Takeo Yamamoto

マイグレーション研究会前会長。社会学博士。関西学院大学名誉教授。社会学(コミュニティ論)専攻。日系アメリカ人の諸 問題をコミュニティの視点から研究している。主な著書 『都市コミュニティとエスニシティ』(1997、ミネルヴァ書房)、『阪神・淡路大震災の社会 学』(共編著、全3巻、1999、昭和堂)、『地域生活の社会学』(2001、関西学院大学出版会)、など。

(2012年9月 更新)

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Nikkei Chronicles #1—ITADAKIMASU! A Taste of Nikkei Culture

NIKKEIと料理文化

以下では日本食の特質について考える。その意図は、NIKKEIの人たちが日本食について日頃イメージし・思っていることと、以下で指摘することとの間に共通点・共有部分があるか、ないか、また、たとえそれらがなくともNIKKEIの人たちの賛同・納得が得られる部分があるか、ないか、を考えること、にある。さらに言えば、そうした結果に至るのは何故なのかを考えてみたいからである。そうするなかで、NIKKEIの人たちの、ひいては世界中の多くの人たちの、日本食についての理解や認識が深まるのではないか、と考える。これが、いささかテーマとずれるが、あえて取り組んだ理由である。

2005年7月20日、朝日新聞は「和食人口の倍増計画」と題する記事を掲載した。それは、世界の和食人口(日本食を1年に1回以上食べる人)を、官民の協力のもと5年後には推計で現在の2倍の12億人にしようという計画である。目標が達成されれば、日本料理は、フランス料理、中華料理に次ぐ、世界の第3勢力になる、そのカギは生魚である、という。達成されたかどうかはともかく、2012年6月15日の同紙は、sushiを先兵に魚食文化は世界に広まった、生魚のうまさに人々が気づいたからであろう、と論じている。加えて、ニューヨークなどでは日本酒の消費が、フランス料理店、アメリカ料理店など日本食以外の店にもすこしずつ拡がっている、と報じている(同紙、Globe 2012年6月17日)。

生魚や日本酒などに代表される日本食が、このように注目されるようになってきているのはどうしてなのであろうか。これまで、ファースト・フードに対比されるスロー・フードの観点から、また、肥満や健康の視点から、日本食の利点や特質が論じられることが多かった。以下では、これらとは異なる立場から、日本料理の特質を文化の観点から考える。

結論を急ごう。日本料理の特質は以下のように整理できる、と考える。

1)季節感の重視:日本語で旬と言われるが、どの食材には食べ頃があり、その持ち味を生かした、季節感あふれる料理がつくられる、ということである。上で「生食のうまさ」が指摘されたが、実は、どの魚も、年中、美味なわけではない。魚ごとに美味しい季節が異なる、冬にはぶりを、夏は鰹を、等はその一例である。

2)料理を入れる器:料理にあった多種多様な器が用意される。材質(陶器、磁器、漆器、ガラス、金属製等)、サイズ(大型、小型等)、形(丸型、四角型、多角形、底の深いもの・浅いもの等)、彩色(無色、有色、無地、模様付き等)の組み合わせによって多くの器が、出来上がった料理に合わせて活用される。夏の刺身には見た目にも涼しげなガラス類が、冬は熱を逃がしにくい厚味の彩色器が、また、秋はモミジ、春はサクラをそれぞれイメージした器が、用いられる。食欲がそそられ、心が豊になる一因であろう。

