Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その3/4

その2を読む>> 山本五十六も2度訪れる 当初は米作にしぼり成功したが、のちに野菜作りに転換した。この間、日本人をはじめメキシコ系、アフリカ系、ヨーロッパ系の労働者も雇った。吉松氏はコロニーのために強いリーダーシップを発揮し、一方で地域にはさまざまな面で貢献しアメリカ社会に積極的に溶け込んでいった。 1924年には土地を提供してキリスト教の教会を建て、その運営にも私財を投じた。また、1928年にはコロニーの近くの学校に土地を譲渡している。彼自身は仏教を信仰していたが、子供たちにはアメリカで生活していく以上キリスト教を受け入れ、英語を学ぶべきだと考えていた。 1919(大正8)年、吉松氏が所有していた土地から石油が出ることが分かった。彼は「オレンジ石油会社」を設立した。このことを知って当時アメリカに留学中の山本五十六が、1921年、石油産業の視察のなかで岸コロニーに立ち寄ったことがある。日本の将来を見据えて石油資源に関心を抱いていた山本だが、数年後にも再び岸コロニーを訪れ、石油採掘現場を視察した。 2人の間には石油以外にも共通するものがあった。山本の生家も新潟の長岡で、吉松氏の実家と非常に近い。また山本の兄弟は吉松氏が日露戦争のときの仲間だったという縁があった。 その後石油は先細りとなり吉松氏は会社を売却、その利益でコロニーへの投資者に、投資額を3倍にして返済したという...

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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その2/4

その1を読む>> 栄えたウェブスターの日系コミュニティー 西原が入植したウェブスターは、ヒューストンから南東へ車で30分ほど。そのまま南へ進めば、メキシコ湾に突き出たガルベストンの町につく。グレン・キャンベルのヒット曲「ガルベストン」に歌われた町だ。 ヒューストンからは真っ平らな土地をひたすら走ればいい。私が訪れたのは7月の初めで、照りつける陽射しがきつかったが、日本ほどの湿気はない。 ウェブスターには、西原以外にも数多くの日本人がかつて農業を営んでいた。いまもそのうち何家族かが暮らしている。香川米吉氏から始まるカガワファミリーはその1つだ。愛媛県出身の香川氏は、1907年に渡米、西原のように農園経営を始めていた大西理平氏の下で労働者の監督として働いた。 大西農園は、米価の暴落などが原因で1924年に解散となったため、香川氏は独立してウェブスターで野菜耕作を始め、とくにオクラ専門の農家として知られた。 彼は、一度郷里に帰り結婚、妻の喜知さんをテキサスに迎え入れた、2人の間には6男6女の12人の子供ができた。このうち、ウェブスターに住む5女のマーサ・グリフィスさん宅を訪ねた。 ハイウェイ45号を降りてまもなく、静かな緑濃い住宅地の一角にグリフィスさんが暮らす家がある。刈り込まれた芝と茶色の外壁、そして白い窓枠がテキサスの夏の陽射しを受けてきれいなコントラストを描い...

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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その1/4

テキサスと聞いて、何を思い浮かべるだろうか。カウボーイ、バーベキュー、NASA(米航空宇宙局)・・・。ヒューストンなど先端産業で知られる都市もあるが、どちらかといえば、野趣あふれる、昔ながらのアメリカといったイメージが強いのではないか。 メキシコ湾に面し、全米でアラスカに次いで面積の広いこの州(日本の約1.8倍)は、独立心の強い風土があり、テキサスのアメリカ人はAmerican(アメリカ人)ではなくTexan(テキサス人)だという言葉も聞かれるくらいだ。 そのいかにもアメリカといった土地に、100年以上前、何人もの日本人が大規模な米作りに挑み入植した。 日本が開国してまだ30年余。国内で満たされない夢と情熱を携えて、彼らは個人としてテキサスに乗り込みコロニーをつくった。それはどのようなものだったのか、あまり触れられることがなかったテキサスへの入植について、現地の様子を含めて報告したい。 その前に、テキサスでの日本人の足跡に簡単に触れておこう。19世紀末からのアメリカへの日本人移民は、出稼ぎ的な労働者が中心だったが、テキサスへの移民は、最初から資本を投下して、事業として農業経営をする例が目立つ。当時の国勢調査によれば、テキサス州での日本人の数は、1900年はわずか13人で、1910年には340人、1920年には449人となっている。 事業として農業を興す 入植者...

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マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ ~ その3/3

その2を読む>>フィッシャーに重用された後に独立 約4年間働いた後、重三氏は独立して兄の長太郎氏とマイアミビーチ市内で園芸・造園のための「Miami Beach Nurseries」という“店”を開いた。「Nurseries」というのは、植物を育てて管理しそれを販売するという業種だ。まもなくして長太郎氏は日本に帰国し重三氏が事業を切り盛りした。 「日本に帰ることがあったとき、フィッシャー自身が重三のために紹介状を書いてくれたんです。いまでもそれは取ってあります」と、ジョーさんが保管していた手紙を見せてくれた。 フィーシャーの自署があるタイプされた手紙は、1920年5月10日付。そこには、「彼は非常に能力があるばかりでなく、あらゆる点で正直で信頼できる人物である。彼がわれわれの造園事業に素晴らしい結果をもたらしてくれた」と、絶賛している。 そして最後に、「彼のこれまでの給与は月に115ドル」だったことを記している。1920(大正9)年に月給115ドルは、かなりの高額だった。これらを見ても明らかなように、彼はフィッシャーの信頼が厚く会社への貢献も大きかったようだ。 マイアミビーチ市内では、住宅開発が続き富裕層が集まり、造園の仕事は順調に推移した。当時店の前で撮影された写真を見ると、木々の前で大きな自家用車(プリモス)と一緒にスーツやワンピース姿...

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マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ ~ その2/3

その1を読む >> 実業家、カール・フィッシャーの下で 遅れたフロンティアであるフロリダがアメリカ合衆国の1州に加わったのが1845年。アメリカインディアンが暮らす一部を除いて、この州の南部はほぼ未開で、無人島だったマイアミビーチもこのころから農園の開発が行われた。 1896年に北から延びた鉄道がマイアミまで敷かれると、避寒地として人気を集めたこの地にはホテルが立ち並び、マイアミビーチでも不動産の開発が始まる。この事業に乗り出したなかで最も有名な人物がカール・フィッシャーだった。 中西部インディアナポリス出身の彼は、さまざまな事業を手掛け有名なインディアナポリスのカーレースの発展にも投資、貢献、アメリカを横断する高速道路の建設も実現した実業家だ。1910年にバケーションでマイアミを訪れたのをきっかけに、マイアミビーチの開発に乗り出した。 土地を取得し木々を根こそぎ伐採し整地、その一方で浚渫による土砂を利用して土地をならし宅地として分譲。並行して道路を造りホテルを建設した。彼が目指したのは、富裕層のためのリゾート建設で、島を横切る通りには椰子の木を植えて、高級ショッピング街を造った。 開発に伴う土地の売買が盛んになり、フロリダの最初の土地ブームが起きたのもこのころである。1時間のうちに土地の値段が変わっていくこともあったという。 1920年には1000人しかいかなかっ...

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