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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(2)

「諸君は敵と戦っただけでなく、人種差別とも戦かった。そして勝ったのだ」- トルーマン大統領(1946年 7月15日) (写真:アメリカ陸軍)

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もう一つの戦い 

数々の手柄をたてたシロー・カシノたち第100歩兵大隊1を含む第442連隊戦闘部隊を前にして、1946年7月15日、トルーマン大統領は、ホワイトハウスの庭で「諸君は敵と戦っただけでなく、人種差別とも戦かった。そして勝ったのだ」と語りました。第442連隊戦闘部隊はその活動期間と規模からして、アメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊です。

しかし、これだけの活躍をして帰って来た第442連隊戦闘部隊の兵士たちにたいしても、一般市民が彼らの活躍を正当に認めるには長い時間がかかっています。本土に帰還した当時、ダニエル・イノウエがサンフランシスコでハワイに戻る前に散髪でもと店に入ろうとすると、軍服を着ていたのにもかかわらず、「日本人だろう。日本人の髪は切らないんだ」と言われています。1959年ハワイから下院議員に選出されたダニエル・イノウエ議員が星条旗に向って左手をあげて忠誠の誓いをしている新聞の写真を見て、読者からの「どうしてあの議員は右手をあげて宣誓しないのか」との抗議の手紙をうけて、編集者は「イノウエ議員はイタリアで戦った際に右手を失ってしまったのです」と説明しています。

シローたちがシアトルにもどってきた時にも、アメリカの復員軍人会、陸軍軍人会に入会しようとしても、すべて拒否されています。そこで立ち上がったのが剣道クラブ。立ち退き前は道場だった建物を1,000ドル(約10万円)という破格の安値で兵士たちに譲りました。これで戦地に行っていた兵士たちが同じ経験をしたもの同士にしか分かり合えない思いを語る場所ができました。そういう場があったことで、兵士たちの極度の精神的外傷が和らげられたと言います。日本語学校から歩いて行ける距離にあるこの建物は現在もNVC(二世復員軍人)記念会館として、コミュニティの集まりや講演会に使われています。シローの数々の勲章もここに収められていますし、戦後シローと結婚したルイーズ・ツボイ・カシノは80歳を越えたいまでもこの会館の婦人部で活躍しています。2

一方、日系社会のなかでの差別に苦しんでいる人々がいました。徴兵拒否をした若者とその家族は、日系社会から村八分にされ、肩身の狭い思いをしています。徴兵拒否をしたジム・アクツの母親はシアトルに戻ってきたものの、行く先々で「おくびょうものの息子」との声をあびせられ、いままで親しくしていた人々も一人、二人と離れて行き、仏教会の清掃の仕事をしていたのですが、もう来なくてもいいと言われます。仏教会からも締め出され、自分の居場所はどこにも無いと思い詰め、自殺しています。

外国での戦争は終わったものの、人種差別、排日土地法3、一世の帰化権否認4、強制立ち退きにおける損害賠償5、国籍離脱者への国籍復帰問題6、徴兵拒否者への誤った認識7と国内では問題が山積みでした。


ララ物資

収容所で日本から届いた味噌や醤油に慰められた日系人は、戦後の日本の窮状を聞くにおよんで、今度はこちらからと立ち上がります。トパーズ収容所で日本語図書館設立に尽力した浅野七之助(本シリーズ第四章)は、1945年11月19日付けロッキー新報に「故国の食料危機重大」との記事をのせ広く協力を呼びかけ、海外に救援物資を送ることができる公認の団体LARA(Licensed Agencies for Relief of Asia アジア救済連盟)の認可をうけ、活動を始めました。当時の日本での状況を佐賀平等院住職の西村照純師の「敗戦直後の日本とララ物資の記憶」の一部から———

戦災で焼け出され、親兄弟を亡くしたり、家族ちりじりになり、街中の盛り場に浮浪する孤児たち、また海外から引き揚げてきたが、親も親戚もない引き揚げ孤児たちが戦後の大きな問題となり、各県に孤児を収容する施設が急増した。……当園は35名の孤児を収容していたので、配給だけでは足らず、裏の墓地の空き地にカボチャや芋を作ったり、野菜を作ったりして不足を補う一方、母の衣類と田舎の寺に依頼して米や芋等との物々交換をして物資を調達していたが、これらも35名の子供たちの口ではアッと言う間になくなってしまう生活だった。

