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日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《バンクーバー・戦前編》

第2回 新光社「日本唄放送」

「日本唄放送」番組関係者(写真出典: 日系文化センター・博物館)

第2回目として日本語放送の先駆けとなった新光社の「日本唄放送」を紹介する。

1935年3月にある放送局から日本語番組を放送したいとの話が加奈陀日本人会に寄せられた。日本人会では番組編成や広告集めは出来ないとのことで、経験者の露木海蔵(神奈川県出身)に白羽の矢が立てられた。「経験者」と書かれているものの、露木にラジオ放送の経験があるということではない。露木は映画巡業会社「新光社」を設立し、日本から無声映画フィルムを輸入し、それを持ってカナダは勿論のこと、国境を越えてワシントン州のシアトルやオレゴン州のポートランドあたりまで足を延ばして日本人の住んでいる町で映画上映会を催していた。上映にあたって木戸銭に加えて広告集めもしていたのかもしれない。加えて露木は映画説明者(弁士)としての才能も発揮していた。弁士で鍛えた声はアナウンサーとしてもうってつけであった。

かくして1935年6月から新光社による月一回の日本語放送がCJOR局から開始されることになった。CJOR局は500ワットの送信出力を有し、当時バンクーバーで一番強力な放送局であった。

番組内容

第1回目の番組は1935年6月16日の21時に開始された。折しも日本の航海練習所所属の練習船海王丸がバンクーバーに寄港していたことから、海王丸歓迎番組が編成された、領事挨拶、日本人会長の挨拶、宮本吉太郎船長の挨拶、乗組員の合唱等が記念すべき初放送の電波に乗った。

第2回目は7月21日に行われ、長唄「鶴亀」、小唄「唐人お吉」、民謡「おけさ節」等が生演奏で放送された。この番組は「予想外の好成績を収めたので是に力を得」(『大陸日報』1935年8月5日)、第3回目の放送を行うことになった。

1935年12月1日はスティーブストン村特集とし、露木からの依頼を受けた同村櫻花会の三尾留吉が推薦した中津輝夫、寒川美代、西百合子、佐々木奴、脇田千代、河野政子らがマイクの前に立った。ある出演者は、日本にいたら放送に出演することなど考えれられず、また、ラジオなど聞くこともなかったであろうとして、「なんちうしあはせ、なんちう幸福です」と喜びを表現した。また別の人は「あたいの声日本へまでとどくかしら」と期待を膨らませていたそうである(『大陸日報』1935年12月4日)。

この回の番組は好評で、別の日にはフェアビュー、ニューウェストミンスターやライオン島等、日本人が多く在住する地区の音楽好きの人を集めた番組を放送した。

「日本唄放送」と称されたこの番組でレコードがかけられることはまれで、地元音楽家による生演奏を主体とする番組を続けていた。出演者で特徴的なのは、日本人経営の料亭(レストラン)の女将や芸妓が大々的に起用されたことである。当時流行していた小唄、端唄、常磐津、都都逸等の邦楽について、パウエル街近辺に点在する千鳥亭(玉子)、金太郎(笑子、文子)、玉川(百合子)、楽々亭(メリー、ヘズル、たま枝)、日の出(八重子)、日の丸亭(文子)、福助亭(文子、美恵子)、だるま亭(八重子)所属のベテラン勢にお座敷がかかった。また、熊野吉夫(ハーモニカ)、熊野光信(歌)、中村哲(歌)、井出律子(ピアノ・歌)、武内愛子(歌)、酒井岩一(ハーモニカ・ピアノ)等の二世音楽家をはじめ総勢80名を超える出演者が番組を盛り上げた。

「日本唄放送」とはいうものの、歌以外の出し物も企画された。漫談「カチグリさん」(柳谷やのすけ)、義太夫「御所櫻堀川夜討 弁慶上使の段始終の様子より」(鶴澤勝糸)、筑前琵琶「湖水渡り」(川野ゆきの)等の語りものや、詩吟「台湾入り」「川中島」(池田忠平)、趣味講演「聖母マリアと日本女性」(松本雲舟)、講演「日本人の健康に就て」(石井康領事)、講演「夏を迎えての注意」(日本人健康相談所)、ラジオドラマ「忠臣蔵五段目、彌五郎勘平出会の場」(西澤晩香・橘香)等も評判を呼んだ。また、珍しいところでは北米巡業でバンクーバーに滞在していた浪曲師壽々木米若が1935年11月11日の放送に生出演し、挨拶と浪花節の口演を行った。

当初は月に1~2回放送される番組であったが、1936年8月以降不定期番組となり、1936年10月、1937年4月と続き、1937年5月10日の放送をもって日本唄放送に関する番組予告が一切報道されなくなった。多分この日が最終放送になったものと思われる。合計で20回を数えた番組であった。


番組関係者

最後に番組関係者をまとめておく。日本語アナウンスは露木海蔵が担当した。第6回(1935年11月)からは英語のアナウンスを入れることとし、野球チームのバンクーバー朝日軍で活躍していた中村宏が登場した。第7回以降は弟の中村哲(サリー)に交代した。第17回(1936年8月)からは女性英語アナウンサーとして歌手の井出律子(リリー)が加わった。

ところで、日系文化センター・博物館に番組の写真(上記)が残されている。左上から中村哲、露木海蔵、熊野光信、熊野吉夫、左下から寺北フジエ、楽々亭メリー(推定)、楽々亭ヘズル(推定)、井出律子(推定)で、1937年4月8日のメリーさん送別番組の記念写真と思われる。

 

*本稿は、月刊『ふれいざー』(2022年3月号)からの転載です。

 

© 2023 Tetsuya Hirahara

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Sobre esta serie

カナダへの日本人移民の歴史は1877年に永野萬蔵が渡航したことから始まるとされる。19世紀末頃よりバンクーバーのパウエル街に日本人町が徐々に形成されていった。在留邦人数の増加に伴い、日本人社会の動静を伝える重要なメディアとして邦字新聞の大陸日報が1907年に創刊された。一方で、新しいメディアであるラジオ放送についてはバンクーバーでは1922年3月にプロビンス紙がニュースを流すテスト放送を開始したのが嚆矢とされる(後のCKCD局)。これに続き、同年に4局が立て続けに開局し、1920年代には現在のラジオ局のルーツとなる局が出そろった。しかしラジオで日本語番組が流されるまでには十数年の年月を要した。それまで在留邦人はシアトル等で行われていた日本語放送や、不安定ながらも日本からの中波や短波の放送を受信していた。本シリーズでは戦前にバンクーバーで行われていたラジオ日本語放送および日本音楽番組の歴史を4回にわたって紹介する。

*本シリーズは、平原哲也氏の著書『日本時間(Japan Hour)』からの抜粋で、月間『ふれいざー』からの転載です。

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シリーズ「日本時間 ~日本語ラジオ放送史~」