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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(4)

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3. 沈黙をやぶって———賠償運動   <1970年代から1980年代 >

60年代のアフリカ系アメリカ人の公民権運動とマイノリティ(少数派民族)運動に力を得た日系の若い二世、三世も、大学にアジア研究学部を創設し、アジア系や女性の教官を増やすようにと声をあげはじめます。トパーズ収容所では赤ちゃんだったカシマも、この頃にはゴードン・ヒラバヤシの弟のジムとデモの先頭に立っていたと言います。ある三世の言葉です。

黒人運動がなかったら我々もなかったでしょう。確かにそれを境に、自分が何者なのかわかるようになり、誇りに思い始めたのです。また政治的に戦闘的とさえ言っていいくらいとても攻撃的になり、我々が何なのか、我々は今や立ち上がり、もうこれ以上は許さないということを主張しようとしていたんです。1

この目覚めが、日系社会におこったことをこれ以上黙認してはいられない、収容体験者が苦しんでいる罪や恥の意識を取り去るためにも賠償運動が必要だと、二世、三世を突き動かしたのです。「[賠償運動]は、おとなしい[日系アメリカ人]というステレオタイプの拒絶で、不正があればそれを認識し正す、新たな[日系アメリカ人]の誕生を象徴するものです」2

1970年「戦時中の日系人に対する収容、抑留、公民権及び憲法上の権利の否定に対し」政府の謝罪と賠償を求めることをJACL全国大会で決議。それを受けてシアトルのJACLはこの件を調査するボランティアを募り、数人のボランティアの中に、ヘンリー・ミヤタケ(本シリーズ第一章、第二章、第三章、第四章)がいました。ヘンリーはそれまでにも賠償にむけてワシントン大学法学部の図書館で数々の判例を調べていたのです。ヘンリーたちは「シアトル強制立ち退き賠償委員会」を設立。賠償金は日系コミュニティへの信託資金として受け取り、コミュニティセンター、博物館設立のために使おうとするエディソン・ウノ案と「それでは田舎にすむ一世には何のメリットもない。個人別賠償にすべきだ」とするヘンリーのシアトル案との調整と、「いまさら波風をたてなくても」とする日系コミュニティと、「金銭的賠償は日系アメリカ人兵士の犠牲を安っぽいものにすることになり、反日感情を再び刺激する事にもなりかねない」とするJACL幹部の合意をとるために、地道な話し合いが続きました。

一般市民に戦時中日系社会におこったことを知らせることも必要でした。メディアを通して、アメリカの暗い過去を知ったアメリカ市民の多くも、憤りを感じることになり、体験者の中からも、インタビューを受けたり、自伝を書いたりする人がでてきたのがこの頃です。

ようやく本格的に賠償運動に取り組むべく、1980年7月には、連邦議会に任命された「戦時転住及び抑留に関する委員会」が発足します。委員会は、1年半かけて強制立ち退き、強制収容に関するあらゆる資料を洗い直し、政府と米国陸軍の司令について再検討する一方、アラスカを含めたアメリカ各地で直接体験者の話を聞く公聴会を催しました。公聴会では、500人以上の体験者が、今まで家族にも伏せて来たことをはじめて話したのです。じかに聞く体験者の重い証言は、委員会のメンバーだけでなく、新聞やテレビで一般家庭にも届けられ、多くの人の心をうごかすことになりました。1983年、委員会は、調査結果を報告書Personal Justice Deniedにまとめ、強制収容がおこなわれたのは、軍事的必要性ではなく、人種偏見、戦時下のヒステリー現象3、政治のリーダーシップの欠如だったとし、4ヶ月後には、政府に公式謝罪、個人別賠償、啓蒙活動の支援を含めた救済案を勧告しました。

これで一安心ですが、休むわけには行きません。再び下院議員のノーマン・ミネタとロバート・マツイ、上院議員のダニエル・イノウエとスパーク・マツナガの協力を得て、多くの賠償運動家がワシントンD.C.に度々かよい、議員一人一人を説得してまわりました。まさに草の根運動でした。アメリカ憲法発布200年にあたる、1987年9月17日、下院で賠償法案が通過。1988年4月20日に上院でも可決。1988年、8月10日、レーガン大統領がCivil Liberties Act of 1988(市民の自由法)に署名。生存中の収容所体験者の中で一番年長の方々に公式謝罪と一人、2万ドルの賠償金が手渡されたのは、さらに2年後の1990年10月でした。残念ながら、エスターには間に合いませんでした。

