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El abuelo emigró a Colombia (Inglés)
Monica Teisher 22 de septiembre de 2019
(Inglés) Ellos vinieron a Corinto, Cauca, o supongo a El Jagual, que fue la comunidad …

Los días que he llorado por extrañar mi Japón (Japonés)
Haruo Kasahara junio y julio de 1991
(Japonés) Vine a los Estados Unidos en 1919. Como mis padres ya estaban ubicados aquí …

Parent's immigration to Peru
Kazumu Naganuma 20 de septiembre de 2019
He went there with, he said, hundreds of Japanese men on a ship, so that …

両親がブラジル移住を決めたきっかけ
Masato Ninomiya 19 de septiembre de 2019
結局私の父は7人家族なんですけど、ある時5人までブラジルに行ってた時期があるんですね。二宮コトと言うのがいて、これはだから私の父の姉ですね。それから私の父の二つ年上の二宮トクイチと言うのがいまして、これ全員、そのくましたはるみと言うその私の叔父の構成家族として1926年か27年にブラジルへ行ってるんですね。 で、まぁ二宮コトは「しむた」と言うまあ福岡県出身の人と、ブラジルで結婚した。 1952年の2年の終わりか1953年の初めに日本へやってきたそのしむた夫妻がものすごいお金持ちに見えて、彼らはまあ私たちの生活を見て、「こんなものはもうブラジルの方がもっといいと。日本はもう戦争に負けて、もう日本に未来はないからブラジルに来ればいい生活ができる」みたいなことを言ったんですかね。それでまあ、うちの両親は、まぁその言葉になんて言いますかねぇ、乗せられてですね「それでじゃあブラジルに行こうか」と。 1953年の11月28日にアメリカ丸と言う船で横浜を出て、それで1954年の1月16日にサントスに着いたんですね。

初期の日本人移民の職業
Masato Ninomiya 19 de septiembre de 2019
最初はみんな農業で、内陸部に行って、コーヒー農園で働いたりしてたんですけど、コーヒー農園での契約が終わると、そのままそこに残ったり、あるいは違う、なんて言いますかね、農場を探して行ってみたり、あるいはあの平野運平のようにですね、グループができて、それこそ、サンパウロ州の内陸部に安い土地を買って、そう言ったところを開拓して、農業やったと言うような人達がいれば、もちろん農業をやる人だけではなくて、そのさっき言ってた私の戦前に行ったそのくましたと言う家の人たちのように、飲食店をやったりですね。それから洗濯、洗濯屋さん、それから、まあそういう、あるいはその朝市、フェラって朝市でその今度はその野菜とかそういう、生鮮食料品を売るような仕事をするような人達も、増えていったということなんですね。 ですから、日本人が農業と切っても切れない関係があると言うのは、そういう関係から出て来て、農業をやって、それでまあ成功して、段々大規模な農業をやるような人も増え、あるいは都会に出て来て、子供を教育しながら、そう言ったその小さな商売をやるような人も増えてきてですね。

移住船内での生活について
Masato Ninomiya 19 de septiembre de 2019
船の中のことはよく覚えてますね。運動会があったり、学芸会みたいのがあったり。学校みたいのがあったり、みんなで歌を歌ったり。まだ私は5歳ですからね。まだ小学校行ってないから、そういう幼稚園的なことで、みんなで歌ったり、走り回ったりということしか覚えてなくて。 それから、やっぱり船の中の食事っていうのは、非常にこう何ていうんですかね、量がたくさんあって、食べきれなかったとかですね。昭和28年の日本の食生活は非常に貧しいんだけど、船の中だと三度三度ごちそう的なものが出てきて。うちの母は妊娠してて船酔いであんまり食べられなかったけど、栄養というか、そういう船の中の食事は非常に豊かだったように記憶してる。 ロサンゼルスに船が着いたときは、戦争直後だから、日本人は一切上陸させてもらえなかったですね。私はしかし5歳だから、船員さんにくっついてちょこちょこっと降りて行って、私だけがその、アメリカの、なんていうんですかね、土地に足を踏んだわけですね。さんざん怒られたわけですけど、そのことも覚えていますね。

