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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(4)

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収穫の手伝い———晩秋

実りの秋でもあります。農産物の収穫期ですが、カリフォルニア、アリゾナ、アイダホ、ワイオミングとどこの農園でも人手不足に悩んでいました。いままで収穫に携わっていた者は、兵役にとられたり、軍需景気にわいていた都市に出かけたりしていて、誰もいません。困った知事は、地元出身の上院議員や戦時転住局に「愛国者の義務として」日系人被収容者に刈り入れを手伝わせるようにかけあいます。囲いからでるチャンスですから、多くの高校生も応募し、ブリードさんの子ども達のルイーズも「学校新聞を作るための基金集めに」級友と綿摘みに出かけています。シアトルのウィルス先生に、ベンが農園のあるアイダホ州のツインホールズから出したはがきです。

1942年11月12日

親愛なるウィルス先生、

甜菜畑での仕事が終わり、あと2日で転住所に戻ります。あまりにも長い間キャンプから出ていたので、また初めからキャンプの生活に慣れなくてはいけません。同封しました新聞によると、ミニドカでは今、有刺鉄線のフェンスをたてていて、8つの監視塔があるそうです。ピュアラップのキャンプ・ハーモニーを出た時に、こんな不便なことは全部置いて来たと思っていたのに。どうやら、昔の生活がまた僕の新しい生活です。どの方向を見渡しても、どこまでもセージブラシュしかない所に僕たちを投げ込んでおいて、政府はどうして囲いをする必要があるのか、どうにも理解しかねます。

もし、これがデモクラシーというならば、僕は厳格な独裁制の方を選びます。そうすれば、少なくとも有刺鉄線のフェンスのなかに追いやられることはないから。

いつものように、 ベン1


ミセス・ポーラック
———晩秋

ミニドカのハント高校は、ベンの戻った11月14日にやっと新学年を迎えています。高校一年生になったヘンリー・ミヤタケは収容所内の先生について「長い間インディアン保留区の子どもを教えていた先生のように教えることに意欲を失っている平凡な先生から、使命に燃えている先生までいろいろでした。僕の高校一年の時の先生、ミセス・ポーラックは幸運なことに後者でした」と語ります。

……先生は収容所に入っている人に対して、何か不正義が行われたと感じ、被収容者のために自分にも出来る事をしたいと、とても高潔な意図をもって、なんとかその不正義を修正したいと感じていらしたんです。ご主人は海兵隊で家をあけていらしたので、空いた時間をぜひ収容所の日系人のためと、それと自分のキャリアになるなにか建設的なことをしたいと思って、収容所の先生になられました。

とても献身的で、才能もあり、知的な先生でした。キャンプの中の状況もよく把握なさって、何がどうなっているかをきちんと判断なさっていました。僕たちの勉強にたいする意欲が低いこと、いい学生になる努力をしなくなっていることに気づかれ、……「今は臨時的な状況です。2、3年もすればこのキャンプを出て、もとの所に戻って通常の教育を受ける事になります。そのために、今勉強を続けなければならないのです」と。

ただ単に教えるだけじゃなく、僕たちが教育の過程でもう一段上に上がれるように準備することが先生の気持ちを駆り立てていたようです。先生の出されたプロジェクトの一つに、自由に自分の将来の環境を想像してみる、というのがありました。そうすると、このキャンプの生活が暫定的なものと思え、将来どんなキャリアをもちたいか、どんな職業につきたいかを考えることになります。こんな考え方は初めてでした。両親のとも、これまで出会ったどの人のとも違っていました。……「どんな大学にいきたいか?」というちょっと面白そうな課題を与えられたことも。先生はすごい数の大学のカタログをとりよせて、先生の机の上と本棚に並べて、僕たちが自由に手にとることができるようにしてくださいました。マイアミ大学なんて、いままで聞いたこともなかったんですが、マイアミ大学のもハーバード大学のカタログもありましたよ。……2

こんな事もありました。ある日、ミセス・ポーラックは、ゴードン・ヒラバヤシが今ミニドカに来ているという話をどこからか聞いてきて、クラス代表をしていたヘンリーに、クラスに来てもらって、話をしてもらったらどうかと持ちかけます。ゴードン・ヒラバヤシは当時ワシントン大学の学生でしたが、日系人にたいする夜間外出禁止令を故意に破り、強制収容命令に背き、自発的にFBIに出頭し投獄されています。日系人に対する政府の処置は「人間の尊厳を侵し、生きる権利を否定するものだ」とし、自らの信念を貫いて行動した一人です。3

クラスのほとんどは、彼のことは何も知らなかったし、何をしたか、また何をしようとしているのか全く知らなかった。後にアメリカ憲法史上の伝説的人物になる人が、僕たちに直接話をしてくれた。ゴードン・ヒラバヤシの講義はクラスのみんなに深い感銘を与えた。僕にも。ゴードンの話は僕の心に焼きついた。4


図書館で午後のお茶———

1942年12月2日発行のトパーズ・タイムズから。お茶のサービスのある図書館は、どんなにか心休まる空間だったでしょう。図書館ができてからデマやうわさ話が減ったという報告もあります。

コミュニティ図書館がレクリエーションホール16にて正式にオープンしました。かなり豊富な蔵書をかかえた図書館の利用者を喜ばせたのはノブオ・キタガキ館長率いる図書館員による午後のお茶のサービスです。5


マンザナー暴動
­­とサンタクロースとレモンの箱にリンゴをいれるな———

ジェローム強制収容所で暴徒に襲われるヤマザキ牧師
(マデレイン・スギモト、ナオミ・タガワ氏寄贈。全米日系人博物館所蔵 [92.97.6]) 

