Laura Honda-Hasegawa

Laura Honda-Hasegawa nació en São Paulo, Brasil en 1947. Trabajó en el área educativa hasta el 2009. Desde entonces se ha dedicado exclusivamente a escribir, lo cual es su gran pasión. Ella escribe crónicas, historias cortas, poemas y novelas, todos bajo una perspectiva nikkei.

Última actualización en septiembre de 2018

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デカセギ・ストーリー

第三十五話 ようやく、にっぽん! 

両親が出会ったのは24年前。9歳のときから家族と日本で暮らしていた母は、親戚の結婚式に出席するためにブラジルに戻ってきていました。父は、新郎の親友で、めったに着ないスーツ姿で式に参加していました。

ふたりとも一目ぼれだったかどうかは、はっきりとは分かりません。「パッと見たときの印象がとても良かったのよ」と、母が照れて言うと、父は「着ていたキラキラのスーツのせいかもな」と。

当時、母は20歳。横浜のデパートの化粧品売り場で働いていて、いろいろ習い事をしていました。26歳の父は、両親と祖母と弟と2人の妹とサンパウロで暮らしていて、大きな自動車修理店を経営していました。

出会ってから半年後、二人はブラジルで結婚しました。両親の当初の計画は2年以内に日本で暮らすことでした。母は、すぐにでも家族が居る日本へ帰りたいと思っていましたが、父の仕事が順調で、まだ学生だった妹たちの学費や病気だった祖母の医療費を父が払っていたこともあり、ブラジルで二人の生活は始まりました。1年後、長男と長女の双子が生まれ、3年後には僕が生まれました。そのため、両親は子供たちが小学校を卒業するまではブラジルに居ることにして、子供たちが7歳になると日本語学校に通わせました。「いずれは日本で暮らすことになるので、日本語をしっかり勉強しなさい」と、母は僕たちを応援してくれていました。

ところが、僕が8歳になった時、ブラジルは経済危機に陥りました。父は長年営んでいた店を閉めて、祖父と日本へ出稼ぎに行きました。父は、兄と姉が高校を卒業し、僕が中学校を終えるころに、僕たちを日本へ呼寄せる予定でした。一家そろって暮らせる日を待ち望んで、皆、頑張りました。日本で育った母はブラジルの料理が大好きになり、知り合いのレストランで修行までして、日本でブラジル料理のデリーバリービジネスを始めるプランを立てていました。ブラジル生まれの祖母は、「向こうの人ら、わしの日本語分かるかなぁ」と、心配をしていました。

そんなある日、僕の成績が下がり、母が校長先生に呼び出されました。校長先生は、僕が日本語学校に通っていることを知ると、日本語の勉強を中止するようにと言いました。「日系人の生徒によくあるケースです。お家では日本語を使うので、ポルトガル語が上達しないのです」。

それを聞いて僕は驚きました。「家で僕だけが日本語を使わないのに、なんで?」と。母も校長先生のいうことに納得できなかったようですが、結局、僕は日本語学校を止めて、苦手だった国語と歴史の勉強に集中しました。

2016年、中学3年の一学期の終わりに、僕は大事故にあいました。土曜日の夕方、友達とスケートボードで遊んだ帰り道、大通りを歩いていた僕は、突然、数メートル投げ飛ばされました。気がつくと、僕は病院にいました。母と祖母と兄と姉の顔を見て、ホッとしたのを覚えています。 

あの日、僕はスポーツカーに跳ねられたのです。その時、足を骨折し、頭と顔に重傷を負いました。運の悪いことに、「ハッシャ」という違法なレースをしている車に巻き込まれてしまったのです。

その後、僕は数ヶ月の治療と自宅療養をしいられ、二学期を終えることができませんでした。そして2016年12月、祖母と兄と姉が父のいる日本へ行きましたが、家族でいろいろ考えた結果、僕はブラジルに一人残ることになりました。

