Descubra a los Nikkei

https://www.discovernikkei.org/es/journal/2013/03/05/

第1回(前編) ロサンゼルス西南地区(クレンショー・ディストリクト)

ある時、友人からデジタルカメラに残った写真を見せられた。海辺の陽光を背にして建つ鳥居。「これ、どこだと思う?(ロサンゼルス郊外の)サンペドロとロングビーチの間にあるターミナルアイランド。あそこには昔、日本人の街があったんだってね。この鳥居はその名残なんだって」

ターミナルアイランドのことは聞いたことがある。戦前、和歌山県から移民して来た漁師たちの街がそこにあり、小学校まであったそうだが、今はもう日本人だけでなく、人が住む場所ではない。

今、ロサンゼルス近辺に居住する日系人や日本人の多くは、ガーデナやトーランスがあるサウスベイと呼ばれる地域、また南のオレンジ・カウンティではアーバインやコスタメサのある辺りに集中しているようだ。しかし、これはずっと昔からそうだったわけではなく、どこか別の街から日系人が流入した結果でもある。

友人が見せてくれた写真をきっかけに私の中に「ニッケイがいた街」について調べてみたいという気持ちが芽生えた。ターミナルアイランドのように、かつては多くの日本人が暮らしていたのに今は廃れてしまった場所もそうだし、また今でも日系人が住んではいるが世代交代と共に高齢者の街となってしまった場所もそうだ。これから、数回に分けて「日系人の生活拠点として栄えていた街」の過去と現在について書いていきたい。

盆踊りで賑わったクレンショー・スクエア

ターミナルアイランドにはまだ一度も行ったことがない。ロングビーチの港から橋を渡らなければ行けない場所だから、これまで足を踏み入れる機会がなかった。しかし、「ニッケイのいた街」の中に、以前から何度か訪ねた場所がある。西南地区、英語ではクレンショーディストリクトと呼称されるエリアだ。

往時は日系の店舗が軒を連ねていたというクレンショー・スクエア。住友銀行だったカリフォルニアバンク・アンド・トラスト(右)と、東洋的な形のスクエアの看板が日系の名残を留める。

クレンショー・ブルバードをサウスベイ方面から北上すると、フリーウェイ10号線にぶつかる前に、病院やショッピンモール、大きな教会が集中している一角がある。道を行く人はアフリカ系かラティーノばかり。しかし、取材で日系人の個人宅に伺う際に、住所がこの近辺だったことが一度や二度ではなかった。彼らは「以前は日本人や日系人が大勢暮らしていたけど、今ではすっかり少なくなってしまって」と口を揃えた。確かに見渡しても日系のビジネスは見当たらない。しかし、周辺の家々の造りや庭木がどこか日本的だったりと、日本を偲ばせる何かが残っている。

西南地区について話を聞いたのは、西南シニアセンターのプレジデント、柴邦雄さん。1929年生まれの柴さんは、帰米二世。静岡県から20歳の時に、生まれ故郷に戻って来た。

「リトルトーキョーまで行かなくても、すべて用事はここで済んだ」と話す、60年にわたる地域の住人、西南シニアセンターのプレジデント、柴さん。

「1年後の1950年には結婚をして、ここの近くに新居を構えました」と、クレンショー・ブルバードから2ブロックほど東にある同センターのオフィスで、柴さんは西南地区で過ごした60年を振り返ってくれた。

「一番にぎやかだったのは、クレンショー・スクエア(今も残るショッピングモール)ができた頃です。日本人経営の店が多くて、大きなパーキングロットで盆踊りの大会も開催されていました。祭りの時は日本人ばかりがぎっしりでね。あの当時はどこの日系人社会よりも、ここが一番栄えておりました。リトルトーキョーに行かなくても、西南の中だけで用事はすべて済みました。遠文マーケット(日系のスーパーマーケット)もあったし、日本人経営のボーリング場もありました。そのボーリング場の建物は今ではスターバックスになってしまったけれど、ボーリング場としての外観は残したままです」

また、西南地区には日系人子弟の日本語教育のために第一学園もあった。3人の子供を通わせていた柴さんは、日本語学校を統括する日本語学園協同システムで理事長まで務めた。

「毎日、子供たちは英語の学校を終えると、そのまま第一学園に移動して日本語を学んでいました。一時は生徒数も700人くらいおりました。子供が増えていくので、校舎を広げていきました。しかし、その第一学園も数年前に閉校となってしまいました」

夏祭りの盆踊りではおおいに賑わったクレンショー・スクエア、日本語を学ぶ子供たちで教室数が足りなかった第一学園、週末には日系人のティーンエイジャーが集ったボーリング場…それは今から半世紀前の西南地区の姿だ。一体、西南地区に何があったのか。日本人や日系人はどうしてここに残ろうとしなかったのか。その問いに対して、柴さんはゆっくりと語り始めた。

後編 >>

© 2013 Keiko Fukuda

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Sobre esta serie

Isla Terminal, Distrito Suroeste y Venecia. Una serie que visita áreas cercanas a Los Ángeles que alguna vez fueron áreas residenciales para japoneses estadounidenses y entrevista a testigos sobre lo que sucedió en el pasado.

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Acerca del Autor

Keiko Fukuda: Oriunda de la prefectura de Oita, egresada de la Universidad Internacional Cristina. Trabajó para una editorial de revista informativa en Tokio. En 1992 viajó a los Estados Unidos y trabajó como jefe de edición en una revista dedicada a la comunidad japonesa durante 11 años. Es freelance desde 2003 y actualmente escribe artículos para revistas focalizándose en entrevistas a personalidades. Publicó junto a otros escritores “Nihon ni Umarete” (nacido en Japón), Editorial Hankyu Communications. Sitio web: https://angeleno.net

Última actualización Julio de 2020

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