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3)美意識あふれる盛り付け:料理の魅力は盛り付け次第で異なる。料理人に芸術的センスが要求される所以である。盛り付けは料理人の最後の腕の見せ所である。なぜなら食事は眼で見て楽しみ、鼻で季節の香りを嗅ぎ、手で器の心地よい感触に接しながら、口で美味しく味わうものだからである。日本料理は、単に食欲の充足のみを追求するのではなく、こころをも満足させることを念頭においてつくられるからである。この盛り付けは、花、とりわけサクラを愛でる心に通じてものがある、と考える。これは、比喩的な意味での日本料理独特の隠し味と言えようか。さらに言えば、耳に心地よく響く言葉遣いも、盛り付けと同じように、隠し味のひとつであろう。たとえば、醤油を「ムラサキ」と、雪花菜(おから)を「卯の花」というふうに、優雅に表現するなかに、俳句心をくすぐられる思いを経験した、あるいは、古き昔の和歌や俳句を連想した人は多いのではなかろうか。料理は、食する時間のなかで消え行く運命にあるものの、一瞬とはいえ遠い過去とのつながりを意識させる文化的作品の一面をも持ち合わせている、と考える所以である。

4)麹文化の活用、隠し味の多用:最後に、酒を始めミソ、醤油などの発酵食品を調味料として活用し、加えて、本来の意味での隠し味、つまり、ある調味料を目立たぬ程度にごく少量加え、全体の味を引き立たせる、そういう技法が指摘できる。つまり、控えめな脇役でいながら、主役の役割を果たす調味料の投与である。もちろん、日本酒は、隠し味としての大役を果たすのみならず、主役として、料理に合わせて、ある時には冷酒で、別の時には熱燗で、場合によってはぬる燗で振る舞われる。

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以上、日本料理が注目されるようになった理由について考えてきた。潜在的・顕在的に日本文化のエッセンスが垣間見られ、それらと無関係でないことが分った、と言えよう。

NIKKEIの人たちは、上の多少とも誇張された指摘に対しどのような感想をお持ちであろうか、また、日本料理に対してこれまでどのようなイメージをお持ちだったのであろうか。最後に、複数の文化を持ち合わせておられるNIKKEIの人たちにお教えいただきたい、問いをいくつか記しておきたい。

  1. 年齢を重ねるにつれて、成長期に食べたお袋の味が恋しくなるものだと、よく言われるが、そのようにお感じになることがあるだろうか。
  2. 「ルーツは日本だから、日本文化を理解しようと思えば日本料理をよく食べ、好きになること、逆に、日本料理をおいしいと思わない限り日本文化を理解できないのではないか」。こうした指摘をどのように判断されるか。
  3. かつて、「男の幸せは、日本人の妻をもらい、アメリカの家に住み、中華料理を食べること」という意味のことを聞いたことがある。これは当たっているのだろうか。

以上

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来日就学生物語 ~マイグレーション研究会メンバーによる移民研究~

第2回 ある帰米2世のあゆみ

「余は、関西学院で人間を学び、早稲田大学で日本を学び、オックスフォード大学で世界を学んだ」。これは、逓信大臣・拓務大臣を務めたこともある、民権政治家永井柳太郎1)の語りの一節であります。以下は、この言葉にあります関西学院出身の帰米2世カール・アキヤ・一郎(1909-2001、敬称略)2)についての小論であります。

1. 母、妹、弟と日本へ

カリフォルニア州サンフランシスコ生まれで6歳になるアキヤは、5歳の妹、3歳の弟とともに母親に連れられて、1915年、横浜の伯母のもとにやっ てきました。当時、在米日本人の間では、米国生まれの子どもを、どのように教育するかが喫緊の課題でありました。考え抜いた末の両親の決断は、子どもを母 国日本に送り、そこで教育を受けさせ、帰米させる、というものでありました。そうはいうものの、両親にしてみれば、幼い子どもがこれから先どのよう育って ゆくのか、身内に預けるとはいえ、子供の不憫さがひしひしと感じられ、多くの戸惑いがあったに違いありません。他方、幼い3兄弟は、何のために日本に行く のかを知る由もなく、いつもそばにいて、なにくれと優しくしてくれる母親との船旅を、不安や疑問を何も感じることなく、楽しんでいたことでしょう。

