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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第17回 眠れる夜に思い出すこと 

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。1960年の後半は、姪からの手紙と写真に目を細め、相変わらず故郷のことや昔の自分を思い出している。突然、自分は親に愛されていなかったとも振り返る。台風の襲来、作物、長年痛めている歯の治療について。そしてサンクスギビングやクリスマスのことを報告している。

* * * * *

1960年6月24日

〈日本の安保騒動について心配〉

玲さん(姪)、お手紙と写真有難う。新聞と雑誌が3回に分けて着いた。無聊に苦しむ私にはなによりの慰安です。

あんたの写真がよく撮れている。少しやせ気味だが、見違えるほど綺麗(キレイ)になった。中々シャープなスタイル、さすが餅は餅屋だ。太らず細からず、すんなりとした美しい足を望まぬ者はない。身体の均整のとれたいい二十歳以上の今の日本の女性には多く望めぬ。

なるだけ座るのを避け、適当な足の運動、たとえばダンスとか、テニスとか、ハイキング等がよろしいと思う。私は子供の頃から足が弱くて、三歳位まで、ろくに歩けなかった。修学旅行(昔はバス等なかった)や水泳には随分苦しんだ。この年になっても苦しんでいる。

玲さん、あんたの家は日本式ですか。私はこちらに来てから、一度も座った事もないし、お辞儀した事もない。今は座るどころかあぐらもかけぬ。腰かける以上に脚が曲がらないのです。だから日本に行った場合、困る事だろう。まさかお膳を股に挟んで食事も取れまい。

日本の暴動(注)も先ず落ち着いて私たちもホッとした。日本でも随分騒いだろうと思う。先達て送った本が目方の点で返ってきた。今度は小さな包みとして送る。

(注)1959〜60年の「60年安保」をさすと思われる。

京都もだんだん発展して、住宅区域が拡張されて行くらしい。日本は相変わらず住宅難で困っているようですが、こちらは新しいモーダンな住宅があり余る程あって、日本のような、敷金とか権利金などいる面倒な事はなしで、どんなのでも借れるし、また、月賦で買えもします。

あんたが丁度、生れた頃、米治(弟)が手紙で「兄さん、余裕でもあったら京都の山の手で借家を四、五軒も建てたらどうか」と私に勧めたことがある。その頃、既に住宅は払底していただろうし、私も一時日本の土地に投資しようと思ってあちこち土地の値段などについて問い合わせたが、返事一つよこさなかった。

今日は曇天、風が少ないから蒸し暑い。こんな日には手紙も思うように書けぬ。


〈何を食べようか〉

暑気と運動不足のため食欲がとんとない。何を食べてもまずい。こちらは夏になると、地方物がなくなり、値はずうっと上がる。午餐を食べなかったので、腹が空いて、さて晩餐は何にしょう? フライ、チキン、フレンチフライポテト、ハットビスケツト、トマトとレタスのサラダ。デザートはチョコレートアイスクリーム、さらにアイスティー。中々御馳走だ。レストランのメニュー同様、注文は何にするか未定。

新聞や雑誌類の送料を面倒でも目方が五听(ポンド)以上にならぬように願います。たとへば十听の本を一包にして送ると、三弗近い郵税がかかるが、十听の本を二包にすると、二弗で送れます。


1960年9月5日

今日はレーバーデー(労働祭)。朝からの曇りで風もない。1千500哩(マイル)の東南から時速170哩の台風「ドナ」がフロリダ目がけて一直線で進行中だ。今、午前11時過ぎ、ポストオフイスから帰ってきた。誰からも便りがなかった。

午後、デンティスト(歯医者)に行った。古い歯の根っ子を三、四本抜いてもらったがかなり痛かった。まだづきづき痛む。

学校で修身を教えぬこの国(今は日本も同じだろう)でも、親は大切にする。日本によくある見せかけ孝行でない、日本の軍人が死ぬ時に天皇陛下万歳を唱えると聞いていたが、実はお母さんと母の名を呼んだのである。

昔、親が年老いて働けなくなると、息子が背負って深山へ捨てに行った。一人の母が息子が帰る途中、迷わぬようにと、木の小枝を折って置いた。私のおばあさんの話で、私は子供心にも哀れに思い泣いたのを今でも覚えて居る。私は不幸にも父からも母からも愛されなかった。こちらに来る時も泣いてくれたのは末の弟の米治だけであった。


1960年9月20日

〈金はあてにならない〉

玲さん、16日付のお手紙ありがとう。今アメリカは表面は好景気のようですが、事実は余りよくなく、一時は盛んだった住宅建築策もばったり止み、大工、左官等の職人は仕事がなく、食うに困っています。その結果、金融は逼迫、大ホテル、大会社はもちろん、世界で一、二を争う大農園までが経営困難の状態に陥り破産したものもあります。

