Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ ~ その1/3

毎朝テレビの天気予報では、江ノ島と湘南海岸の様子がよく映し出される。海面に半身を出したマッコウクジラのようにも見える島とその周辺のビーチは、首都圏の海沿いの観光地としても知名度が高いので、便利に使われるのだろう。 いまは、海水浴客などでにぎわうこの観光スポットは、神奈川県の藤沢市に含まれる。両隣の鎌倉、茅ヶ崎の2市などと併せてこのあたりの太平洋岸一帯の海岸は湘南海岸と呼ばれるが、そのほぼ中央にシンボル的に浮かんでいるのが江ノ島である。 江ノ島(藤沢)とマイアミビーチ かつて地元の観光協会では、一帯を“東洋のマイアミ”として広く宣伝しようとしたことがある。 米フロリダ州にあり、避寒リゾートとして世界的にも有名な地名にあやかって同じ海沿いの観光地である地元を売り出そうとしたのだった。 それがきっかけで、1959年には、藤沢市はマイアミビーチ市と姉妹都市提携を結ぶことになった。 最初はマイアミ市に姉妹都市提携を申し入れたのだが、同市はすでに別の都市と姉妹都市提携しており断られた。しかしこれを聞いたマイアミ市の東隣に位置するマイアミビーチ市から、逆に藤沢に申し入れがあり提携が実現したという。 「当時はマイアミは知っていてもマイアミビーチ市の存在は知らなくて、マイアミと提携したと思っていた人もいたようです」 と、現在民間レベルで交流を図る湘南マイ...

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「ヤマト」と名のつく小学校がある米国の町 - “理想”の日本人コロニーが生まれた、リヴィングストン その2

その1を読む >> 戦争による危機を超えて 最初の数年は、収穫は見込まれなかったが、やがてナスやサツマイモ、アスパラガス、トマトなどが収穫された。その後コロニーでは協同で、食糧の購入や販売などを始めたり、作物を荷造り、出荷するための小屋も建てられた。 コミュニティーづくりでも協力し合い、関係者みんながクリスチャンではなかったもののキリスト教の教会を建て、地域の核をつくっていった。また、コロニーの人々は町の白人社会との競合を避けるために、農作物に関するものを除いて、商店などを開いたりすることはなかった。 こうして発展していったコロニーでは1940年には、69の日本人家族が、3700エーカー以上を耕作していたという。太平洋戦争が勃発したのちは、彼らは強制収容所に送られるが、その間所有地の管理を契約して第三者に任せることができた。 戦後もコロニーはそのまま残り、リヴィングストン農業組合(Livingston Farmers Association)を中心に農業経営が協同で続けられてきた。 農業を中心に町の発展に貢献し、白人社会と積極的に融合を図りながら、地域に溶け込んできたのがヤマトコロニーだ。時代の流れの中で農地が宅地として売却されたり、世代の交代とともに自ら農業に従事する日系人はここでも減っている。 しかし、アメリカでの多くの日系移民が当初は農業に従事しながらも、2世...

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「ヤマト」と名のつく小学校がある米国の町 - “理想”の日本人コロニーが生まれた、リヴィングストン その1

世界の各地で暮らす日本人をリポートする民報のテレビドキュメンタリー番組が面白い。こんなところでわが同胞はこんなふうに生きているのかと、そのバイタリティーに感心すると同時に、まさに「人間いたるところ青山あり」という思いにいたる。 これは現代のお話だが、まだ世の中の情報や交通網が整っていなかった100年以上前に、すでに多くの日本人が、言葉と文化の壁を越えて世界に飛び出していった。その無数の足跡のなかから、アメリカでのいくつかのユニークな例をご紹介したい。 今回は、カリフォルニア州のリヴィングストンという小さな町に誕生した日本人コロニーの歴史と今について。ここには、ヤマトコロニー・エレメンタリー・スクール(Yamato Colony Elementary School)、つまりヤマトコロニー小学校という名称の学校がある。 町のミュージアムに残る日系の歴史 乾いた空気と刺すような強い陽射しの下、カリフォルニアの州都サクラメントから南へ、なだらかな丘陵地をハイウェイ99号で1時間ほど走ると、リヴィングストンという町への入り口に着く。 「WELCOME TO LIVINGSTON」と、真っ平らな大地に看板が立つ。日本語のほか数カ国語でも歓迎を表している。町の規模の割にはどうやら国際色が豊かなようだ。 まわりには畑が広がるのどかなこのまちのダウンタウンの一角に、小さなミュージア...

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カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その3

その2を読む >>日系人たちにはよく知られた墓だった「おけいの墓」の前に話を戻そう。周囲は草木ばかりで、まさに野の中にひっそりと作られた墓碑のあるところは、木陰になってこの日は色鮮やかな花が手向けられていた。 当然のことながら、背あぶり山の墓碑と同じ「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19years」、「おけい之墓」、「日本皇国明治四年 月 日没す」、「行年十九才」と、表裏に刻まれている。月日は記されていない。 強い陽射しの下、午前中から大勢の人が墓前に集い、サクラメント在住で、天台宗ハワイ別院の僧侶、タイラー了栄さんらが墓前で読経をし供養をすると、集まった人たちが手を合わせた。 このなかの一人、サクラメント在住の日系2世、ジョージ・オキ(86)さんは、初めてこの墓に来たのは1962年だったという。 「彼らがどんなに大変だったか想像できる。彼女に対する尊敬の気持ちから墓に来ていた」。古い日系人の間ではおけいの墓はよく知られていたようだ。 シュネルたちは、日本から茶や桑やさまざまな木や種子を持ち込み、農園をはじめた。当時の地元の新聞記事によれば、最初の一年は作物もよく育ったようだが、金鉱採掘のためにダムが造られ水脈を断たれて水不足に陥ったことや気候のせいで息詰まったようだ。 シュネルは金策のために家族とともに日本へ向かったらしいが...

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カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その2

その1を読む >>プロシア人に率いられて太平洋を渡る会津が官軍に攻め入られ鶴ヶ城が陥落したのが1868年秋、この翌年の春までに、会津を出てカリフォルニアにわたった一団があった。 当時、会津藩にオランダ国籍のプロシア人でヘンリー・シュネルなる人物がいた。武器商人で、会津藩と米澤藩の軍事顧問であり、かつ奥羽越諸藩同盟越後方面軍の参謀でもあった平松武兵衛という日本名をもつこの男が、会津から二十数人を率いて、カリフォルニアで入植事業を企てたのだ。 彼の妻は日本人(会津藩士または庄内藩士の娘ともいわれる)で、2人の間にできた子供の世話係として、おけいはこの移住計画に加わったと見られている。 横浜から米船籍のチャイナ号という船に乗った一行は、サンフランシスコに到着。そこからは蒸気船でサクラメント川を遡り、さらに荷馬車でゴールドラッシュで金鉱堀が盛んだった土地に近い、コロマ村のゴールドヒルという原野に落ち着いた。 シュネルは農園をつくるため土地を購入し、「Wakamatsu Tea & Silk Farm Colony」となづけ、養蚕やお茶などの栽培を計画した。しかし、事業は結果としてうまくいかず、2年ほどして彼は、金策のためだと思われるが、日本へ行くと言ってコロニーを去った。 しかし、二度と戻って来ることはなかった。理由は分からないが、一説には殺されたともいわれる。...

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