Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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世界のなかの日本と世界

フロリダと天橋立-その3

その2>>100年後のフロリダと宮津をつないだ酒井襄とは?以上が、ヤマトコロニーと森上氏の歴史であるが、おさらいしてみればわかるように、最終的にこの「モリカミ」が誕生したその発端は、森上氏との直接の関係で言えば酒井襄氏である。記録によれば、彼は1874(明治7)年生まれで95年に同志社を出て、同志社の創始者である新島襄を見習ってアメリカへ渡ったという。名前の襄も、新島襄に倣ったらしい。50歳前にアメリカで亡くなっている。 「モリカミ」がまとめたヤマトコロニーの資料によれば、酒井家は宮津藩に使えた侍の家系だったという。ニューヨークに留学していたくらいだから、さぞ立派な家柄か優秀な人物で、故郷の宮津では知られているのだろうと思い彼の足跡も調べてみた。 [inline:yamato5.jpg] しかし、これが不思議なことに、何者なのかがよくわからない。まず、宮津市役所に問い合わせてみたところ、同市総務室で広報を担当する横谷宏明氏がいろいろと調べてくれたのだが、どうも酒井という名前のそれらしき家はあっても、酒井襄とはつながらないというのだ。 さらに、となりの京丹後市にも問い合わせてくれたのだが、手がかりはつかめなかった。ならば、一度現地を訪ねてみようと思い、たまたま姉妹都市のデルレイ・ビーチから高校生や、三堀氏など「モリカミ」の関係者がやってくるというので、6月半ばに出かけて...

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世界のなかの日本と世界

フロリダと天橋立-その2

その1 >>自分の名前をフロリダに残すために結局、耕作条件は悪くそのため農業としては目立った成果も上げられず、入植者は徐々に減っていった。真偽のほどは定かではないが、土地を所有した日本人のなかには1925年にマイアミビーチが開けて、フロリダの土地ブームがおきるなかで土地を高値で手放し、帰国したり他州へ移ったものもいたという。 そして、太平洋戦争が始まる頃には、コロニーに残っていたのはわずか数家族だけになった。また戦争によって42年には、コロニーの土地はアメリカ政府によって没収される。こうしてコロニーは戦前に事実上消滅していった。 しかし、森上氏だけは農業を続け踏みとどまった。これより前に英語の話せなかった彼は、地元の子供たちにまじって英語を学び、自分で収穫した作物を売買もした。戦争中森上氏は、地元の農園主の管理下に置かれ無報酬で耕作を続けたが、戦後になって耕作した土地を無償でもらい受けることができたという。 戦後も農業を続ける一方で少しずつ土地を買い増ししていった。そして最終的には150エーカー以上の土地を所有することになった。それでも土地を売ることはせず、パイナップルや野菜に囲まれた自然のなかに彼は身を置いたが、現地での家族はなく、トレーラーハウスを生活の場としての暮らしぶりは質素だった。 日本人の移民一世の多くが、成功の暁には故郷に錦を飾ることを夢見ていたように、...

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フロリダと天橋立-その1

アメリカ南東部のフロリダ州に、日本文化を紹介するモリカミ・ミュージアムと日本庭園があることと、そこで春に行われた大きなフェスティバルの模様を前回紹介した。 日本とはあまり縁のないような場所にある「モリカミ」の名称は、森上助次という人物から由来する。いまから100年以上前にフロリダに農業移民として入植した日本人の一人である森上氏は、生前に所有する土地を地元のパームビーチ郡に寄贈し、それがもとでこのミュージアムと庭園ができあがった。また、これが縁で同郡内にあるデルレイ・ビーチという町と、彼の故郷である京都府宮津市は、姉妹都市関係を結び交流を続けている。今年も6月半ば、デルレイの高校生が数日ではあるが、宮津でホームステイをしながら地元、府立宮津高校で学んだ。 日本三景として有名な天橋立がある、日本海沿いの宮津と大西洋岸に位置する亜熱帯のデルレイ・ビーチ。この二つを結びつけた森上氏は、なぜ20世紀のはじめに、はるばるフロリダへわたったのだろうか。そして二度と日本の土を踏むこともなかった一方で、フロリダにその名前を残すことになったのか。その背景には、彼だけではない、宮津から集団で移住し、フロリダで成功を夢見た人たちの物語があった。 「ヤマトコロニー」をつくった二人の日本人 [inline:yamato1.jpg] 移住の足跡については、「モリカミ」の資料やアメリカへの日本人の...

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フロリダの日本庭園とコスプレ-その3

その2>>庭園のなかをコスプレのティーンエイジャーたちが・・・敷地内には黒い瓦屋根の本館と最初にできた平屋の建物がある。本館には、木版や着物、陶器など日本の美術品が展示されているほか、茶室が設えられている。ユニークなのは、畳の間で茶の湯を行っているときに、お茶を点てるその模様を鑑賞できるようにと、開放された部屋の外に階段状の客席がつくられているところだ。 [inline:florida7.JPG] 本館内には225人を収容できるシアターもあるし、カフェではお寿司をはじめ日本食が楽しめる。日本の工芸品や贈答品などが販売されるショップも、この場所にしてはなかなか充実している。 この建物とは別に、庭園の中程にある平屋の建物では二つの常設の展示がある。一つは「子供たちの目を通した日本」と題した、日本のいまの社会を知るためのもので、小学校の教室の様子や一般家庭のダイニングキッチンなどを紹介している。 [inline:florida8.JPG] もう一つは、ヤマト・コロニーの歴史が古い写真や新聞記事などとともに理解できるようになっているものだ。 午前中のうちに庭園内は来客がひっきりなしに行き交うほどになった。そのなかでとりわけ目を引いたのが、なにやら派手なコスチュームに身を包んだティーンエイジャーたちだった。その数は時間とともにどんどん増えてくる。 いったい何だろうと思って...

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フロリダの日本庭園とコスプレ-その2

その1>>入植当時のフロリダに思いを馳せながらその日は金曜日ということもあって、空港内のレンタカー・カウンターは長蛇の列。待つことおよそ1時間余、ようやく三菱のセダンで空港を出たのは午後3時半を過ぎていた。この時期のフロリダにしては、それほど暑くはなくさわやかな陽射しがふり注いでいる。 デルレイ・ビーチまではすぐにハイウェイ95号にのって北上した方が時間はかからないのだが、リゾート地として名だたるフォート・ローダーデールのまちを見ようと、まずは海岸沿いを走るA1Aという道に出て、道路の両側につづく南国情緒を醸し出すパームツリーの間を走る車の列に加わった。右には砂浜と薄い青緑の海が見え、左にはホテルやレストランが建ち並ぶ。どちらにも人があふれていた。 [inline:florida3.JPG] この時期は学生にとってはスプリング・ブレイク(春休み)で、各地から学生たちがフロリダを目指してやってきて騒ぎ、楽しむのは長年の慣習になっていた。なかでもデイトナ・ビーチやフォート・ローダーデールはそのメッカだった。 そうした学生たちも大勢いるのだろう、人通りでにぎわう繁華街を抜けてしばらくすると、海岸線とほぼ並行してゆったりと川が左手に流れている。川沿いには瀟洒な家々が建ち並び、それぞれが桟橋を突き出し、ボートやクルーザーを係留している。なんとも優雅なアメリカらしいリゾートの景色...

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