私の関係している一会社も赤字続きで株主一同、頭を痛めております。万一破産でもしたら私も大影響を蒙ります。前にも言った事と思うが、お金位あてにならぬ物はありません。今日の大富豪家も何かの調子で一夜のうちに食うにも困る悲境のドン底に陥ることもあります。

私も幾度か、そんな目に遭いました。しかし今度は何が起きようと世界や内乱でも起らぬ限り私の老後の生活費やあんた達の学費にこと欠く事は絶対ありませんから、こちらは心配せぬように願います。

台風「ダナ」は幸い、当市を外れてたので、ほとんど被害はありませんでした。フロリダの南端まで来た時、大陸からの気圧に押されて急に回れ右し、半島の西海岸へ沿って北上、斜めに半島を横断して、大西洋に出て東北へ走り紐育やボストンを突いて北大西洋に消えて行きました。

死傷者はわずかでしたが、家屋、道路、農産物は莫大な被害を蒙りました。まだ書きたい事は少なくありませんが、スペースがなくなったからこれで止めます。

1960年10月4日

玲さん、しばらく便りがないが無事か。多分、試験で忙しかったことと思う。永らく降り続いた雨もようやく止んだがまだ曇りがちだ。畑が少し乾いたら自家用の野菜の種を少し蒔きたいと思う。大根、蕪、葱。それから明子の好きなニンジン、トメトも数本植えよう。とにかく休んでばかりいると、運動不足で身体に故障が起きる。

食欲は減じ、夜は眠れぬ。私の頬もこの頃、少しコケたようだ。どうしたことか、近頃余り夢を見ない。多分種切れになったのだろう。眼の具合はずっと好い。いくら寝ても寝足りない。


〈幼くして死んだ弟を思い出す〉

あんた達には信じられまいが、夜、寝られないのは中々苦しい。燈を消してじっとしている。眼はますます冴えて朝の3時頃かと思って時計を見る。やっと12時過ぎだ。眠れぬと色々と、昔の事を思い出す。

先夜も私の幼いころの事を思い出した。あんた達は知らまいが、私にはもう一人弟があった。徳二といった。二つ程年下だった。おとなしい児でほとんど泣かなかった。味噌汁や煮た麦粉の団子—(ロクトー)と言った—を箸の先に刺してやると、両手で持ってフーフー吹きながら喜んでたべた。

三つの頃、ハシカ(熱病)で死んだ。母が小さな棺桶におおいかぶさってオイオイ泣いたのを覚えている。彼の石塔は墓の西北の隅にあった。高さ一尺五寸位な灰色の小判型の自然石で、戒名は何とか童子だったがはっきり覚えていぬ。私には姉と一人の妹があった。姉はぜんぜん知らないが、妹は末子でトメといった。

今日、またデンティストへ行った。私の大好きなブロンドの娘さんは見えなかったが、他の(女性)がいた。髪が黒、眼の大きなフランス系の人で、また異なった美しさがあった。 


1960年10月6日

長い間、降り続いた雨もようやく止み、次第に秋らしくなった。日本の高島屋がマイアミ(南へ50哩)に純日本的なデパートを開く。久し振りに美しい日本の娘さんが見られる。

歯はまだ治らぬ。上の歯茎が厚過ぎて下のとシックリ合わぬ。止むなく全部半分位の厚さに削り取った。歯グキの芯があんな固い物とは知らなかった。全く骨と同じだ。肉を切り開き機械でガリガリ削り取り糸で縫い合わせた。一時間近かったが別に大した痛みはなかった。

夜になりシビレ薬(麻酔薬)が薄らいで来ると、ヅキヅキ痛み出して血も止まらず、ほとんど一睡もしなかった。二日ほど顔がバルーンのように腫れ上がり、口もろくに開かなかった。後二週間ほどで治ると思う。


〈嫌いだったポテトが今は〉

11月24日はサンクスギビングデー。久し振りに新しい歯でターキーが食べられる。人間の嗜好は年と境遇で変わる。私は子供の頃ポテトが大嫌いであった。毎日毎日、小粒なのを皮つきのままご飯に混ぜたり、汁の中に入れて食わされた。そっと膳の隅へ押しやると、父からグッと睨まれた。

こちらへ来てからは野菜はポテトとアニオン(玉ねぎ)だけで、青野菜は冬季に自分で作るものの外は払底で高値、貧乏人の口へは入らなかった。その中、眼をつむって飲み込む程、嫌いだったポテトが人並みに好きになり。今はベーキポテト、フライドポテト、マッシユポテト、ポテトチップス。ポテトと名のつく物は何でも好きになった。

日本ではそろそろ松茸のシーズンで好いな。フロリダは一面松林だが松茸は生えぬ。ピンキー(猫)は今、TVの前に座りターザンを一心に見ている。東京の松茸の相場は一本二、三百円。随分高値だ。

