成くださったのが、新潟県にある「東北関東大震災ボランティア活動基金」。同基金の窓口は新潟NPO協会。支援いただいた同協会へのお礼と、原発事故で大勢避難している福島の人々への応援。この2つの意味で「新潟開催をぜひとも実現させたい」と思った。

会場は東北日本カナダ協会が提供してくださった。7月4日に新潟市社会福祉協議会に連絡し、ボランティアとキルト展受け皿団体の募集をお願いした。早速、同協議会が機関誌で参加を呼び掛けてくださった。しかし2カ月間反応がなかった。開催をあきらめようと思い、東北日本カナダ協会の山岸さんに電話した。しかし返ってきたのは、「会場も手配。広報誌にも載せている。中止は認められない」という答え。悩んだ。でも山岸さんにそう言われては後戻りできない。最悪の場合は自分ひとりで会場設営、キルト展示、来場者受付、キルト撤収も。そう覚悟を決めかけた時に、新潟大学ボランティア本部、新潟国際援助学生ボランティア協会、新潟NPO協会から次々と朗報が届いた。それぞれが学生ボランティアを派遣してくださるとのこと。

これに勇気を得て、11月6日から6日間の開催が実現できた。この間NHKと地元民放1局がキルト展を取り上げてくださった。しかし天候不順もあってか、来場者数は数えるほど。ただこのことは思いがけない結果につながった。一人ひとりにていねいに接する余裕を与えてくれたのだ。震災直後に起きたカナダでの日本支援活動やリンダさんの被災地訪問の様子を伝えるDVDを見ていただきキルトの説明をした。その結果、多くの人々が「いいものを見せていただいた」と感謝の言葉を残し、会場を後にされた。

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仙台でのキルト展は12月18日からの1週間だった。会場は市内繁華街のバス停前。これ以上望みようのないロケーションだ。後援を12社・団体からいただき、関係先にも開催を案内した。東北福祉大学の後藤さんのお計らいで同大学から24名の、朴澤さんのお声掛けでGOZAINから10数名のボランティア参加のお申し出もいただいた。あとはその日を待つばかり。

開催初日。午前10時の開場とともに大勢の来場者がなだれ込んできた。3日目からはリンダさんも会場に。来場者一人ひとりにキルトメッセージに関するエピソードなどを披露し、カナダのピンバッチやリストバンドを渡していらっしゃった。カナダとリンダさんの支援を知ったある被災者は、リンダさんが差し出す小さなプレゼントを手にし、感に堪えない様子でこう言った。「これは私の宝もの。今日という日は一生忘れない」と。

[inline:Sendai.jpg]

会場には2,400名分ほどのキルトメッセージが展示された。その1枚1枚に物語があり、その人なりの思いが込められている。それは優しさや思いやりとなり、被災地の人々の心の奥底にまでしっかり届いた。被災地の復興には何年もかかるかもしれない。でも、カナダの人々の善意は被災地の人々の心の糧となり、復興の歯車を1つ先に進めたように感じる。復興した被災地の姿をカナダの人々にお見せできるのも、そう遠い先のことではない。そのことを被災地の子どもたちが描いたお礼メッセージが雄弁に語っている。そのメッセージがもうすぐカナダに届く。リンダさん、ノームさん、そしてカナダ全土のみなさん。こんどは被災地から送ります。大きな、大きな「ありがとう」を!

※関連ホームページ http://www.clothletters.com/

(リンダさんの提唱で始まったキルト・プロジェクトは、被災地をはじめ全国各地の人々に大きな感動をもたらしています。被災者の一人として、またプロジェクトにかかわらせていただいた一人としてカナダのみなさんにお礼を申し述べたくペンを執らせていただきました。)

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