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https://www.discovernikkei.org/es/journal/2013/8/16/4951/

カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その3

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日系人たちにはよく知られた墓だった

「おけいの墓」の前に話を戻そう。周囲は草木ばかりで、まさに野の中にひっそりと作られた墓碑のあるところは、木陰になってこの日は色鮮やかな花が手向けられていた。

当然のことながら、背あぶり山の墓碑と同じ「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19years」、「おけい之墓」、「日本皇国明治四年 月 日没す」、「行年十九才」と、表裏に刻まれている。月日は記されていない。

強い陽射しの下、午前中から大勢の人が墓前に集い、サクラメント在住で、天台宗ハワイ別院の僧侶、タイラー了栄さんらが墓前で読経をし供養をすると、集まった人たちが手を合わせた。

集まった人を背に墓前での読経(中央がタイラー了栄さん)が行われた

このなかの一人、サクラメント在住の日系2世、ジョージ・オキ(86)さんは、初めてこの墓に来たのは1962年だったという。

「彼らがどんなに大変だったか想像できる。彼女に対する尊敬の気持ちから墓に来ていた」。古い日系人の間ではおけいの墓はよく知られていたようだ。

シュネルたちは、日本から茶や桑やさまざまな木や種子を持ち込み、農園をはじめた。当時の地元の新聞記事によれば、最初の一年は作物もよく育ったようだが、金鉱採掘のためにダムが造られ水脈を断たれて水不足に陥ったことや気候のせいで息詰まったようだ。

シュネルは金策のために家族とともに日本へ向かったらしいが、戻って来ない。殺されたとの説や後年、ジュネーブに現れたという証言もあるが定かではない。

置き去りにされた日本人のその後はさまざまで、中には日本に帰国したものや一度帰ってから再び渡米したものもいるようだ。現地に残ったもので消息がはっきりしているのは二人で、おけいの墓を作ったとされる桜井松之助は、生涯ビーアカンプ家で働いた。もう一人わかっている増水国之助は、黒人とインディアンの血を引く女性と結婚し、いまその子孫がいる。

ビーアカンプ家の人の話としては、おけいは、かわいがられて料理や裁縫などを覚える“ナイスガール”だったという。桜井や増水についてもある程度のことはわかるが、シュネルに彼らが率いられた経緯やコロニーの実情などについては、残念ながら彼らから語られたものは残っていない。

また、この入植計画と会津藩の存亡とがどのような関係にあるのかもはっきりしたことはわからない。

最後は、別れの杯をかわそうと・・・

思い出を語るキヨコ・ハインズワース・フクモトさん

残っている“伝説”はビーアカンプ家からの話が中心だ。この家とかつて交流のあったキヨコ・ハインズワース・フクモトさん(86)が、この日のフェスティバルに来ていた。

神奈川県出身でアメリカ人と結婚してこの地に暮らしていた彼女は、かつて夫がヘンリー・ビーアカンプ老人から牛を買ったのがきっかけで、同家とつきあうようになったという。彼が幼い頃、おけいやコロニーの日本人は近くにいたので、おけいたちのことをよく覚えていた。

その彼の話として、キヨコさんは、残された日本人の最後の様子を聞かせてくれた。史蹟として保存している農家で、当時、日本人は最後まで一緒に暮らしていたが、いよいよそこを離れて散り散りになるときのことだった。

「最後にお酒が1本残っていたらしく、みんなで少しずつ飲んで別れようということになったらしいんです。でも、子供だったヘンリーがいたずらをして、中身をこぼして砂か何かを入れて飲めなくしてしまったらしい。そんなことを彼は話してくれました」

せっかくの別れの杯もあげられず、彼らはコロニーを去った。おそらくアメリカのどこかにその子孫はいるだろう。

おけいと若松コロニーについてのおおよその史実は、日米で研究され、それをもとに小説や劇にもなってきた。おけいは、墓のある丘の上にしばしばやってきては、故郷の方をながめて涙を流していたという話もあるが、真偽のほどはわからない。

日本が近代への扉を開くとき、会津は悲惨な戦いを強いられ故郷は荒れた。その陰で、アメリカへ渡り苦労した同胞がいた。その象徴がおけいだった。

また、現代に目を移せば、会津の被害は少ないが、福島県全体を見れば原発事故による被災者の多くがいまだ仮設住宅などでの避難生活を余儀なくされ、会津の仮設住宅にも避難している。

今回のフェスティバルに、会津若松から参加した会津大学短期大学部産業情報学科1年の小池さつきさんの学校の隣には、大熊町から避難して来た中学生たちのために仮設の中学校が建てられている。

「私の友だちにも被災して避難した人がいましたが、被災して故郷を離れざるを得なかった若い人たちを見ると、アメリカに行ったおけいさんの姿と重なります」と、自分と同い年で亡くなったおけいを思う。

時代のさまざまな状況に人は必死で抵抗したり、逃れたり、あるいは巻き込まれていく。会津の歴史もしかり、日系アメリカ人についていえば、戦時中は収容所で暮らすという理不尽な思いをした。

おけいがどんな気持ちでアメリカに来て、最期を迎えたのかいまは知るよしもない。しかしそれだけに、想像を逞しくして短くも異色な人生に、多くの人が自分なりの思いを寄せるのだろう。

(敬称一部略)

 

* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年6月17日掲載)からの転載です。

© 2013 Ryusuke Kawai, JB Press

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Acerca del Autor

Periodista, escritor de no ficción. Nacido en la prefectura de Kanagawa. Se graduó en la Facultad de Derecho de la Universidad de Keio y trabajó como reportero para el periódico Mainichi antes de independizarse. Sus libros incluyen ``Colonia Yamato: Los hombres que abandonaron 'Japón' en Florida'' (Junposha). Tradujo la obra monumental de la literatura japonesa americana, "No-No Boy" (igual). La versión en inglés de "Yamato Colony" ganó "el premio Harry T. y Harriette V. Moore 2021 al mejor libro sobre grupos étnicos o cuestiones sociales de la Sociedad Histórica de Florida".

(Actualizado en noviembre de 2021)

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