来週、大家さん達が三、四日の予定で北部へカーで出かける。一緒に行かぬかと勧めてくれたが、ピンキーをほっておいて行く訳には行かぬ。誰か留守中、世話してくれる者があれば出かけられるのだが。


1960年11月15日

玲さん、(誕生日の?)お祝いありがとう、覚えていてくれたのはあんただけだ。私自身忘れていた。ピンキーはいなくなった。少し旅行したいがほっておく訳にはいかぬ。思い切って猫好きな知人へ託した。

旅行の行先はまだきまらぬが探検ではない。日本へもソッと行き、帰って来くるかも知れぬ。あんたには是非逢いいたい。


〈郷里の小学校改築に寄付を〉

一年ぶりで弟から手紙が来た。どうした風の吹き回しかと思ったら小学校改築についての寄付金依頼だ。世話になった母校だ、出来るだけの事をしよう。急に涼しくなったためか、また足腰が痛く嫌になってしまう。

故郷の宮津市から送られた、小学校改築にあたって寄付をしたことへの感謝状

一時、たねきれだった夢も近頃、チョイチョイ見るようになった。相変わらず、取りとめのない物ばかりだ。恋心、覚えはじめた頃の幼な友達だったり、人里離れた山奥の一人住まいだったりする夢は寂しい独り者には何よりの慰めだ。


1960年11月28日

玲さん、こちらはXマス前なので、大変な景気、ハイウエーへなど危険でうかうか出かけられぬ。毎日のように、死人やけが人の騒ぎだ。日本も前代未聞の好景気だそうだが、余り調子に乗り過ぎぬようにしてほしのだ。悪い事が続かぬように、好い事も続かぬのだ。

私の歯はまだ治らぬ。今年いっぱいかかるだろう。治っても治らなくても、お雑煮の餅はないのだから、大した事ではない。

先週は寝通した。サンクスギビングのディナーには二人から招かれ行けなかったが、どちらも、御馳走をうんと持って来てくれた。友は持つべきものだ。今日はこれきり。さようなら。


1960年11月30日

〈寂しく、孤独だ〉

玲子さん、人間が希望を失った程、惨めなことはない。私のように一生、苦闘を続けた者には一層深刻だ。私は白状する。私は今、いい知れぬ寂しさに悩まされている。私は帰ったら救われるのか?

私の郷土愛は人並み以上だと思う。昔のままの山や川が眼に浮かばぬ日とてない。だが、心置きなく語る友は一人もいない。私は最早、日本人ではないのだ。あんたは遠からず卒業する。お嫁さんにでも行けば、話もできぬ。私は今、孤独だ。


1960年12月×日 

玲さん、手紙有難う。今日は随分と冷たく北風がビユービユー吹いて雪でも降りそうな空模様だ。寒くなると、昔の炬燵が思い出される。もうすぐお正月だな。

歯が直ったらウンと食ってみたい。弟から京都の新聞が来た。私の寄付が仰々しく書き立てられている。とうとう成功者へ祭り上げられてしまったが、それでも褒められると、悪い気はせぬ。


1960年12月22日

〈腹が痛くなるほど餅を喰いたい〉

玲さん、アメリカのXマスは日本の盆と正月が一度に来た様な騒ぎだ。何所の家でもXマストリーを飾り、無理算段してプレゼントのやりとりする。子供達は大喜びだ。日本の正月と変わりはない。子供の頃のことが思いだされる。今と違っておもちゃ一つ貰えなかったが、好いべべ(着物)着て、御馳走を食らってうれしかった。小学2年の頃、おばの一人が正月で二銭銅貨を一枚くれた。帯でクルクル巻にして学校へ行った。

帰ってきて、紙と鉛筆を買いに店によったら、お銭がなくなっていた。落としたのだ。私は学校まで引き返して探したが見つからなかった。その頃の二銭は貧乏人の子供には大金だった。私はながい間、学校の行き来で道を見つめて歩いていた。

私は餅が大好きだ。白いの黄色いの黒のどれも好きだった。煮たのも、焼いたのも好きだった。横腹が痛くなるほど食いたい。今も好きだ。歯は治ったが餅はない。夢で見るより外ない。

こちらはまだ寒い。北風がビュービュー吹くと心まで氷るような気がする。暖国に住む人には寒さが何よりつらい。北は大変な寒さで死人も少なくない。私は相変わらず、足の具合が悪い。冷えるのが何よりの害だ。ヒーターの側でこの手紙を書く。

年の暮れ、何となく気が陰鬱となる。新年になれば気も変わろう。来年は如何したものか、色々と考えてみる。したい事は山程ある。成るも成らぬも足の具合一つだ。

さて玲さんの夢は? 卒業、就職、結婚も悪くないな。グッドラック。

(敬称略)

第18回 >>

 

© 2019 Ryusuke Kawai

family florida Sukeji Morikami yamato colony

Sobre esta serie

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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