母は、兄たちが日本へ行った後2ヶ月ほどブラジルに残り、僕の新しい生活の準備をしてくれました。僕はごはんの炊き方から洗濯と掃除の仕方まで母に習いました。僕の新しい住まいは父の弟のアパートでした。リオで仕事をしていた叔父は、2週間ごとにアパートへ帰ってきました。最初は戸惑いましたが、新しい生活には思ったよりも早く慣れたと思います。スケジュールはこのようでした。午前6時に朝食、6時40分に地下鉄駅へ、7時30分~午後3時は高校、午後4時から日本語と英語の教室、土曜日は部活とパソコン教室、日曜日は選択と掃除。叔父が家に居るときは、シュハスコ1やピザをレストランで食べるのが楽しみでした。

「もう少しの辛抱だよ」と、日本へ行った家族はいつも励ましてくれました。おかげで、僕は無事に過ごすことができたのです。感謝です。

高校卒業直後の2019年12月、僕はようやく憧れの日本に来ることができました!

父と祖父は名古屋の自動車部品工場で働き、いつか自動車修理店を開く目標をもって頑張っています。

母はブラジル料理のデリーバリービジネスを始めて順調にいっています。

僕の自慢の兄さんは、東北大学薬学部に進学し、来年卒業予定です。

僕の自慢のお姉さんは、ケーキ工場でアルバイトをしたことがきっかけで、パティシエの資格を取りました。今は、名古屋の洋菓子店でやりがいをもって働いています。

82歳の祖母は、今まで触ってもみなかった携帯をうまく使うことができるようになったととても喜んでいます。もうひとつハマッテいることは、氷川きよしの歌を聴くことです。

そして僕は、日本語の勉強を頑張りながら、デカセギの子供たちを下校後に預かる施設で、子供たちの宿題を見る手伝いをしています。母のデリーバリーの電話注文を取る手伝いもしています。そして、父が車の修理店を始めたら、そこで働くつもりです。

日本は最高!頑張ります!

注釈

1. 肉料理

 

 

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デカセギ・ストーリー

第三十四話 コロナによる突然の帰国

日本へ行ったのは1997年。姉は26歳、わたしは18歳でした。姉のご主人のマサオさんは半年前から豊橋市の工場で働いていたので、私たちはバラバラにならないように同じ町で仕事を探し、ようやく姉はパン屋、わたしはブラジルの商品を扱う店で働くことになりました。

月日が経ち、2008年に姉夫婦は2人の子供を連れてブラジルへ戻りました。その頃、両親はサンパウロ郊外に住んでいましたが、5年後に父が亡くなり、母は姉の家族と暮らすようになりました。

姉たちは大きな二階建ての家を手に入れ、一階をリフォームして雑貨店を開きました。姉夫婦は雑貨屋で生計を立て、母は二階で孫の面倒を見ながら家事を手伝い、皆、忙しい日々を送っていました。

一方、わたしはブラジルの商品を扱う店で働きながら美容師の資格を取りました。その後、浜松市に引越し、ビューティーサロンで働くようになりました。

28歳のとき、豊橋に住んでいたころに知り合った日系ペルー人のウゴさんと浜松で再会し、1年後に私たちは結婚しました。両方とも親戚が多いので、式はブラジルで挙げて、新婚旅行でペルーへ行きました。大勢の人に祝福され、私たちは日本で出会うことができて、本当に良かったと思いました。

長男が4歳のとき、夫婦で初めて里帰りをしました。それ以降、わたしと息子だけでブラジルへ帰省していましたが、息子が小学生になってからは難しくなりました。帰省できなくても、便利なことに、電話でブラジルの家族と簡単に話しができるようになっていたのでとても助かりました。母は電話越しに、いつも時間をかけて、家族のエピソードをテレビドラマのように話してくれていました。

しかし2ヶ月半前のことです。母から電話があり、「大変!今病院なの。マサオさんが・・・」と言って電話が切れました。私は何度もかけ直しましたが、コロナ渦で外出制限中にもかかわらず、姪も甥も誰も出ませんでした。

母の伝え方が気になって、親戚に次々と電話を掛けました。ここ最近、ブラジルで新型コロナウイルス感染者が増加し、大変なことになっているというニュースを耳にしていたので、とても心配になりました。まさかと思いましたが、マサオさんがコロナウイルスに感染して入院していることが分かりました。

