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https://www.discovernikkei.org/es/journal/2013/8/27/99nen-ai-jidai-kosho/

ドラマ『99年の愛』― 時代考証を振り返って

(編集者注:本稿は、シアトルで行われた全米日系人博物館による全米カンフェレンス『Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity』での日本語セッション「99年の愛/憎しみ(99 Years of Love / Hate)」(2013年7月6日)で発表された原稿です。)

はじめに

テレビドラマの脚本の時代考証は初めての経験であった。我々3人(飯野正子粂井輝子、島田法子)は、『99年の愛~Japanese Americans~』の脚本の中にある歴史的にみて不適当ではないかと思われる点をリストアップし、TBSのプロデューサーや担当者に提出し、彼らを通じて脚本家の橋田寿賀子氏に検討していただいた。

我々が一番迷いまた考えさせられたことは、フィクションであるこの作品に、歴史研究者として歴史的に正確な裏付けを、どの程度まで求めることができるのか、あるいは必要とされるのか、と言うことであった。

歴史的誤りを指摘するリストは数ページに及んだ。それによって修正されたことも多かったが、受けいれられなかったこともいくつかあった。すなわち、脚本を修正するかどうかの判断はTBSと橋田氏に委ねられていた。

我々は、多少歴史的に不正確であっても、それがドラマを盛り上げるために必要とされることで、また大きく歴史を捻じ曲げるものではないという判断で、最終的には合意した。また今まで、このような形で日系人の歴史が、影響力のある日本のメジャーなテレビ企画として取り上げられたことはなく、今回、橋田氏という日本でも指折りの脚本家によってドラマ化され、この作品を通して多くの日本の視聴者が日系人の歴史を知ることになることは有意義なことだとも考えた。そして、このようなドラマを、実際に歴史を生きてこられた日系の方々が見て、歴史的に不正確なことが含まれていてもそれらを許容して、ドラマとして楽しんでいただけるかということが、私たちにとっては重要な判断基準となった。

以下に、まず、私たちが指摘したことで、ドラマを盛り上げるために必要とされ、修正されなかった事を挙げておきたいと思う。その後で、指摘に従って修正されて点を、多数ある中から、いくつか挙げておきたい。

A.作品が史実と合わないままに残された点

1.シアトル近郊が舞台なのに、主人公の一家は、サンタ・アニタ競馬場に設置された仮収容所に収容され、マンザナー収容所に移送される。

これは主としてロサンゼルスの日系人の歴史である。史実に則れば、シアトルの日系人は、まずピュアラップ仮収容所に入り、そこからミニドカ収容所へと移動したはず。ピュアラップは共進会場で、競馬場ではない。

  • 競馬場というひどい環境に置かれたエピソードを生かしたいので、設定は残すことになった。
    仮収容所として使われた競馬場は、2か所あって、ロサンゼルスの日系人はサンタ・アニタ競馬場に。またサンフランシスコの日系人はタンフォラン競馬場に収容され、そこからユタ州のトパーズ収容所へ移送された。
  • また、マンザナー収容所の設定が必要とされた。なぜなら、主人公の一家が収容されたところで、暴動が起きる。この騒動をドラマで取り上げたかったからである。
    収容所の中で、日系人が日系人を襲撃する事件は、1942年11月14日、ヒラリバー収容所で、同年11月18日、ポストン収容所で、同年12月6日、マンザナー収容所で、相次いで起こった。マンザナー収容所では、その後、「マンザナー騒動」という大きな事件に発展した。ドラマの中で、この部分はクライマックスの一つであった。
  • マンザナー収容所跡を、現代の次郎、しのぶ、さち、タクヤ、直人、景子の一家が訪問する場面が設定されている。

    しのぶの孫タクヤのセリフ 「とても人間の住めるとこじゃないんだよね」

    日系人の苦闘を現代に伝える場面である。

<シアトルとイチローについて>

  • それでもドラマの舞台として、ロサンゼルスではなく、シアトルを選んだ一つの理由は、イチローの活躍を取り上げることにあると思われる。脚本家の橋田寿賀子氏は、イチローの活躍と、日系人の苦闘の歴史とを、シアトルを舞台に対照させて描いている。ドラマの冒頭は、2010年のセーフィコ球場で、平松一家が野球観戦をする場面である。イチローが平松一家の話題となり、大きな役割を果たしている。

