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第13回 御真影・教育勅語・修身

戦前ブラジルの日系移民子弟教育の理念は、臣民教育、忠君愛国的教育であったとよく言われる1。では、臣民教育、忠君愛国的教育とはいかなるものであろうか。それは、御真影をいただき、教育勅語の精神を体得する「臣民」、すなわち天皇に対する忠誠心と愛国心を持つ「真の日本人」になることであったといえよう。

サンパウロの日本移民史料館に復元されている移民の掘建て家屋内には、天皇皇后両陛下の御真影が飾られ、異国に来ていかに苦労しようとも皇室への尊崇を忘れない日本人の健気さや忠君愛国の精神が表象されている。しかし、こうした御真影がどのようにブラジルに渡り、日系移民一般に普及したのかは、実はそれほど明らかではない。今回は、御真影や教育勅語、修身教育のブラジルへの移植・普及をめぐって、こうした日系教育の内実の一端に迫りたい。

戦前期ブラジルの日系植民地における学校の役割は、たとえば、次のように描かれている。

植民地における天皇崇拝の中心は「日本学校」であった。戦後になって「日本語学校」という呼称が一般化したが、戦前には「ニッポンガッコウ」と呼ばれた。(中略)日本学校は日本人会によって運営され、そこには必ず「御真影」が安置され、教育勅語が備えられていた。日本学校は子弟教育の場であると同時に、日本人会の集会場であり、青年団・処女会の活動の中心であり、さらには産業組合の事務所であったりした。新年の四方拝、紀元節、入植記念祭、天長節(運動会を伴う。戦後、メーデーの休日を抱き合わせ、またはそれに横すべりして、メーデーの日に運動会を天長節の祝祭の雰囲気で継続してきている)、卒業式などに際しては、生徒だけではなく、植民地の全員が参列して、皇居遥拝(「東方遥拝」とも言って、「日本遥拝」を意味した)、御真影への最敬礼、勅語奉読、君カ代斉唱などの儀式が、大抵の行事に先行して行われた(前山, 2001, p.55)。

ここでは、30年代の日系植民地コミュニティが極度に抽象化して描かれている。したがって、「日本学校は日本人会によって運営され」ることは多かったが、「そこには必ず『御真影』が安置され、教育勅語が備えられていた」わけではない。実際には時代差とともに地域差もあるはずで、日系植民地における日本学校のすべてがこのようであったとは考えられない。「御真影」や「教育勅語」の入手も、それほど単純ではなかった。

宮内庁書陵部に「御写真録」という文書が保管されており、明治以来の御真影(天皇・皇后、皇族の肖像写真)を下賜した記録が残されている。明治末年から第二次大戦期までの「御写真録」を閲覧してみたが、ブラジルの場合、日本大使館・領事館への下賜記録はみられるものの、学校への直接下賜の例を見つけることはできなかった。

この「御写真録」で注目されるのは、大正15(1926)年8月24日に外務次官出淵勝次から宮内次官関屋貞三へ宛てた「在墨日本人会ニ於テ御写真複写拝受希望ノ件」という記事である。メキシコ各地の日本人会では、従来、「御真影」がなかったため、「民間頒布ノ粗雑ナル石版画又ハ新聞付録画等ヲ拝シ来レル処数多ノ日本人会ニハ今少シク御真影ニ近似セルモノヲ拝シ度希望ヲ有スル趣ヲ以テ今般在墨公使館ヨリ別紙写ノ通申越有之候」(「大正十五年御写真録」第7407号、)とあるように、その下賜を希望する内容となっている。ここで面白いのは、「粗雑ナル石版画又ハ新聞付録画等」が民間に出回っていて、正式な「御真影」がない場合、いわゆる複写御真影を拝していたという事実である。ブラジルの日本学校にあったとされる「御真影」は、このような複写御真影であったろうか。

写真13-1: サンパウロ天長節運動会。毎年大正小学校の教師や子どもたちも参加した。内山岩太郎総領事(当時)が写っていることから1930年代前半と思われる。 (クリックして拡大)

また、西川(2007)には、1945年1月の日本人農民Yの「御真影の購入」という話が紹介されている(西川, 2007, pp.156-157)。ここには、ブラジルで「御真影」が出回っていたこと。それを売る者と買う者があったことが記されている。同じく1960年の「ミネのムラ」の日語学校の教室には、天皇・皇后両陛下の御真影とともに、ブラジル大統領の写真が掲げられていたという。当時の日系コミュニティのおかれた状況を象徴するようで興味深い(同, pp.136-137)。

「御真影」が臣民教育の図像的シンボルだとすると、その精神を示すのが「教育勅語」である。先の前山モデルでは、日本学校における「天皇崇拝儀礼」では、御真影とともに教育勅語がセットになっていた。親たちの世代が、日本ですでに教育勅語の洗礼を受けていただけに、子の世代へのその影響は自然であった。この連載の第8回で紹介したYT氏のように、教育勅語を諳んじる二世は多い。筆者が知るその人たちの生まれや育った土地がそれぞれ異なることから、ブラジルにおける二世世代への普及がいかに徹底していたかが想像される。

サンパウロ州内陸のバストスは、日本人自作農育成をめざし、1920年代末に開かれた国策的植民地であったが、農事試験場や病院とともに「日本並み」の教育施設をそなえていることが魅力であった。この地の小学校長が教育勅語をきちんと奉読できなかったために、父兄から糾弾されたという話も伝わっている。その校長とは、少年時に移民し、ブラジル日本人最初の弁護士となった木下正夫である。バストスのような国策的大植民地には、日本式の臣民教育が行われていたか、少なくとも期待されていたことの証左になる。ただ、それが何年頃のどのような層のニーズを反映したものなのか、一つのエリアにおいての時代差にも注意をはらわねばなるまい。