重症化せずに、早く良くなりますようにと願いつつ、マサオさんは健康に気をつける人だからと自分を落ち着かせました。しかしその10日後、マサオさんが亡くなったとの知らせが届きました。死因はやはりコロナだったため、マサオさんの遺体は病院から直接火葬場へ運ばれました。家族に見送られることもなく悲しい別れだったとのこと。

「え!?どういうこと?姉と子どもたちはどうしてるの?」

私は居ても立ってもいられませんでした。夫がチケットを用意してくれたので、私は急いでブラジルへ帰国しました。

帰国し改めて話を聞くと、この2ヶ月はとても大変な状況だったようです。マサオさんがコロナウイルスに感染し入院すると、その5日後に今度は姉と2人の子供が入院しました。まもなくマサオさんは急死しましたが、その間全ての世話をしてくれたのが兄でした。

以来、母は兄の家に住んでいたようですが、わたしがブラジルへ戻ると、母は家に帰りたいと言い出したのです。その「家」とは、昔、家族5人で暮らした広い家のことでした。母が姉一家と暮らすようになってからは、空き家になっていたので、3日がかりで掃除をし、母はその家で新たな生活を始めました。

わたしは高校を卒業してすぐ日本へ行ったので、母と過ごす時間が少なかったことを後悔していました。今こそ、たくさんの親孝行をするチャンスだと思い、今までできなかったことを、ここぞとばかりにに始めました。母に料理を作ったり、髪を染めてあげたり、肩もみもしたりとささやかな親孝行に励んでいます。

昔、家族で聞いた美空ひばりのレコードや録画した日本のドラマを、まるで初めてのように、私たちは楽しんでいます。今では母の笑顔を見ることが一番の喜びになりました。

姉と姪は、先日、退院して自宅で療養して回復しています。甥は、まだ、入院中ですが、無事に乗り越えるようにと願っています。

日本に残った夫は経営しているビューティサロンを一時閉めて、家で息子との時間を満喫しているとのことなので、何よりです。

そして母は「大丈夫。なんとかなるさ」と言い、朝は庭の手入れと食事の支度、昼は手芸、夜はテレビを見たり音楽を聴いたり、毎日を楽しく過ごしています。今置かれている状況をあまり不安がっていても良いことはありません。これは、母が教えてくれたことです。

 

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Kizuna 2020: Nikkei Kindness and Solidarity During the COVID-19 Pandemic

パンデミックのさなかに見たコミュニティの絆 - その2

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懐かしい日本の歌との再会

ステイホーム中、友人と日本のテレビ番組や日本の歌謡曲のビデオなどのやり取りを良くするようになりました。私のスマートフォンに届いた最初の動画は「上を向いて歩こう」でした。私は坂本九の歌声を聴き、とても懐かしく感じました。なぜなら、この歌は私が2001年から2007年まで司会を続けたラジオ番組のテーマソングだったからです。毎朝、あの美しいメロディと歌詞をバックに「オハヨウ・ボンディア」と、視聴者に挨拶をし、数々の日本の歌を紹介していました。

そして私は、この有名な曲を、日本の人気歌手16名が自宅で歌い、それをつなぎ合わせたものがネットで反響を呼んでいるのを知りました。タイトルは、「日本を元気に!みんな歌って『上を向いて歩こう』」。新型コロナウィルスの影響下、世界中に元気と希望を届けるために発信されたたもので、私はこの曲を聴いて感動しました。日本の歌に詳しくない友人は、全員の歌手の名前を順番に知りたがりました。

このようなコラボレーションは、ブラジルの日系人歌手の間でも行われました。世界的に有名な曲「We are the World」を英語だけでなく、日本語「こころをひとつに」とポルトガル語「Um só coração」でも歌いました。こちらも動画として配信されています。また、2014年のロンドリーナ80周年記念の際に日系人グループが制作した動画がスティホームを応援するためにと、再び発信されています。この動画では、東日本大震災(2011年)の復興を応援するために制作されたチャリティーソング「花は咲く」を歌うロンドリーナの市民団体の歌声が町の風景とともに紹介されています。ロンドリーナに住み始めたばかりの私の心を温めてくれる動画の一つです。友達もこれらの曲からたくさんの元気をもらっています。