    次郎のセリフ 「日本人の選手がアメリカの球団に入ってこんなにもてはやされてるなんてねぇ。私たちが生きてきた時代とは大違いだ。こんな時が来るなんて思ってもみなかったものねぇ」
    しのぶのセリフ 「ほんと・・・。ジャップ、ジャップって馬鹿にされて嫌われてた昔のこと思ったらとても信じられない」
    ここでイチローのホームラン。

    過去と現在の対照が、イチローによって示されている。
  • そして、最後のレストラン「大和」(しのぶの息子ケンのレストラン)の場面でも、イチローが話題になる。

    さちのセリフ 「今でも原爆は許せない。あんな残酷な爆弾だってわかって落としたアメリカだって許していない。しづ姉ちゃんが可愛相で・・・」
    続けて 「けど、・・・イチロー選手のようにアメリカ人にも尊敬され愛されてる日本人も出て来たし・・・いつまでもアメリカに偏見を持ってるのはもう時代遅れかもしれないわね」

    ここでも、過去の人種偏見が克服されたことを、イチローによって示している。
  • 主人公の名前を一郎としている。イチロー選手の活躍に、兄一郎の思い出のフラッシュバックがかぶさっていく。

2.二世の子どもたちが、英語が下手で、お互いに日本語で会話している。

  • 確かに不自然だが、日本人俳優による日本のドラマということで、そのままになった。
    最初は、子どもたちが日本人学校にしか行ってないという設定だったが、時代考証として、日本語学校は補習校で、放課後に通うことを示し、また日本語学校の先生たちはアメリカの公立学校教育を重視していたことを示した。この部分は修正された。

3.主人公一郎の父、長吉に関する設定が、史実から外れている。まず、長吉は島根県の貧農の二男坊という設定。

これは、移民は貧農というステレオタイプに則っているといえよう。実際には、長吉の一家のように、全く現金の余裕がないという貧しい世帯からの移民は、困難であっただろう。また、長吉が移民するのは1912年という設定で、これはありえない。1908年の日米紳士協約によって、家族の呼び寄せ以外の労働移民は認められなかった。(また、シアトル港に上陸するが、イミグレーションの手続きが描かれていない。)

  • 野中さん一家が親戚の呼び寄せで移民するのについていくという設定で、長吉についてはそのままになった。

4.しのぶに関する設定が、史実から外れている。(しのぶは1年間アメリカに滞在しワシントン大学に学ぶという設定。東京には祖父、祖母、弟たちが残っていることになっている。)

当時、娘をアメリカに連れてくることは普通ではないだろうし、日本から来たばかりの外交官の娘がワシントン大学で学ぶということも考えられない。当時の日本の女学校は、大学進学を念頭においているとはいえず、英語教育もそれほど充実していなかった。

  • しかし、しのぶが大学構内で人種差別を受けて、二世の主人公一郎と出会うという設定のために、しのぶがシアトルに来ることが必要とされる。

    しのぶのセリフ 「日本でずっとアメリカの大学へ入るのが夢で英語の勉強もして、やっと願いがかなった」

5.また、しのぶが、愛する人から離れたくなくて帰国船から海に飛び込んだという設定も例がない。また、海岸から一郎の農場まで歩いて行ったという設定は無理。

  • 海に飛びこんだという設定は、ドラマとしてどうしても残す。その後のことは詳しくは描かないことにする。
    実際には、しのぶが海に飛びこんで、夜の海からしのぶが這い上がってくる。そして歩き出して夜の闇に消える。次の場面では、しのぶが平松農場で牛の世話をしているところを、一郎が発見する。

6.1922年夏の設定で、ワシントン州の外国人土地法に反して、一世の長吉が、生まれたばかりの息子、二世の一郎名義で、キャサリンから土地を買った。

ワシントン州では、1921年の外国人土地法によって、外国人の土地所有権と借地権が禁じられた。続いて1923年の土地法では、未成年の二世による土地所有と借地も禁止された。未成年の一郎には土地を所有する資格がなくなるので、本来、一郎が成人するまで、キャサリンあるいは成人二世の知り合いに名義を借りるしかない。

  • このまま残すことに。

7.日本に帰国すれば「日本は平和だ」というセリフは、日中戦争中という史実に合わない。

  • 「人種差別がなくて平和」という解釈でセリフは残すことに。

8.長吉は娘二人を、広島に嫁いだ妹のところと、沖縄に嫁いだ妹のところに預けるという設定。当時、島根県の貧農の一家が、娘たちを広島と沖縄に嫁がせるということは普通では考えられない設定。