木下が寄宿し教育を受けたサンパウロ市の聖州義塾は、キリスト教精神にもとづくリベラルな教育機関であった(第4回参照)。同塾では、御真影や教育勅語の奉読はなかったという。サンパウロ州内陸のアリアンサ移住地出身のSM氏は、1940年に長野県の父の実家に「帰国」した。氏が地元の小学校に入学して、最初に驚いたことが、教育勅語の奉読であったという。氏の学んだアリアンサ第一小学校は、大正デモクラシーの洗礼を受けたリベラルな気風で、御真影を拝したり、教育勅語を奉読する習慣を持たなかったのであった。

いくつかの地域でこうした非臣民教育的な事例が見られたにせよ、前山(2001)も指摘するように、戦前移民の4分の3が1925年以降の10年間に集中的にブラジルに来た「新移民」であった(p.54)ことを考えると、当時の日本の臣民教育的イデオロギーの影響は否定できない。戦後の勝ち組・負け組の抗争で、勝ち組組織の急速な拡大をみると、その影響の強さが尋常ではなかったことが理解できる2。ただ、戦中徐々に強化されていく枢軸国出身者に対する当局の抑圧や制限に対する反発から、遠隔地ナショナリズムに傾斜する者も多かったであろう。

こうした教育勅語の精神を体得するのが修身科の目的であり、日本では明治中期以来、小学校教育に取り入れられ定着していった。『伯剌西爾年鑑』(1933)は各地の「日本学校」についてつぎのように説明している。

各校日本語部の授業様式は概ね日本式で六年制を以てし、中には高等科以上を設けて居るものもある。学科目は国語、修身、算術、地理、理科、体操、唱歌で、教科書は日本の国定教科書に依る為め、伯国で生れた児童に説明しても諒解されぬ事が多いという(伯剌西爾時報社, 1933, p.108)。

このように、30年代前半には、すでに多くの日系教育機関で修身が教授されていた。実際に1937年に編纂されたブラジル最初の日本語教科書『日本語読本』には、修身教科書の影響が多く見られるのも事実である。

1916年に開設されたもっとも古い日系教育機関の一つであるコチア小学校では、少なくとも30年代中頃、御真影と教育勅語を備えていた。当時の校長だったAS先生によると、立派な奉安庫もあったという。戦時中の1942年には、修身のお話などは各受持ち教師が学校裏の牧場を使用するという「新教授法」の採用が記録されている(石原,1978, p.56)。先の臣民教育の影響の強さをあらためて知るとともに、日系教育者の几帳面さ、「日本勝利」後に帰国した場合の子どもたちの不適応を心配する小心さもほの見えてくるようである。

戦後の日系リーダーの中には、ブラジル社会での成功をこのような修身教育のおかげだと賞賛する人も少なくない(根川, 2008, p.79)。日系団体によっては、現在でも、元日に教育勅語を奉読したり、掲示していたりする所も存在する。ブラジル日系教育における御真影・教育勅語・修身をめぐる問題は、日本近代史の文脈においても多くの問題を投げかけており、まだまだ追究していく必要がある。

注釈:
1.たとえば、野元(1974)によると、戦前ブラジルの日系移民子弟に対する日本語教育の理念は、「日本と同様、皇民を育成することにあり、教育勅語の精神を基調とした忠君愛国的教育であった」(p.17)とされる。

2. 勝ち組組織中最大の臣道連盟は1945年7月22日に発足、「積極的勢力拡張運動により、数ヶ月を出ずして支部数は六十余に達し、家族を含む会員総数は、当時の邦人の過半数を越える十数万人の一大組織となった」(宮尾, 2003, p.110)という。

参考文献
石原辰雄編著(1978)『コチア小学校の五十年-ブラジル日系児童教育の実際』サンパウロ(私家版)

西川大二郎(2007)『ある日本人農業移民の日記が語る-ブラジルにおける日本農業移民像-』サンパウロ人文科学研究所

根川幸男(2008)「大和魂とブラジリダーデ-境界人としてのブラジル日系政治家と軍人-」『移動する境界人-「移民」という生き方』現代史料出版pp.55-87

野元菊雄(1974)「ブラジルの日本語教育」『日本語教育』24号,日本語教育学会pp.15-20

前山隆(2001)『異文化接触とアイデンティティ』お茶の水書房

宮尾進(2003)『臣道聯盟・移民空白時代と同胞社会の混乱-臣道聯盟事件を中心に-』サンパウロ人文科学研究所

伯剌西爾時報社編(1933)『伯剌西爾年鑑・下』伯剌西爾時報社

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© 2010 Sachio Negawa

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Sobre esta serie

La segunda columna Discover Nikkei de Yukio Negawa de la Universidad de Brasilia. Como ejemplo de la expansión de la "cultura japonesa" en el extranjero, particularmente en América Central y del Sur, este libro informa sobre el flujo y la realidad de la cultura educativa japonesa en Brasil, que cuenta con la comunidad japonés-estadounidense más grande del mundo, desde la época anterior a la guerra. y los períodos de mitad de la guerra hasta el presente.

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Acerca del Autor

Sachio Negawa es profesor asistente en los departamentos de Traducción y Lenguas Extranjeras de la Universidad de Brasilia. Experto en Historia de la Inmigración y Estudios Culturales Comparados, vive en Brasil desde 1996. Se dedicó plenamente al estudio de las instituciones de aprendizaje en las comunidades japonesas y asiáticas.

Última actualización en marzo de 2007

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