このように特別に作られた曲でなくとも、一般的に日本の曲は日系ブラジル人へ多くの元気を与えているようです。「実際に、ある友人に「これからどんどん送ってね。義兄は病気してから元気がないんだけど、日本の歌を聞くと元気になるの」と言われました。また、母の日には「かあさんの歌」や「母へのメッセージ」の歌ビデオを受け取った日系ブラジル人のお母さんも多く、皆感動したと言っていました。

また、「サライ」(1992年)、「風に立つライオン」(1987年)、「君といつまでも」(1965年)、「ありがたやありがたや」(1960年)、「関白宣言・替え歌」(2020年)、「乾杯」(1980年)など、様々なジャンルの日本の歌が、最近、日系ブラジル人の間でシェアされているようです。これらの歌を、ステイホームになって初めて聞いた人も多く、私の友人は歌詞はよく分からないけれど、日本のものだから好きだと言っていました。

ステイホーム中の日系ブラジル人を楽しませくれてるのは、日本の歌だけではありません。ラジオ体操、筋トレ、リフレッシュ体操、日本のことわざ、CM、沖縄のオバーのラッキョウ作りなどなどたくさんあり、コロナ渦の中、私たち日系人に元気を与えてくれていいます。不思議なことにパンデミックの最中、日系人は以前より「日本」に心が引かれているようです。

日本に憧れるブレノ君

ブレノ君は父方のいとこの孫息子で高校3年生の17歳。私がブレノ君と初めて会ったのは1年前で、大好きな曾祖父への敬意を表すために入れたという彼の左腕の『日本』というタトゥーが印象的でした。去年8月からカナダでホームステイをしていましたが、新型コロナウイルスの影響で早めに帰国しました。

帰国直後、いとこから連絡があり、「ブレノが日本語を習う決心をしたの!知り合いから本を借りて勉強をし始めたの」と、嬉しそうに話してくれました。日本文化に触れない環境で育った5世のブレノ君が日本語を勉強したいというのは素晴らしいことです。私は早速、3カ国語の辞典を届けました。

日本に興味があるとのことなので、私たちはメールで連絡を取りあうようになりました。私はブレノ君へ日本語のオンライン講座、日本の映画、NHKワールド・プレミアムの番組情報などを紹介しています。ブレノ君は興味深くいろいろ尋ねてくれるので、とても楽しくやり取りをしています。

やり取りをしているうち、ブレノ君は国際関係学部を目指しており、卒業後は、外交官になって日本で働きたいとのこと。私は驚きました!昔の自分を思い出させたからです。私がブレノ君と同じ年代の頃、「ラウラは外交に向いている」と父が言いました。結局、私は国語と文学部に進学しましたが、父の言葉は未だに忘れられません。そして、1972年に初めて来日して以来、私の夢は日本で働くことなんです。いとこは『遺伝だわ』と、ブレノ君を応援しています。私も頑張っているブレノ君にエールを送っています。

新しい仲間との出会い

6月18日はブラジル移民112周年記念日で、16日に私はロンドリーナ州立大学歴史学科、東洋文化研究グループ(GPECO)による「ブラジル日系文学」のビデオ会議に招待されました。

この会議を担当していたのが、大学院生ウエノ・マガリャンイス・マルティナ・ルアナさんでした。ルアナさんとは、私がまだロンドリーナに移住することを考えてもいなかった頃、修士論文に私が初めて出版した小説「Sonhos Bloqueados」を選んでくれたのが縁で、連絡を取るようになりました。

今回のビデオ会議では、この「Sonhos Bloqueados」に描かれている当時の環境、日系人を主人公に選んだ理由、読者の反応、文学関係者の感想について話す機会を持ちました。