こんな時代、アメリカからララ物資と言って紙製のドラム缶数本と肉や魚の缶詰、衣類等が運び込まれ、ドラム缶には粉ミルク(脱脂粉乳ではなかったか)が入っており、ただただ驚くばかり。珍しいのと、食べたこともない貴重な食料に「口が腫れるのではないか?」と有り難く頂戴したものだ。

その上、びっくりしたのは、「横浜まで山羊が来ているので受け取りに来い」とのこと。県の係官と弟が上京。数日がかりで、貨車で数頭佐賀まで山羊を運んで来た。たしか日本の山羊より大きくザーネン種という種類だったと思う。……

物資欠乏の極みに達した時代、このララ物資は有り難い贈り物で、珍しい子供の栄養を考えられた貴重なものとして今も鮮明に心に焼き付いている。また当時の学校でも欠食児童が多い中、このララ物資が学校にも(児童対象に援助が行われたと思う)配分され、これが戦後の学校給食の始まりとなったと思う。9


エステル・石郷のハートマウンテン

ハートマウンテン強制収容所で過ごした一人の若い白人の女性がいました。日系人のアーサー・石郷の妻で、画家のエステルです。立ち退きの際、離婚するか別居すればカリフォルニアに残れたのですが、アーサーと一緒に収容所に行くことを自ら希望してのことでした。

父親は画家でピアノの調律師、母親はオペラ歌手という恵まれた家に生まれたエステルでしたが、両親とも仕事に忙しく、乳母に育てられました。少し大きくなると、親戚や友人宅をたらい回しにされ、そこで虐待をうけたこともあり、幸せな子ども時代ではありませんでした。高校を卒業すると、家を飛び出し、画家をめざして入ったアートスクールで、俳優志望のアーサーと出会い、恋に落ち結婚しました。当時カリフォルニアでは異人種間の結婚は禁止されていたため、メキシコまで出かけて結婚していますが、その時に親からは勘当を言い渡されています。

エステルは同じ痛みと夢を共有した日系人のなかで暮らしたハートマウンテン収容所で、はじめて心安らかな日々を過ごせたと、生前語っています。やっと、みんなに受け入れられたと感じた大切な場所だったのです。10 エステルの願いは「死んだら私の灰をハートマウンテンの山の頂きからまいてほしい」というものでした。

エステルの願いをかなえたのは、誰だと思いますか? 私たちにハートマウンテンでの子どもの生活を語ってくれたベーコン・サカタニでした。


ベーコンの話

ぜひそのいきさつを伺いたいと思い、ベーコン・サカタニに連絡してみました。すると、エステルのメモリアルサービスでの弔辞の写しと、エステルの書いた『ローン・ハート・マウンテン』の英語版と日本語版を送って下さいました。電話でもお話しましたが、とてもお元気そうでした。さて、エステルの話に戻ります。

1984年、エステルの絵をハートマウンテン収容所記念公園で展示したいので、エステルを探してほしいという要望が、ベーコンのもとに来ます。探し歩いたあげくエステルを見付けたその日、ベーコンは、家に帰ってからこう記しています。

数枚の窓ガラスが割れ、風や雨が吹き込んで来る荒廃した地下アパートに住んでいる彼女を見つけた。彼女の足は、壊疽のため両膝下から切断され、車椅子に座っていた。ベッドの上のシーツは洗濯されたことがないかのように汚れていて、着ているスリップも薄黒く汚れていた。家主が一日一回暖かいスープを与えていた。最近腹部に手術を受けたばかりなので、一日に何回も軽い食事を取る必要がある。

キャンベル・スープの缶詰と六インチ大の電気コンロでしのいでいた。部屋を暖めるために電気コンロは付けっぱなしにしていた。お金はなく、部屋と食事代の代償としてソーシャル・セキュリティ(養老年金)の権利を大家に渡していた。11