とくに沖縄と内地(日本本土)の間には交流はなかったと思う。また沖縄では、同じ町村内で結婚することが普通であった。

  • ドラマにとって、広島と沖縄という、戦争の最大被災地を舞台にするために、必要な設定であったと想像できる。

9.平松農場の人たちが一週間以内に立ち退くように命令される。

一週間ほどの猶予しか与えられなかったのはシアトルに近いベインブリッジ島の日系人の場合であった。特に漁師は軍事的な危険情報を持っていると考えられ、3月23日に、立ち退き命令の第1号で立ち退きを命じられた。この人たちは、マンザナー仮収容所に送られた。マンザナー仮収容所は、6月2日、収容所と変更になった。その次に立ち退きを命じられたのは、ロサンゼルス港のターミナル島の日系人漁師たちで、3月30日だった。この人たちも一週間ほどしか猶予を与えられなかった。しかし、これ以外の日系人の場合には、もう少し時間的猶予が与えられた。

  • ドラマでは、歴史的にはもう少し時間の余裕があったかもしれないが、日系人の苦闘を示すものとして、このまま残すことに。

10.弘の軍隊志願の動機として「収容所から出るためならなんでもする。でも他に方法が無なかった。」というセリフはおかしい。西海岸以外の地区への大学や農業労働で出ることは可能だった。他に方法がないということは正しくない。

  • 弘の精神的な状態を表すものとして残すことに。

11.1943年夏の一郎としのぶの新婚旅行で、シアトルに行くという設定は無理。当時は、志願兵のみの立ち入りは許可されていた。

  • 話の筋として外すことはできないので、フィクションとしてこのまま残すことに。新婚の二人が、シアトルのレストランにもホテルにも拒絶されるという差別を経験する場面と、日本人のホテルを預かっている親切な白人女性ベティとの出会いの場面が描かれる。ここでの幸せな数日の思い出が、一郎の死後のしのぶを支えるという設定になっている。

    しのぶのセリフ 「その何日かのしあわせな思い出があるから、今まで生きてこられたの」
  • 歴史的には、1943年4月から、志願兵に限り、日系二世が西海岸に立ち入を許可する方針がでた。しかし、新婚旅行に「夫婦」で西海岸に立ち入る許可は、出なかったであろう。1944年の春からは、民間人が西海岸に戻る許可が、実験的に、少しずつ出るようになった。1944年末までに、約1,500人の日系の民間人が西海岸に戻った。さらに、1945年1月からは、立退き令が撤回されて、西海岸への帰還が自由になった。

B.時代考証の指摘によって、史実に沿って修正、あるいはカットされた点

1.移民の渡航費が「お上からの補助」をもらえる、あるいは「日本人会から借りる」という設定であった。実際は花婿の負担だった。

  • カット。

2.平松農場に、冷蔵庫や電話があったという設定は無理かもしれない。

  • 無いことに。

3.シアトル近郊で米作りをしているという設定。シアトル近郊ではしていない。

  • カット

4.日本人の子どもは公立学校に行かれなくて、日本語学校に行っていたという設定。子どもたちは公立学校に行っていて、放課後のみ日本語学校に行った。

  • カット

5.日米交渉のただ中の1941年夏の段階で、領事館員が日本に引き揚げるという設定はおかしい。

  • 商社の人が引き揚げるという設定に変更。ただし、「領事館の松沢事務官も急に帰国命令がでているそうだ。」というセリフは残し、しのぶが帰国しなければならない設定を守る。
  • 最初の設定は、1940年に、外交関係者が日本に引き揚げるということだった。そして民間人の最後の引き揚げ船が1940年に出たという設定だった。これは全部修正された。

6.日系市民協会(JACL)の山崎登から、長吉に連絡がくるという設定は、無理。一世の長吉はメンバーになれないし、JACLが電話をかけてきて意見を聞くということはない。

  • 「日系市民団体」という名称で残す。個人的な知り合いからの連絡ということにする。

7.「外出禁止令が出て日本人は働くこともできない」というセリフは誤り。

  • 夜間外出禁止令に訂正。
  • 日中は外出できた。また夜間外出禁止令が実施されたのは、1942年3月27日からで、最初の台本にあった1941年のクリスマスの頃はまだ実施されていない。