この本は、1991年6月18日に発行されたものなので、29年たった今になってその話しをするのはとても不思議な感じがしましたが、ビデオ会議なので私は緊張もせず発表することができました。また、この会議で、日系ブラジル人小説家としての道のりを若い世代に伝えることができたことは、パンデミック中の素晴らしい体験の一つです。これからも、生き甲斐として書き続けていきたいと改めて思いました。


今後の日常

ハツコさんの家で1ヵ月お世話になった後、私は自宅に戻りリフォームを終わらせ、今でもステイホーム中です。年齢を重ねるにつれ、どうやったら、自分が居心地が良いのかがだんだん分かってきたような気がします。世界中の人々が悲しさ、寂しさ、不安の中で生きている時、私はただ神様に感謝して毎日を過ごしています。全てが早く元に戻るようにと願うばかりです。

 

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Kizuna 2020: Nikkei Kindness and Solidarity During the COVID-19 Pandemic

パンデミックのさなかに見たコミュニティの絆 - その1

ロンドリーナでの新しい生活

生まれ育ったサンパウロを離れ、パラナ州ロンドリーナ市へ移る決心をしたのはちょうど1年前でした。退職して19年が経ち、私ももう73歳。いろいろと考えた結果でした。

ロンドリーナに引っ越すことにした理由は、私のルーツが辿れる場所だからです。ここには母方の祖父が汗を流して作り上げた農園が「Jardim Honda」という都市区画になって残っていますし、母が青春を過ごし、結婚後両親が暮らし始めた町でもあります。親戚は少ないのですが、母方の叔父の奥さんのハツコさんと2人のいとこも住んでいます。

今年の1月から新型コロナウイルスのニュースを耳にしていましたが、それは遥か遠い国々で感染拡大の問題だと思っていました。2月26日、私は何の不安もなくロンドリーナへ転居し、新しい生活を始めました。

しかし、引っ越しから2週間後、新型コロナウイルスによる感染症対策として突然ステイホームするよう命令が出されました。部屋のリフォームが始まったばかりで、キッチンにシンクはなく、家具がそろっていない状態でした。このような部屋で生活するのは大変だと、しばらくハツコさんの家にお世話になることになりました。

最初は戸惑いもありましたが、のです。

ステイホームを始めてから、お互いの助け合う姿や、思いやりの気持ちに触れることが多くなりました。また、ステイホームをしているからこそできた素晴らしい体験もありました。ここでは、私が感動したいくつかの出来事や発見についてお話したいと思います。

ハツコさんのステイホーム

ハツコさんは、毎週ジムとラジオ体操へ通い、自分で買い物をする元気で活発な81歳。しかし、ステイホームが始まってからは、時々落ち込む姿を見せるようになり、血圧が上り、イライラするようになりました。そして、毎日「外の様子を見に行かなきゃ」と近所を歩き回ったり、すれ違う人に話し掛けるようになりました。

このような新しい状況を受け入れるのは簡単なことではありません。私は、ハツコさんが心配でした。

ステイホームが始まってから数日後、長年の知り合いからハツコさんに「新物の里芋が届いたから、娘がお宅に届けるよ」と電話がありました。その晩、ハツコさんは張り切ってとても美味しい里芋の煮っころがしを作りました。

日が経つにつれてハツコさんは、ジムに通う友達、県人会の会員、親戚、そして隣近所の同い年の奥さんたちと電話で話しをするようになり、徐々に元気が戻ってきました。

そして今では近所のある奥さんは「今、行くよ」と電話を掛け、ハツコさんの家の前にレモンやアボカドの袋を置いて、そのまま帰るのが習慣となりました。ハツコさんの2人の妹と弟の1人は、自家製のケーキやパン、庭で取れたマンゴー、頂き物の肉まんや巻き寿司などをハツコさんのところへ届け、一方ハツコさんは自慢の白菜の漬物をあげるようになりました。

ソーシャルディスタンスを守るため、訪れた人は家に入らず、マスクをしたままで、ブラジル人だったら当たり前のハグもしないで帰って行く、そんな不思議な光景を何度も見ました。ハツコさんが元気を取り戻してきたのは、このようなみんな支えがあるからです。皆で、ステイホームを守り、お互いの絆を深まっていく姿は素敵だなと思いました。

