Takahiko Yodo

1991年10月1日、大阪市天王寺区出身。2015年にブラジル留学団体を通じて初渡伯し、某日系飲料会社で1年研修留学を行った。16年に一度帰国し、東京にて約3年オフィス家具のリユース会社で営業として勤務。留学後に掲げた「30歳までに再渡伯し、よりブラジルを知り成功を収める」事を目標に20年3月に再渡伯、ニッケイ新聞日系社会面記者として勤務。

(2021年7月 更新)

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東京五輪・日本生まれの柔道ブラジル代表 - エドアルド・ユージの挑戦 - その2

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国籍の壁にぶち当たり“見知らぬ母国”へ

高校卒業後、国際武道大学に入学。1年生の時に関東学生大会で2位に入賞した。本来なら国際大会への登竜門「講道館杯」の全日本ジュニア大会へ出場できるはずだったが、ブラジル国籍だったことが理由で出場権が剥奪されたという。

「両親共にブラジル国籍。その流れで自分もブラジル国籍。国籍は20歳になると選ぶことができるけど、当時はまだ19歳だったので、選択権がなく自動的に講道館杯の出場権が無くなりました。その時は、仕方ないと思いつつもショックでしたね。その国籍の問題もあり将来のことも不安になりましたね。日本で柔道をしてきた人は引退後、教師や警察など公務員になることが多いですが、ブラジル国籍だと公務員になれないのでお先真っ暗で悩んでいました」と国籍の壁に当たったことを語る。

そんな国籍の問題で悩むユージ氏が渡伯したきっかけは、ブラジルから国際武道大学に交流試合に来ていたクラブチーム「アカデミア・メルカダンテ(Academia Mercadante)」から当地での試合出場を誘われたことだった。

誘われるままにブラジルに1週間滞在し、柔道ジュニアクラス大会に出場し優勝した。

「大学にブラジルのチームが国際交流として練習に来ていた際、そのチームに国籍の問題で公式試合に出場できない事を伝えると、『ブラジルの公式試合にでてみないか?』と誘われました。そして1週間ブラジルに滞在しジュニア大会に優勝。それがきっかけで、『どうせ日本で活躍できないなら一か八か、ブラジルで挑戦しよう!』と決断しました。大学を中退し、借りていた奨学金など両親に払ってもらい迷惑をかけました。ですが、両親は自分が柔道や将来で悩んでいた事を理解していたので、全面的に後押ししてくれました」と感謝する。


ポルトガル語ゼロ

そして、ユージさんは改めてブラジルに渡り、柔道有名選手を数々排出するブラジルの名門クラブチーム「スポーツクラブ・ピニェイロス」の入会テストを経て合格。14年に同クラブに所属することとなった。当時はポルトガル語の読み書きがほぼできなかったため、サンパウロ市に住む姉2人を頼りきりだったという。

「言葉には本当に苦労しました。実家では両親はポルトガル語で話して、自分は日本語で返す会話だった。日常会話の聞き取りぐらいできるだろうと思っていましたが、現地の人は話すのは早いし地方の訛りもあって、聞き取りや会話に本当に苦労しましたね。ポルトガル語の書類がきたら全部姉に丸投げでした」と恥ずかしそうに語る。

「特につらかったのはSNSでのメッセージ。試合の為に乗るバスの集合場所連絡などもチームのグループメッセージに送られても何が書かれているのかさっぱりわからないので、今より性能が低い翻訳アプリで調べて迷いながら集合場所に行くなど…。ずっと言葉に集中しないといけない日々で大変でした。仲間にもブラジルらしいピアーダ(冗談話)を話せないことをよく馬鹿にされ悔しい思いをしました。でもそんな悔しさをバネに会話の勉強をしたので、今はもう大体の言葉は理解できて話もできます。逆に自分が仲間に冗談を言い返しますよ」と笑う。


背水の陣で踏ん張る

ブラジルのプロスポーツクラブに所属する選手はクラブから給料を毎月で貰うが、所属当初は薄給だという。大会で好成績を納めれば給料があがり、さらに代表メンバーになると別途国から補助金も受給される。

また、メダルが有望視される選手を軍が支援する制度「Programa Atletas de Alto Rendimento (PAAR)」(高返益選手育成制度)にも選ばれた。3軍が分担して「三曹」待遇を有望選手に与え、月給の支給および軍スポーツ施設や医療制度の利用を許可する制度だ。軍の通常の訓練はスポーツ選手であることを考慮し年1回の合宿のみで免除される。

同氏は14年から同クラブに所属。16年にはリオ五輪テスト大会優勝や17年パンアメリカ柔道選手権大会優勝、18年の世界軍人選手権大会優勝、19年パンアメリカン競技大会優勝などの好成績を残している。

「クラブチームに所属して1年目は給料が月400レアルのみ。当時は寮もなかったので、先輩と自分の5人で家を借りて家賃は一人当たり700レアル。それに加えてサンパウロは生活費も高いし貯金もないので、父に一年だけ家賃の負担をお願いしました。『一年で結果が出なかったら日本に帰国する』と約束しましたよ。結果、1年後には無事良い成績を出し、昇給に加えて国からの補助金も支給されるようになりました。約6年たった現在は自立できるようになりました。まさに背水の陣でしたね」と語る。

同クラブチームの柔道コーチはチアゴ・カミーロ氏とレアンドロ・ギレイロ氏。どちらも過去に五輪柔道で入賞した実績をもつ名選手であり名コーチだ。両者については「本当に尊敬している。スポーツは慣れに身を任せてしまう瞬間があるが、二人は常に最善の策を考えて指導していて本当に勉強になる」と尊敬している様子。