12月5日夜、ソルトレイクシティでのJACLの会議から帰ったばかりの二世、フレッド・タヤマが襲われ、殴られる事件がおこります。タヤマは6人の暴徒の中の1人を、キッチンの仕事をしていた帰米二世でターミナル島出身のハリー・ウエノだと証言し、ウエノは捕らえられ、訊問を受けるために近隣のインディペンダンスの刑務所に拘留されます。常々、「ある収容所管理官が食料庫から肉と砂糖を盗み出して、闇で売っている」と警告していたウエノでしたから、ウエノを捕まえたのは、その警告をもみ消すための工作だろうと、人々はすぐにウエノの釈放を要求。人はどんどん集まるばかりで催涙弾を投げても効果なし。しまいには石を投げたり、誰も乗っていない車を警察官の方にむけて暴走させたりと事態はエスカレート。危険を感じた警察官が発砲し、たまたまそこにいた17歳のジェームス・イトウが即死。後にその時に受けた傷からもう1人死亡。ほかに9名が負傷しています。これがマンザナー暴動です。

真珠湾攻撃からちょうど1年目にあたる2日後の晩、メアリー・マツダは、兄のヨネイチからマンザナー暴動のニュースを聞き、驚くと同時に恐怖感にかられたといいます。「なにかがどこかで間違っている。暴動はここでも起こるのだろうか。政府はどう出てくるのか。私たちに何が起こるんだろうか」と。メアリーは後に暴動の原因をこう説明します。

異なる力のぶつかり合い。一つは、冷酷な立ち退き、強制的な監禁、劣悪な環境、やりがいのある仕事がないこと、その他もろもろのキャンプ内の問題からくる不安。特にひどい目にあったターミナル島の人々の気持ちは推して知るべしです。怒りを抱いたターミナル島の人々がマンザナーにいたということ。もう一つは親米派の日系アメリカ人市民同盟(JACL)の存在。……JACLがキャンプ内の“トラブルメーカー”の名前を秘密裏に管理局に渡しているとのうわさもあり、他の被収容者はそうとう怒っていました。6

水面下深くでふつふつと湧き上がっていたマグマが、一気に爆発したのがマンザナー暴動です。暴動の直後、マンザナーに戒厳令がひかれ、学校も、郵便局も何もかも閉鎖。キャンプ中、重苦しい空気に包まれていました。管理局で仕事をしていた人も、収容所外に退避したのですが、どうしても残りたいと残っていた一人の先生がいます。そのミス・イーライが見たものとは……

郵便配達もなかったので、クリスマス直前の郵便局は配達しなきゃいけない手紙や小包でふくれあがっていました。そして、奇跡が起こったんです。すごく上機嫌なクエーカー教徒のハーバート・ニコルソン———みんなから寄附されたおもちゃをたくさん運んで来てくれたのです。バラックとバラックの間にちょっと広い防火地帯があるんですが、そこの真ん中にトラックをとめて、トラックの上からおもちゃを配り始めたんです。すると、急にキャンプ全体の雰囲気が変わったんです。7

一方、ベインブリッジ島のウォルトとミリー・ウッドワードは、何度も連絡を試みていましたが、戒厳令のひかれていたマンザナーには通じず、やっと島の人々の安全が確認されたのはしばらくしてからでした。ウォルトは早速、「気性の荒いカリフォルニアの人のなかに、穏やかなベインブリッジ島の人々をいれるのは間違っている。レモンの箱にリンゴをいれるようなものだ。ベインブリッジ島の人々は同郷のシアトルの人のいるミニドカに移すべきだ」との強い口調の手紙を戦時転住局に送りつけています。8

第三章(5) >>


注釈:

1. Letter dated November 12, 1942. Elizabeth Bayley Willis Papers. Acc. No. 2583-6, Box 1. University of Washington Libraries Special Collection.

2. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, May 4, 1998, Densho Visual History Collection, Densho.

3. 自らの信念を貫いて行動した者はヒラバヤシの他にも、強制収容の不当性を訴えたフレッド・コレマツと、夜間外出禁止令の合憲性を問題にしたミノル(ミン)・ヤスイが有名ですが、ミツエ・エンドウもツールレイクの収容所の中から拘留を不服として裁判所に申し立てをしています。

4. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, May 4, 1998, Densho Visual History Collection, Densho.

5. Topaz Times News Daily, Vol. I No.27, December 2, 1942.

6. Gruenewald, Mary Matsuda. Looking Like the Enemy———My Story of Imprisonment in Japanese-American Internment Camps, Troutdale: NewSage Press, 2005.

7. Seigel, Shizue. In Good Conscience: Supporting Japanese Americans During the Internment. San Mateo: AACP. Inc., 2006.

サンタクロースのような名前のハーバート・ニコルソンは1892年生まれの、クエーカー教徒。25年以上にわたる日本での伝道活動を終え、1940年に帰米。真珠湾攻撃後、司法省の刑務所に拘束された3000人余りの日系人のために、各刑務所を訪れて、得意な日本語を駆使して裁判の手伝いをし、拘束されている人が早く家族のもとに帰られるように尽くしています。収容所にいる日系人のためにも使い走りをしたり、やり残したことがある人にはそれを代わりにやってあげたり、トラックを借りてロサンジェルスの図書館から一トンの廃棄本をマンザナーに届けてもいます。

8. 1943年2月、177人のベインブリッジ島の人々がミニドカに到着。

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第135号(2013年10月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

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Sobre esta serie

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。