教会からの思いがけない呼びかけ

私はサンパウロに居たころからホーリネス教会のメンバーだったので、ロンドリーナへ引っ越してからもホーリネス教会に通いました。ホーリネス教会は1925年、日本人移民のために日本からの牧師先生により、サンパウロに創立されました。ロンドリーナのホーリネス教会は1938年に建てられ、現在メンバーは204人、そのうち日本人と日系人の数は181人です。

ロンドリーナの教会の皆さんはとても親切で、私を喜んで受け入れてくれました。日曜日の朝は聖書の勉強会に参加し、礼拝では牧師先生の日本語のメッセージを聞き、日本語で賛美歌を歌います。私の母国語はポルトガル語ですが、日本語で神様のことを聞くのがとても好きなので、楽しいひとときでした。礼拝の後は「アルモッソ・昼食」があり、人気のカレーライスや焼きそばを食べながら、皆でいろいろな話しをし、まるで大家族のようです。

ところが、新型コロナウイルスの影響で、引っ越しから1ヵ月も経たないうちにロンドリーナのすべての教会は一時的に活動を停止せざるを得なくなりました。突然、私の大好きな集まりも中止になってしまったのです。そこで私は、早く元に戻れるようにと願いながら、牧師先生方のメッセージをネットで拝聴し始めました。

ステイホームが始まって一週間半経ったころ、ヤヒロ・ヂルマ先生から連絡がありました。「教会で、今、マスクを作り始めています。量が多いので、誰かミシンで縫える人が必要なの。ラウラさん、洋裁できる?」

ロンドリーナ・ホーリネス教会は、新型コロナウイルス感染症対策のために、10,000枚のマスクを病院や老人施設に寄付するプロジェクト「SOS Máscaras」を立ち上げた

私は若いころから自分のブラウスやスカートを作っていますが、私はプロではないですし、そのマスクは医療用なので、最初はできないと思いました。しかし、助けになればとボランティアとして喜んで教会のプロジェクトに参加させて貰うことにしました。

私がこのプロジェクトについて話をすると、長年服の仕立てをしていたハツコさんは、ミシンや縫糸などを提供してくれました。私は2週間で90枚のマスクを仕上げました。教会は、素材のカットからマスク作りまで大勢の助けを借り、10,000枚寄付という目標を達成できました。

その後私がマスクを作っているのを知ったハツコさんの妹は、新聞に載ったマスクの型紙を届けてくれました。ロンドリーナのある日系人芸術家がデザインしたもので、顔にフィットする布のマスクが作れるとのことで、私は早速作ってみました。 

病院で働いているハツコさんの姪は、自分用と同僚用マスク10枚を注文してくれました。いとこ達からも「欲しいわ。仕事場で必要だから」と、8枚を頼まれました。ロンドリーナはマスクの使用を義務化したブラジル初の町だとテレビで知りました。

少しでも人の役に立てたことを嬉しく思いました。お陰で、心に残る経験ができ、ステイホームが楽しい毎日となりました。

友人との絆

私は4年ほど前からスマートフォンのアプリを利用して、毎朝、友人11人へメッセージーを送っています。「おはようございます。良い一日を」のメッセージに、聖書の言葉と祈りを添えた挨拶です。以前は11人のうち4人が必ず「応援ありがとう。励みになります」と返信してくれました。パンデミックが発生してからも同じようにメッセージを送っているのですが、今では全員から「どうもありがとう!今日も頑張ります。ラウラさんも気をつけてね!」といった、思いやりの気持ちが込められたメッセージが戻ってくるようになりました。人と人の繋がりは深まるほど、心が癒されます。このような時期だからこそ、このような絆を実感できるのは、とてもありがたいことで、これからも大切にしたいと思います。

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デカセギ・ストーリー

第三十三話 「カレンが日本へ戻らないって」

高校生だったトシエは、同級生のイヴァンと結婚し、その5ヶ月後に双子の赤ちゃんを産んだ。当時19才だったイヴァンは大学進学を諦め、スーパーのレジ係、自動車部品店店員、タクシードライバーなど、職を転々とした。しかし、家計は苦しく、家族を残して日本へ出稼ぎに行った。