閉鎖的な日本人コミュニティ
Masato Ninomiya 19 de septiembre de 2019
日本人ってのはどちらかと言うとまあ閉鎖的で、それで、農村に閉じこもってって言うか、殖民地、みんな日本人ばっかりじゃないですか、日本語で話して。それからまあ、運動会も、それから学芸会も、みんな日本語で、日本人のために。それから、なかなか農村にいると言葉も覚えないし、二世のジェネレーションになると別ですけどね、一世の人達は、運動会とかなんかあると、みんなこう天皇陛下バンザイとかね。それで東の方向いてお辞儀してるとかですね。そういうのはブラジル人から見ると、もの凄く奇異に感じられたと思うんですね。それで、日本人は閉鎖的だと。 それからもうひとつは、原則として、日系人同志でしか結婚しないと。非日系人との結婚てのは、ものすごくまれだったわけですね。

戦時中に厳しく規制された外国語教育
Masato Ninomiya 19 de septiembre de 2019
それでブラジル政府は、まず1938年の12月でしたかね、外国語による教育を禁止したんですね。それはドイツ語と日本語とイタリア語だったんです。英語とフランス語はそういった制限にはひっかからなかったんですけど。 ただサンパウロの場合はですね、ハワイにおける日系人と同じで、そのイタリア語を制限すると、サンパウロの街が成り立っていけないような感じだったはずなんですね。イタリア語の影響がサンパウロにおいては強いんで。そうするとイタリアは、戦争が始まってもすぐ降伏してしまったり。イタリア移民とかイタリア語に対する制限てのはそんなに厳しくなかったような気がする。 日本語は、もう日本語とドイツ語ってのはやっぱり、ものすごくやっぱり厳しく制限されてですね、戦時中なんてのは、日本語、3人で日本語喋っているとなんか逮捕されるとかですね、そういうようなこともあった。

勝ち組・負け組
Masato Ninomiya 19 de septiembre de 2019
それから、1941年ですか、昭和16年の7月末ですかね、今度はもう外国語による新聞の発行が禁止されたんですね。そうすると日本人の圧倒的大多数はポルトガル語ができないから、結局その日本語の新聞によるそのニュースがわかんなくなってしまって。で、そのうち戦争が始まり、日本からのニュースが短波放送によるものしか聞けなくなってですね、それで戦争が終わった時に、戦争が終わった時に日本が勝ったとか負けたとかそういう議論になる、なるわけですね。それで、勝ち組とか負け組とか言う、今で言えば考えられないような、そんなことが起こってですね。 その日本が負けたと認識していたのは、やっぱりそのポルトガル語が分かり、あるいは英語がわかるような、いわゆる日系社会のインテリ層の人達だったんですが、しかしその臣道連盟とかそういうのが、結局その日本が負けたと言ってる連中は国賊だ見たいなことになり、それで、そんな今で考えればちょっとなんて言いますかね、本当に常識外れのようなことが起こって。たしか23人位のいわゆる認識派ですね、敗戦派と言うのが殺害され、150~160人が怪我をし、それでまあブラジル政府もほっとけなくなってですね、それでまあ、あのそういった人達を逮捕して、サンパウロ州の北部海岸にあるアンシェッタ島という島の刑務所に送り込んだと。 100周年、2008年の時に、「私は誰誰をえ~殺したんだ」と言うような人なんか出てきたりしてですね。その彼が腹に巻いていたというその寄せ書きがまぁ今移民資料館に飾ってありますけどね。

移住当初も若干残っていた勝ち組
Masato Ninomiya 19 de septiembre de 2019
私がその移住した1954年っていうのは、ちょうどサンパウロ市の創立400年祭ってのがあってですね、我々が1月26日、1月16日に着いたんですけど、1月の25日がサンパウロの創立記念日で、私はまだ5歳で全然覚えてないですけど、まあ盛大なお祭りがあったわけです。 しかしながらその頃まだ、桜組廷臣隊と言う団体が残っててですね、彼らは、日本は戦争に勝ったんだけども、戦争の結果、まだまだ再建の道が険しいので、自分たちを国費で帰国させろというような、運動ですね、あのサンパウロのプラサ・デ・セから総領事館があるとこまでデモ行進したりしてね。その写真はあの移民資料館にも残ってますけど。まあそういうまだ、いわゆる勝ち組と言う人が戦争が終わってからまだ10年経っても未だ若干いたということですね。