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幻となった「日系人駐日大使」提案―井上議員の前に立ちはだかった「日本事情」

日系人を駐日大使に。 

ダニエル・イノウエ上院議員(2008年10月)
写真:Wikipedia.com

これを初めて日本政府に提案したのは、今は亡き井上建議員(ダニエル・イノウエ)でした。日系人が駐日大使という地位に就くことで、アメリカと日本の双方の国益に結びつくことのみならず、アメリカ社会における日系人の地位向上にもつながると井上議員は考えました。時は1959年、日系人社会は、戦後の復興期からリドレス活動への過渡期にありました。 

駐日大使を選ぶ権限はアメリカ政府が握っていますが、日本政府の意向を無視することはできません。そこで井上議員は、当時の日本の政局における最有力者のひとりであり首相でもあった岸信介に面会し、日系人を駐日大使として東京に送ることを提案しました。

井上議員は、日本政府がこの提案に反対することはないと考えていました。ところが、岸は彼の提案を一蹴したのです。さらには、岸は日系人にたいする侮辱ともとられる予想外の発言を、井上議員の前でしたのです。

日本には、由緒ある武家の末裔、旧華族や皇族の関係者が多くいる。彼らが今、社会や経済のリーダーシップをになっている。あなたがた日系人は、貧しいことなどを理由に、日本を棄てた「出来損ない」ではないか。そんな人を駐日大使として、受けいれるわけにはいかない。

この発言は、井上議員にとっては、極めて屈辱的なものでした。

岸信介元首相(1961年6月15日)
写真:Wikipedia.com

井上議員は、日系人を駐日大使として東京に送ることによって、アメリカ社会における日系人の地位向上のみならず、日米関係への利点などを力説し、さらなる説得を試みましたが、岸の態度が変わることはありませんでした。結局、井上議員による日系人の駐日大使誕生への夢は、岸信介、たったひとりの手によって粉砕されてしまいました。 

岸が、井上議員の真意を理解できなかったことは、日米両国にとって、ひとつの損失であったと思います。しかし、当時の日本社会には岸のように、日本を離れ海外に出た人々を、いわゆる「棄民」と見ていた人がいました。とりわけ、岸のような、「特権階級」とされる人々のなかには、このような考えを持っていた人が数多くいました。 

さらには、極めて残念なことに、井上議員の右半身が何を意味するのかは、岸にとっては、どうでもよいことだったと思います。1 岸にとって、最も気がかりだったことは「身分」だったと思います。由緒ある武家の末裔、さらには、皇族や旧華族の関係者など、いわゆる「身分の高い人々」がリーダーシップをになっている国の大使に、国を棄てた人やその子供たちがが任命されることは、感情的に許せなかったのだと思います。別の言葉で表現するのならば、岸の移住者にたいする差別意識が、井上議員の提案を粉砕したのだと思います。2

1959年の時点において、アメリカの立場から考えると、日系人を駐日大使として任命する良い時期であったのかもしれませんが、日本の立場でみると、日系人が駐日大使として来日することは、時期尚早であったのかもしれません。

実際に、日本政府が「身分」の問題解決に本腰をあげ、同和対策審議会答申を発表したのが1965年。そして、いわゆる同和対策事業がはじまったのは、1970年のことでした。新憲法が施行されてから、20年以上が経っていました。

歴史を語るにあたり、「・・・たら」と「・・・れば」はあまり歓迎されるものではありません。日系人を駐日大使として任命するという提案は、幻となってしまいましたが、もしも、この提案が数年でも遅れていれば、日米関係をめぐる諸事情は少し変わったものになっていたのかもしれません。

岸が井上議員の提案を粉砕してから半世紀以上が経ちました。日本社会も多様化がすすみ、少しずつではありますが、様々な背景をもった人々が社会に受け入れられるようになってきました。

そして、つい最近ことではありますが、2005年には、セイコウ・ルイス・イシカワ(石川成幸)氏が駐日ベネズエラ特命全権大使に任命されました。井上議員が日系人の駐日大使を誕生させようと試みてから、およそ45年後のことでした。

現在の日本政府においては、岸の孫にあたる安倍晋三が首相に選ばれ、「地球儀を俯瞰する外交」と称した独自の外交理論をかかげ、日本の国益確保のために、各地の日系人コミュニティとの「つながり」の強化を主張しています。この政策は、国際社会における日本の存在感(プリゼンス)の向上を第一の目的としたものであり、これによって、今後、日系人と日本人の関係が、どのような方向性をおびたものになるのかは、未知数の部分が大きいと思います。

また、日本政府の意向とは別に、アメリカ政府においても、駐日大使の人選は、非常に柔軟なものになっていることでしょう。日系アメリカ人が駐日大使として東京にやってくる日は、もしかしたら、意外と近い将来に実現するかもしれません。そのときには、多くの日本人が、日系人の大使を暖かく歓迎することでしょう。

注釈

1. 井上議員は第二次世界戦争の際、第442戦闘部隊の一員として欧州戦線に従軍し、敵国軍との激しい戦闘によって右腕を失いました。

2. 井上議員が岸を訪問した1959年に、当時の皇太子明仁が民間人の正田美智子を皇太子妃として迎えたことが日本社会では大きな話題となりました。多くの日本人がこの結婚を歓迎した一方、一部の皇族や旧華族の関係者らが、皇族・華族出身ではない人を皇室へ迎えることに強い反対の意をとなえました。とりわけ、当時の皇后であった良子(ながこ)は、死の直前までこの結婚に不快感をあらわにし、長年にわたって美智子を冷遇したことが、日本の写真週刊誌や女性週刊誌などをとおして、たびたび報じられました。

 

© 2014 Go Takamichi

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