6月13日にハンガリーで行われた国際柔道連盟(IJF)の「2021年世界柔道選手権ブダペスト大会」で世界ランキングが決定。東京五輪出場条件は世界ランキング18位内だが、18位にギリギリ入り出場が決定した。

「選考試合が終わって五輪出場が決まりホッとしています。やっとスタート地点にたった気持ちです。目標はもちろん金メダル。そのためにも日頃の練習の成果を試合で出し切りたい。そして金を取ったら皆に見せて、自分の日本やブラジルでのこれまでの体験談を話したいです!」

ユージ選手は「今まで辞めたいと思ったことは何度もあります。でもそのたびに両親や姉、家族、高校の先生の事が脳裏に浮かんで力がみなぎってきます。今回の五輪でもその人達の思いを背負って全力で頑張りたい。また次のパリ五輪にも出場して金メダルを狙いたいです」と力強く語った。

 

*本稿は、「ニッケイ新聞」(2021年7月7日8日)からの転載です。

 

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東京五輪・日本生まれの柔道ブラジル代表 - エドアルド・ユージの挑戦 - その1

13日静岡へ「メダル持ち帰る」

「両親やお世話になった人、仲間の想いを背負って、なんとしても金メダルをブラジルに持って帰ります。ぜひ日系社会の皆さんも応援してください」――東京五輪柔道部門への出場を控えるエドアルド・ユージ・サントス(Eduardo Yudy Santos)さん(26歳・三世・2段)は、日本人のような日本語でそう意気込みを語った。いよいよ23日から始まる「東京オリンピック・パラリンピック」を前に、柔道部門にブラジル代表として出場する、日本生まれ・日本育ちの三世のエドアルド・ユージ・サントス選手を6月24日に取材した。

同選手はサンパウロ市にある名門スポーツクラブ「ピニェイロス(Esporte Clube Pinheiros)」にプロ柔道選手として所属する。リオ・デ・ジャネイロ五輪テスト大会優勝やパンアメリカ柔道選手権大会優勝、世界軍人選手権大会優勝、パンアメリカン競技大会優勝などの輝かしい成績を持つ。6月13日にハンガリーで行われた国際柔道連盟(IJF)の「世界柔道チャンピオンシップ」では、東京五輪出場条件である世界ランキング18位入りを果たした。

東京五輪柔道に出場するブラジル代表は13人。うち日系ブラジル人は4人出場。同クラブからは6人が出場する。

ユージさんは同クラブで元五輪メダリストのチアゴ・カミーロ氏(Tiago Henrique de Oliveira Camilo)氏とレアンドロ・ギリェイロ(Leandro Marques guilheiro)氏の指導の下、東京五輪に向けて連日稽古に励んでいる。同氏13日に日本入り、そのまま静岡で隔離と強化試合を行った後、27日に81キロ級として個人戦に、30日には90キロ級として団体戦の試合に挑む。

* * * * *

曽祖父母がブラジル移住し、祖母の故イナバ・マサコさん(二世、日本国籍)はブラジル人と結婚。その娘でユージさんの母レイラ・デ・ブリト・サントス(Leila de Brito Santos)さんは夫ジェレミアス・アントニオ・ドス・サントス(Jeremias Antônio dos Santos)さん(ブラジル人)と共に、日本に戻っていたマサコさんに会うために1992年頃に訪日した。

マサコさんが当時住んでいたのは茨城県下妻市で、時あたかもデカセギブームの真っ最中。訪日をきっかけに二人は工場労働をすることに決め、そこで1994年にユージさんが生まれた。

柔道は4歳から「下妻市スポーツ少年団」で始めた。当初は姉が柔道に興味をもったことに加えて、ユージ氏がわんぱくだったことから両親が道場に入会させたという。

「子供のころは少しやんちゃだったので、両親に『人の痛みをわかりなさい』と言われて柔道を始めた。始めてみると相手の痛みを分かるよりも、勝つことのほうが楽しくてストレス発散になりましたけど…」と恥ずかしそうに笑みを浮かべた。

4歳から柔道を始めたユージさんだが、小学5年生から約2年間はサッカー部で活動していた。

「当時サッカーが流行っていたので、自分もやっていました。成績はそんなに良くなかったですが…。そんな中学一年生の時に柔道部の顧問に『試合の人数が一人足りないから柔道経験のあるユージが出てくれないか?』と頼まれ出て、2試合中1試合で負けたんです。その負けが悔しくて悔しくて見返したいという思いから柔道を再開しました。復帰後は県大会に優勝、全国大会にも出場しました。素行が悪かったからか、あまり高校の推薦は来ませんでしたが…」と苦笑いを浮かべる。

そして茨城県立明野高等学校に入学。同校柔道部顧問との出会いが人生の転換期だったという。

「顧問の先生が本当にやる気の引き出し方が上手な人だった。あの時期があったから今の自分があると今でも感謝しています。頭ごなしに怒ったりせずに、気分に合わせた指導をしてくれる人でした」と振り返る。

「当時、柔道部は全員坊主頭が決まりだったものの、自分は坊主が嫌でなかなかしなかった。でも2年生になる時に柔道部のキャプテンを任されることが先生から伝えられ、次の日に直ぐに坊主にしました。誰よりも早く道場にきて掃除、3時間の稽古、2時間筋トレ、これを月曜から日曜まで毎日行いました。不思議と苦じゃなかった」

さらに、「今思うと先生の指導と引き立て方が本当に上手かったんだなと思います。あの恩師がいなかったら、多分柔道は高校で辞めていたし、今の自分は無いとおもいますね…」とブラジル代表五輪選手になった今、感慨深そうに語った。

その2 >>

 

*本稿は、「ニッケイ新聞」(2021年7月6日7日)からの転載です。

 

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