8.ローズベルト大統領の有名な行政命令9066が出た時期、内容にあやまりがある。

  • 行政命令が出たのは2月初めではなく、2月19日。また、日系人の立ち退きを命令していたのではない。陸軍長官、あるいは西部防衛司令部司令官が、必要と判断したなら、立ち退きを命令することを許可したもの。
    実際には、デウィット将軍によって、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州、アリゾナ州が、軍事地域に指定されて、日系人の「自主」立ち退きの命令が出たのが3月2日。強制立ち退きが命令されたのは、3月29日で、かなり時間がたってからであった。

9.収容所内の労働の賃金を正確に修正。単純労働1日15ドルではなく、月給16ドル。

  • ついでに、専門職月給19ドル。未成年は12ドル。
  • 収容所では、日本人の医師の月給が19ドル、一緒に働いていた白人の医師の月給は数百ドルであったから、比較にならない安さだった。兵士の月給が21ドルで、それより多くは出せないという理由があった。しかし、兵士の月給が50ドルに上がった後も、日系人の給料は変らなかった。

10.忠誠登録のシーンをショッキングにしたいので、面接の場面を想定していた。

  • カット

11. 忠誠登録後、一郎と弘が徴兵されたのは時期があわない。

  • 志願に修正

12.母のとものセリフで、「うちはキリスト教じゃないけど、収容所の中の教会で・・・」とあるが、収容所の中にはキリスト教会だけでなく、仏教会もあった。仏教会で結婚する方が自然だ。

  • 仏教会に変更

13.ノーノー組が忠誠登録後まもなくツーリレイク隔離収容所に移動させられたのは史実に合わない。実際にツーリレイクに移動したのは、1943年8月から10月にかけてであった。

  • 1943年夏に変更

14.1943年9月、第442部隊がイタリアに上陸したというのは誤り。

  • 第100大隊に訂正。

15.希望すれば誰でも戦後の帰還船に乗って日本に帰れるという設定は誤り。

実際に、帰還船で帰ったのは、市民権を放棄した人のなかでも数十名にすぎなかった。帰国申請は忠誠登録の時に出しているので、多くの人は、日本の敗戦で、すでに出していた帰国申請を撤回している。敗戦後に帰国申請するというのは不自然である。

  • 母親の「とも」が帰りたいという希望を話すだけに変更。

99年の愛 / 憎しみのセッションにて発表する島田先生 (写真:Tracy Kumoto Photography)

粂井輝子氏の発表 >>

 

*2013年7月4日から7日にかけて行われた全米日系人博物館による全米カンフェレンス『Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity』についての詳しい情報はこちらをご覧ください。janm.org/conference2013

このセッションの発表を聞く(音声のみ)>>

 

© 2013 Noriko Shimada

99 Years of Love / Hate (sesión de conferencia) 99 Years of Love (TV) conferencias conferencias nacionales de JANM Estados Unidos Museo Nacional Japonés Americano Seattle Speaking Up! (evento) Washington
Sobre esta serie

Para el 25º aniversario de la legislación de reparación japonesa-estadounidense, el Museo Nacional Japonés-Estadounidense presentó su cuarta conferencia nacional “¡Speaking Up! Democracia, Justicia, Dignidad” en Seattle, Washington, del 4 al 7 de julio de 2013. Esta conferencia aportó nuevas ideas, análisis académicos y perspectivas comunitarias que influyen en las cuestiones de la democracia, la justicia y la dignidad.

Estos artículos surgen de la conferencia y detallan las experiencias japonesas estadounidenses desde diferentes perspectivas.

Visite el sitio web de la conferencia para obtener detalles del programa >>

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Acerca del Autor

Profesora emérita de la Universidad de Mujeres de Japón. Su campo de investigación especializado es la historia japonesa americana. Los temas de investigación incluyen las experiencias de la Guerra del Pacífico de los japoneses estadounidenses en la costa oeste, las experiencias de la Guerra del Pacífico de los japoneses estadounidenses en Hawái, la transformación de la sociedad japonesa estadounidense como se ve en la literatura breve tipo poema de los nikkei hawaianos, la transformación de la identidad de La sociedad hawaiana de Okinawa y las novias de guerra. Foto de la novia, etc. Autor de numerosos libros y artículos de investigación. Sus principales publicaciones incluyen "Los japoneses estadounidenses en la Guerra del Pacífico" (1995, Leavell Publishing), "Historia social de la guerra y la inmigración: los japoneses estadounidenses hawaianos en la Guerra del Pacífico" (2004, Gendai Shiryo Publishing) y la edición de "Photo Bride: War". "El camino de la novia: excavación de la historia de la inmigración de mujeres" (2009, Akashi Shoten).

(Actualizado en agosto de 2013)

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