エステルとの交友はこうしてはじまり、以後、度々訪れていたベーコンは、絶版になっていた『ローン・ハート・マウンテン』をもう一度出版して、戦争中日系人社会におこったことを世界中の人に知って欲しいとのエステルの願いを聞き、ハートマウンテンの同窓生に声をかけ募金活動をし、再販にこぎつけます。願いのかなった日、エステルはとてもうれしそうに友達やファンのために本にサインをしていたと言います。1990年2月に亡くなったエステルの最後の願いをかなえるために、ベーコンは、翌年ハートマウンテンを目指して旅に出ています。12

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注釈:

1. ハワイから徴兵された二世兵士は訓練中からめきめきと頭角を現し、第100歩兵大隊としてヨーロッパに行きます。そこで、後発のハワイと本土の各収容所から志願した兵士からなる第442連隊戦闘部隊と合流し、以後行動をともにします。

2. Louise Tsuboi Kashino, interview by Yuri Brockett, Jenny Hones and Hitomi Takagi, August 22, 2013 at Bellevue, Washington

3. 1956年、カリフォルニア州で外国人土地法撤廃。これで一世も土地を所有することが可能になりました。

4. 1952年、日本人帰化法成立。やっと日本生まれの一世もアメリカの国籍を取得できるようになりました。

5. 1948年、強制疎開賠償請求法が発効。賠償については「不動産や私的財産の損害または損出」のみで1942年の評価額を使用、領収書が必要、その上一割を政府の弁護士費用として差し引くという納得の行くものではありませんでした。立ち退きで失った全財産の賠償として、エステルとアーサー石郷は、リストを作り、少なくとも1,000ドルの価値があったと見積もりました。しかし、1952年に政府から100ドルで和解するよう連絡がきます。とうてい納得がいくものではなく、その後、4年間に渡って政治家や官公庁の職員に掛け合ったり、手紙を書き続けますが、諦らめて102ドル50セント(約1万500円)の小切手を受け取ったときには、アーサーの目には涙があふれていたとエステルは語っています。

6. ツールレイクにいたアメリカ市民権を持つ5,000人以上の二世と帰米が市民権を放棄しています。自分で考えて自発的に棄てたというのではなく、将来の展望の見えなくなった、デマの飛び交う収容所にあって、過激親日派と管理局の圧力と一時的な気の迷いからでした。すぐに、自らの冒した間違いに気づくのですが、時すでに遅し。サンフランシスコの弁護士、ウェイン・コリンズは米国に残った3,700人余りの若者の市民権を取りもどす働きをします。また、捕虜交換要員として連れてこられたペルーの人々が、戦後アメリカにとどまれるようにも手助けしています。ミチコ・ウエグリンは著書、『アメリカ強制収容所———屈辱に耐えた日系人』(山岡清二訳)の中で「この悲しむべきエピソード全体が1968年に幕を閉じる前に、コリンズは米国と日本にまたがる無数の依頼人の弁護、再弁護のために、約一万部の供述書を書き……」とし、この本をウェイン・コリンズに捧げています。

7. 1947年12月24日、トルーマン大統領は徴兵拒否者に恩赦を与えました。しかし彼らのことを疎外隠蔽しつづけていたJACL(日系アメリカ人市民同盟)が徴兵拒否者に謝ることを決議したのは2000年7月になってからです

8. 長江好道著、「日系人の夜明け———在米一世ジャーナリストの証言」岩手日報社 1987

9. www.a50.gr.jp/jp/lara.html当時は個人的にも日本に荷物を送り続けた家族も多く、アヤコもマコも、貧しいながら両親が日本への荷物を用意していたのを覚えています。

10. Okazaki, Steven. (Director/Producer)  (1990). Days of Waiting: The life and Art of Estelle Ishigo [Documentary Film]. Asian American Media.

11. エステル・石郷著、古川暢朗訳、「ローン・ハート・マウンテン———日系人強制収容所の日々」石風社 1992

12. Sakatani, Harumi Bacon, personal communication, March 10, 2014.

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第137号(2014年4月)からの転載です。

 

 

© 2014 Yuri Brockett

Estelle Ishigo heart mountain LALA post-war resettlement veterans

Sobre esta serie

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。