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「左翼インテリ」の系譜: ロマンに生きた異色のブラジル移民群像 ~その2

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代議士の地位を捨て、愛と南米開拓のロマンに殉じた山崎釼二

戦後の左派移民の代表格は山崎釼二(1902―1958年、静岡県御殿場市)だろう。

彼は1931年に沼津市議当選、翌32年には社会大衆党の常任執行委員に就任したほか、35年に静岡県議当選と駆け足で経歴を積み上げた。

37年4月の衆院選ではトップ当選(静岡二区)を果たし35歳にして政治家の階段を上り詰めた。39年に2つ年上で社会主義運動の同志、藤原道子(岡山県出身)と結婚した。

波乱万丈な山崎の生涯を余すところなく記した記念碑的労作『波瀾の南十字星』(岩田さやか、三一書房、94年)
ニッケイ新聞《戦後移民60周年》=聖南開拓に殉じた元代議士 山崎釼二=『南十字星は偽らず』後日談

『波瀾の南十字星』(岩田さやか、三一書房、94年)によれば、プロレタリア作家、徳永直が2週間、若き山崎夫婦の家に泊まり込んで取材し、農民運動小説『赤い恋』を書いたほど注目された。

しかし大政翼賛体制が徹底されていく時代の波にもまれ、40年には山崎が属した「社会大衆党」は解党の憂き目に遭い、労働運動も禁じられた。政治活動に限界を感じた山崎は、南方に活路を見出そうと、42年4月に妻子を残して焼津の漁船に神戸埠頭から単身で便乗しボルネオに密航を図った。

ボルネオ守備隊参謀長は、山崎の無謀とも言える行動を意気に感じ、陸軍司政官としてケニンガウ県知事に任命した。反乱を起こしたこともある激しい土地柄だったが、通訳とたった二人で現地入りして待ち構えた地元民を驚かせた。

〝名知事〟として現地では親しまれ、自ら現場監督となってジャングルを伐採し、飛行場兼用の約20キロの幹線道路「ヤマザキロード」を作った。現地人社員の妹・阿燕(アイン)を見初めた山崎は秘書、現地妻として愛した。42年当時、山崎は40歳、アインはまだ17歳。

敗戦後の46年に帰国した際、男としての責任を強く感じた山崎は、アインと現地で生まれていた二人の子供を連れ帰ったため、国内では「二人妻」事件と呼ばれ、マスコミは大騒ぎした。

左がアインさん、奥が坂尾さん、右が山崎釼二(坂尾英矩さん所蔵)

山崎らが帰国したのは、女性が初めて投票、立候補を許された最初の総選挙(46年)の直前だった。この時、正妻の山崎道子は社会党から要請されて立候補し、県1位で当選を決めた。二度目の衆院選の時は夫婦が同じ選挙区(静岡二区)で争い、道子は当選し山崎は落選、立場は完全に逆転した。

一方、山崎は49年の沼津市長選挙に革新派から出馬して、自由民主党候補に競り負けた。51年にいったん沼津市議には返り咲いたが、52年の衆議院選挙でも8位で落選…。

その翌年、アインの手記を原作とする同名の映画『南十字星は偽らず』(新東宝)まで制作され、高峰三枝子がヒロインの山崎アインに扮して話題を呼んだ。アインとの長男が沼津海岸で溺死、次男も日本脳炎を患うなどの不幸に襲われた。山崎は政治家の道を諦め、54年に「アマゾン移住」で第二の人生に挑戦することを選んだ。

アインが南洋の気候を懐かしんだこともあり、「ボルネオにおいて成し遂げられなかった開拓の夢を南米で実現しよう」と考えた山崎は、アマゾン河流域で手広く事業を展開していた同郷者の山田義雄(静岡県沼津市出身)を頼って渡ったが、折り合いが合わず、すぐにサンパウロに渡った。

とんでもなく不便な土地にある「ペルイーベの農場」を見学に行った坂尾さん(手前)、奥が山崎釼二(坂尾英矩さん所蔵)

その後、山崎はサンパウロ州南部海岸地方のペルイーベのブラジル人耕地で、開拓地の仕事を請け負って働いていた。サンパウロ市の東洋街にアパートを借りて妻子を住まわせ、単身赴任でその農場に向かった。

1年間ほど山崎のアパートに下宿した経験のある坂尾英矩(ブラジル音楽評論家)によれば、山崎はよく「日本で代議士までやった人が、こんな辺鄙なところに来て開拓して何になる?」との質問を受けたが、そんな時、「ある一つのことを信じて、ひたすら開拓に努力する、それだけでいいじゃないか」と答えていたと思い出す。

坂尾は「ボルネオ人から親しまれる県知事になるだけの器のあった人、正義感、熱血漢の人だった」と故人を偲んだ。

渡伯4年目、ようやく仕事が軌道に乗り始めた矢先、58年1月31日に山崎はサンパウロ市内のサンタクルス病院(旧日本病院)で肝臓ガンのために死去し、異例の県人会葬が営まれた。

高齢を押して僻地開拓に従事し、無理がたたったのだろうか――享年55。松本圭一らが率いる静岡県人会は、山崎を悼んで手厚く県人会葬をした。

ロマンに生きた左派移民

「移民」という〃人種〃にインテリが少ないのにはわけがある。まったくの異文化に適応するには、ある種の「いい加減さ」が必要だが、インテリは「ものごとはこうあるべき」と理詰めで考えがちなところがある。その結果、自分が人格形成した環境をきっちりと移住先に再現したいと考えがちになり、大変な苦労をした末、「途中であきらめる」という過程をたどりがちだからだ。

経済的に言えば、家庭の財政状態がしっかりしていた方が、幼少時から良い教育が受けられ、結果的に高学歴になりやすい。つまり、裕福な家庭の方がインテリになりやすく、「より良い生活を求めて」移住する群れとは一線を画する部分が最初からある。

人格形成の点からいっても、教育が少ない人の方が「理屈がすくない」特徴がある。「こうあるべき」の部分に「いい加減さ」が多く、「高い理想をもとめない」態度が身についている。だから、理想と現実が違っていても、どこかの時点で比較的素直に、「『郷に入っては郷に従え』だからしようがない」と妥協、納得しやすい部分がある。

ブラジルの日本移民社会の中心層は、貧しく低学歴の地方農村出身の家族であり、家長は農家の次男、三男だった。そんな彼らが「日本型の村社会」を南米の再生しようとしながら「郷に入っては~」と現地適応しながら、日本的な考え方や文化を一部に残してきた動きの総体が「コロニア」という日系共同体の歴史といえる。

そこでは留学生や高学歴者はごく少なく、日本から革新的な政治思想が持ちこまれても、広まる素地はなかった。もちろん在伯同胞の発言が、日本で注目されることもほぼなかった。そんな中で、数少ないながらも前述のような左翼インテリという流れがあった。

左派移民は一様に、理屈をこねらせれば一流だが、商売がへたくそだった。苦しい生活の中でロマンに生きた、どこか人間臭いものたちだった。

 

© 2016 Masayuki Fukasawa

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