公式謝罪と賠償は、一世、二世が受けた傷を癒し、失った自信を取り戻すことにつながりましたが、その前に、日系人が押し黙っていた体験を、自分の言葉で話すことが必要でした。ようやく声をあげるきっかけとなった第一回追想の日のことと、公聴会のようすと賠償運動にも弾みをつけたゴードン・ヒラバヤシの再審の話をお届けします。


第一回追憶の日———1978

シアトルでの第一回追憶の日スケジュール(1978年11月25日)(写真:Shosuke Sasaki Collection, Densho; Densho ID: ddr-densho-274-136)

難航する賠償運動にやきもきしている頃、「シアトル強制立ち退き賠償委員会」に二人の若者がやってきました。中国系劇作家のフランク・チンと若い三世フランク・アベ4です。フランク・チンのアイディアで計画されたのが1978年の「追憶の日」。36年前の強制立ち退きを追体験してみようとの試みでした。日系コミュニティへのお知らせは、強制立ち退きの告知のように電信柱に貼られ、36年前と同じように、シアトルからピュアラップまでバスや車を連ねて行こうというものです。実行委員の一人はこう語ります。

それを企画した時、一体何人やって来るだろうって話してたんだよ、実は。もし100人でも集まればいい方だろってね。スタジアムに行って車の列を見た時、「これは———何て素晴らしいんだろう!」と思った。「こいつら、やっとその気になったんだ!」と。目の前の大きな群衆を信じることが出来なくてね。それは本当に目を見張るばかりの出来事だった。5

ピュアラップに着くと、一人一人家族の番号札をつけて有刺鉄線の囲いの中に。この日のためにこしらえたバラックの部屋で、実際につかわれていた生活用品の展示、政治家や体験者のスビーチ、持ち寄りのポットラックランチ、タレントショーまであり、収容経験のない三世や四世から質問を受けて、ぼつぼつと話し始める体験者の姿も見られました。

多くの人が泣いていて、感動で胸が一杯になったんでしょうねえ。しかし、僕の経験は恐らく他の人とは随分違ったものだったと思いますよ。僕はとても力強く、僕たちみんながそこにいることをとても嬉しくおもったんです……。あの行事によって、もっとあんなことが公になるように、人々に体験について語ってもらうために、もっと多くのことを知るために、人々と力を合わせてやっていきたいという動機が決定的に芽生えてね。それはある種のカタルシスのようなものだったんです。追憶の日が人々に語ることを許したんです……。だからコミュニティとして、僕たちに———それはとても精神療法的な役割を果たしたんです。6

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注釈: 

1. 竹沢泰子著、「日系アメリカ人のエスニシティ———強制収容と補償運動による変遷」東京大学出版会 1994

2. Sandler, W. Martin. Imprisoned: The Betrayal of Japanese Americans During World War II. New York: Bloomsbury Publishing Inc., 2013.

3. カシマは、「戦時下のヒステリー現象」が直接強制立ち退き、強制収容に結びつくとは考えにくいとの立場をとっています。理由は、ヒステリーがおこったのは真珠湾攻撃後のことで、主に西海岸のみの現象だが、強制立ち退き、強制収容を決めたのはワシントンD.C.で、ワシントンD.C.では、開戦前から日系人の強制収容の計画が練られていた。これについては、これからも新しい資料が出てくる可能性があるとします。

4. フランクは徴兵拒否をした人々をテーマにしたドキュメンタリー映画を撮っています。Abe, Frank. (Director/Producer) (2011). Conscience and the Constitution: They fought on their own battlefield [Documentary Film]. Resisters.com Production.

5. 前掲「日系アメリカ人のエスニシティ———強制収容と補償運動による変遷」
実際には参加者は2,000人に及びました。

6. 前掲「日系アメリカ人のエスニシティ———強制収容と補償運動による変遷」

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第137号(2014年4月)からの転載です。

 

© 2014 Yuri Brockett

Day of Remembrance redress movement seattle

Sobre esta serie

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。