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戦前シカゴの日本人

シカゴの女性宣教師と日本人女性たち - その1

神戸女学院の女学生(写真提供:Life and light for woman. v.43, 1913, Hathitrust Digital Library)

戦前シカゴにやってきた日本人の掘り起こしを進めていて、一番心を惹かれ、元気をもらうのは何といっても明治女性たちの心意気と才能に触れるときだ。彼女たちのエネルギーから浮きあがってくるのは、出会いに彩られる人生の不可思議と歴史なるものの滋味・妙味である。

戦前シカゴの日本人の特徴はクリスチャンが多かったことだ。25年以上にわたってシカゴの日本人を対象に伝道活動を行った島津岬は、1914年に日本人キリスト教会を設立した。一方、仏教会は、収容所からシカゴへの転住者が増える1944年まで存在しなかった。ハワイでは1894年、サンフランシスコでは1899年に仏教会ができていたのとはいい対照を見せている。 

今からさかのぼること150年前の1873年3月末、日本はキリスト教を解禁した。そのわずか一か月後にシカゴの女性宣教師たちが日本に向かった。男性宣教師たちは、解禁前からすでに日本に渡っており、長老派が関東で、組合教会派は関西で活動していた。シカゴの組合派の神学校(Chicago Theological Seminary)を卒業したダニエル・クロスビー・グリーン(Daniel Crosby Greene)とジェローム・ディーン・デービス(Jerome Dean Davis)は、1872年に神戸で伝道を始め、学校を開いた。そして二人は、女子教育もはじめようと、シカゴの婦人伝道局(Woman’s Board of Missions of the Interior)を通して、二人の女性宣教師を日本に呼びよせた。

その一人が、イリノイ州ネイパービル出身のジュリア・ダッドレー(Julia Dudley)である。ジュリアは、シカゴの貧困層を対象にセツルメント「ハルハウス」を開いたことで知られる女性社会福祉活動家ジェーン・アダムス(Jane Addams)の母校、イリノイ州ロックフォードにあった女学校(Rockford Female Seminary)で教育を受けていた。

もう一人は、コネチカット出身のイライザ・タルカット(Eliza Talcott)だった。神戸に着いた二人はさっそく8歳以上の少女20人を集めて、小さな私塾をはじめた。

シカゴの北、エバンストンの町では、さっそく二人を支援しようという動きが起きた。1874年5月、エバンストンの教会は、120ドルの寄付金を神戸に送り、学校で学ぶ日本の少女たちの手紙が欲しいとメッセージを託した。「手紙は英語に翻訳していただくに及びません。こちらの日曜学校にジャパニーズボーイがいて、翻訳してくれますから」と書き添えていた。ジャパニーズボーイとは、神戸でグリーンから英語を学び、ノースウェスタン大学(Northwestern University)の予備クラスで学んでいた澤山パウロである。ジュリアとイライザの私塾は、1875年に寄宿学校「神戸ホーム(Kobe Home)」となった。 

神戸ホームは1879年に神戸英和女学校(Kobe Girl’s School)となり、1882年に最初の卒業生12名を送りだした。1894年には神戸女学院(Kobe College)と改称した。今日の名門神戸女学院大学の前身である。

神戸女学院(写真提供:Life and light for woman. v.43, 1913, Hathitrust Digital Library)

一方、ジェローム・ディーン・デービスは、1875年に、妻ソフィア(Sophia)とともに神戸から京都に移った。新島穣が同年に開いた同志社英学校を助けるためである。デービスの自宅では、ソフィアが3人の生徒とともに女子塾をはじめた。翌1876年4月、この女子塾に赴任したのがアリス・J・スタークウェザー(Alice J. Starkweather)である。シカゴの郊外エルジンの町で教師をしていたスタークウェザーは、澤山パウロらに見送られて日本に渡った。1877年、女子塾は同志社女学校として正式に開校し、1882年に第1回卒業生5人を出した。

1883年にスタークウェザーが帰米すると、ソフィアと同じイリノイ州ダンディ出身のメリー・エレン・ウェインライト(Mary Ellen Wainwright)が1887年に、翌1888年にはメリー・デントン(Mary Denton)がカリフォルニアから同志社女学校にやってきた。ウェインライトは音楽の専門教育を受けたはじめての宣教師であり、デントンは、イリノイ州エバンストンに本部をおく婦人キリスト教禁酒同盟(The Woman’s Christian Temperance Union)の南カリフォルニア支部のメンバーだった。  

婦人キリスト教禁酒同盟は、1886年に宣教師メリー・レヴィット(Mary Leavitt)を日本に送った。レヴィットは、6月から12月のほぼ半年間、東京から長崎まで日本各地で講演を行い、日本人クリスチャンたちに大きな影響を与えた。彼女の主張に深く共鳴した女性たちは、同年12月、東京で、矢島楫子を会長に、会員56人でもって、東京婦人矯風会を発足させた。その支部は全国で組織された。

頌栄幼稚園のアニー・ハウ(写真提供:Life and light for woman. v.22, 1892, Hathitrust Digital Library)

同じく1886年、イリノイ州オークパークでは、ロックフォード女学校を1869年に卒業した幼稚園教師のアニー・ハウ(Annie Howe)が、一時帰国したジェローム・ディーン・デービスの講演に感銘を受けていた。翌1887年、シカゴの婦人伝道局(The Woman’s Board of the Interior)は、宣教師になることを決意したアニーを神戸に送った。 アニーは1889年に神戸に頌栄幼稚園を設立、1927年に帰国するまでの40年を、自らを「Jap Annie」と呼ぶまでに、日本の幼児教育に多大な貢献をした。

関東で活動した長老派の女性宣教師の中には、シカゴの長老派婦人伝道局(Woman’s Presbyterian Board of the Missions of the Northwest)が1883年に日本に送った最初で最後の婦人宣教医がいた。シカゴ女子医科大学(Woman’s Medical College of Chicago)を卒業したサラ・K・カミングス(Sarah K. Cummings)である。サラが赴任した長老派金沢ステーションは、イリノイ州ゲールスバーグ出身で、シカゴの長老派神学校(Presbyterian Theological Seminary of the Northwest)を卒業したトーマス・ウィン開教使(Rev. Thomas Winn)が1879年に開いたステーションである。妻のライラ(Lila)もゲールスバーグ出身だった。

このように、イリノイ出身のさまざまな宣教師たちがその人脈を日本の津々浦々にまで広げ、明治日本で女の新しい生き方を模索した志高い日本女性たちをシカゴに向かわせた。

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© 2023 Takako Day

Chicago Japan missionaries religion women

Sobre esta serie

これまで日本人移民史といえば、ハワイと西海岸を中心にして語られてきた。日本人の人口が多く、日本町では多くの物語が生まれたからだろう。戦前シカゴには日本町はなかった。国勢調査によると、日本人の人口は1930年が最大だったが、524人を数えたにすぎず、中国人2757人の5分の1ほどだった。1930年のシカゴ市の人口は約338万人。その中の500人あまりは、吹けば飛ぶような存在と見なされても当然だろう。

しかし、そうではなかった。数は少なかったが、日本人には存在感があった。「たった一人」の存在感である。それはまさしく、未開の土地を自分の手で切り開いていったアメリカ人のパイオニア精神にも匹敵する存在感といってもいいだろう。戦前シカゴの日本人は、今日まで続く日本人に対する一般的なステレオタイプ、たとえば集団で行動するとか「顔」が見えないといったイメージを自らの手で破り、生き生きとシカゴで生活していた。このシリーズでは、「たった一人」でシカゴのアメリカ社会に向き合ったユニークな日本人たちを紹介する。