双子のカレンとカリナはすくすくと育ち、3才になった。家族全員で一緒に暮らすため、子供を連れトシエも日本へ行くことにした。今まで一度も働いたことがなかったトシエだったが、夫と同じ工場で働くことになった。自分たちが働いている間、娘たちの面倒を見てもらうため、父親が経営する飲食店を手伝っていた母にも一緒に日本へ来てもらうことにした。

そしてその2年半後、トシエは男の子を出産した。しかし、産後の肥立ちが悪く、退院が遅くなった。退院後もトシエの体調はなかなか回復しなかったので、イヴァンは休暇を取って妻の看病をし、トシエの母は、小学生になったばかりの孫と新生児の世話をはじめ、家事一切を受け持った。

冬になってもトシエの体調は戻らなかったので、イヴァンの冬休みを利用し、家族全員でブラジルに一旦戻ることにした。

12月24日、親戚たちはトシエと家族を暖かく迎えてくれ、とても楽しいにぎやかなクリスマスパーティをしてくれた。幼いころにブラジルを出たカレンとカリナは両方の祖父母に可愛がられ、プレゼントをいっぱい貰って、生後10ヶ月の弟と楽しそうに遊んで、とても嬉しそうだった。

大晦日には、トシエの両親が借りてくれた海岸の別荘で、親戚15人が集まり新しい年を迎えた。トシエは親のありがたみをしみじみと感じた。学生のころは、家族の集まりよりも友達を優先し、母親の手料理を一度も「美味しい!」と褒めたことがなかった。それなのに、母親は家業を辞めてまで、日本に一緒に行ってくれ、いろいろ助けてくれている。感謝の気持ちでいっぱいになったが、なんの言葉も出てこなかった。

翌年の1月6日、イヴァンは日本へ戻った。1月17日が誕生日の母は、もう少しブラジルに居て、自分の誕生日を、皆で一緒に過ごしたいと思っていたので、とても残念がった。

イヴァンが日本へ帰ってすぐ、カレンが「ブラジルの方がいい。ここにずっと居たい。マリアナとラファーとも一緒に学校へ行けるし、チヤ(おばさん)のお家のプールで遊べるし、フェイラのパステール1もいつも食べられるし・・・」と、幾つかの理由を並べた。

最初、トシエは子供のただの気まぐれだと思ったが、妹のカリナにふと尋ねられたことがとても気になった。「ねぇ、ママ、ブラジルの学校でもイジメってある?」

「カリナ、なんでそういうこと聞くの?お姉ちゃんが学校でイジメにあってるの?そうなの?」

カリナは何にも言わなかった。トシエはますます心配になり、色々と考えた。長男が生まれ、自分の入院が長引き、夫が休暇を取って看病してくれていた間、子供たち、特にカレンに何が起きたのかあまり考えていなかった。そういえば、明るい性格のカリナは弟ができたと喜んだが、カレンはしょんぼりし、学校を休んだことが何度かあった。工場での仕事がとても大変で、子供たちの教育をおばあちゃんに任せっぱなしだったトシエは反省した。

その夜、日本に居るイヴァンに電話をした。「カレンが日本へ戻りたくないって」

「いいじゃないの。ブラジルでのんびりさせたら?」と、イヴァンは当然のことのように言った。

そして、母と子供たちと日本へ戻るか戻らないかを話し合い、ブラジルに残る決心をした。

トシエの母ははすぐに賛成!夫が経営する飲食店で、あと3~4年働こうと決めた。孫たちが小学校を終えるまではブラジルで過ごし、その後また日本へ戻り勉強させたらどうかとも提案してくれた。

以来、トシエは慣れていない買い物や家事育児に専念し、両親も孫たちとの時間を楽しんだ。4年後、皆で、日本で暮らすことが、トシエの人生の目標となった。

その日まで、皆、頑張ろう!


注釈:
1. 朝市で食べられる出来立ての「パステル」は、四角くて大きくて、揚げ餃子のような味がするブラジルのソールフード。

 

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