横浜到着後、弟は伯母宅にそのまま留まりましたが、アキヤと妹とはやがて大阪にいる母の次姉に預けられます。母子4人が横浜で過ごしていた間、ここ に至った経緯や事情、これからのことなどを母親がどのように子どもたちに語ったのか、こうした点についてアキヤは何も記していません。話しをしても判って もらえる年頃ではないので、また、話しをすることは、母親にとってはこころが裂けるような苦痛を伴うことなので、子供たちに何も話さなかったのかも知れま せん。いずれであれ、母親は、後ろ髪を引かれ思いで、日本を後にしたに違いありません。幼い兄弟もさることながら、母親の悲痛な思いが伝わってくる気がし ます。しかし、これは何もアキヤ家に特有のことではなく、当時、多く見られた「帰米家族」の悲しい別離の一コマといえましょう。

2. 関西学院中学部へ

小学校4年生のある日曜日、「歌が聴ける、お菓子がもらえる」との誘いにのり、日曜学校に行くようになります。そのうち教会での礼拝などにも関心を 持ちはじめ、こうしたことがキッカケでやがてミッションスクールである関西学院中学部に入学します。1923年のことでした。中学部では、毎朝の礼拝に参 加するだけでなく、YMCAの集会にも積極的に参加し、2年生時には、洗礼を受けるほどでした。

1927年、中学部卒業、専門部文学部英文科入学。1928,29年には夏休みを利用して一時帰国、今後の生活を見据えて農場などのアルバイトに精 を出します。そうした経験を経て、やがて、2世として自分の将来と真剣に向き合い、学院を出た後、日本に留まり、教育界に一生を捧げようと心に決めます。 ところが、1931年の満州事変は、この決意を揺がします。事変の勃発は、アキヤの思い描いていた平和な日本とはほど遠い、軍国主義を象徴するように思え たからです。このままでは、兵役に就かされ、やがては米国籍を失うことになるのではないか、思い悩んだ末の決断は、関西学院を中途退学し、日本の市民権を 放棄することでありました。それは帰米を意味します。満州事変と同年の1931年のことでした。

3. 関西学院での経験

帰米後のアキヤについて触れる前に、アキヤの関西学院での生活を、次の3点に絞ってまとめます3)。第1はキリスト教、第2は師との出会い、そして第3は講演部での活躍、についてであります。

第1点につきましては、彼の生活は、キリスト教中心に展開した、ということです。彼は、キリスト教を学び、聖書を研究する過程で、つまり、キリスト 教青年会、聖書研究会、早天祈祷会などで学習・交流を続けるなかで、社会生活の何たるかを会得します。そうしたなかやがて、社会に対する諸々の疑問や矛盾 を感じ、自問自答を繰り返し、最終的に自分なりの答えを見つけます。「祈るだけで世の中は救えない」がこれであります。この答えは、直ちに、彼をして社会 事業や政治に対する強い関心を抱かせ、関心はやがて行動を促します。これに与って力のあったのが、第2の点である、多くの師との出会いであります。

学院在学中、彼は多くの師から直接間接に影響を受けました。社会事業への関心は、賀川豊彦4)や神崎キイチ5)の手伝いをするなかで、政治への関心は第1回普通選挙に立候補した河上丈太郎6)の 選挙応援を通して、それぞれ深められ、それらの活動から彼は、行動することの大切さ、実践することの重要性を会得します。学院内に「社会奉仕会」という組 織を作って、学外で奉仕活動に従事したこと、関東大震災時には率先して救援活動に参加したこと等は、その一例であります。他方、思想的には左翼思想への理 解を示してくれた内村順也7)からはデモクラシーの何たるかを教わり、帝国主義・ファシズム等の危なさを学びます。「君はアメリカへ帰り給え」との内村の一言は、教師になって日本に留まるべきか、帰国すべきか迷っていた時、帰米を決意させるアドバイスでもありました。

第3の講演部については、アキヤは、関西の大学や専門学校と共同して多様な学術講演会を開き、社会や政治を論じ、弁論を競い合いました。生活の基本 は文学にある、との考えを実践していた彼は、常に読書に励み、知識を吸収し、得たことを自分の言葉に翻訳する楽しさ・難しさを体得し、その過程で論理の展 開の仕方を学び取ってゆきます。学術講演や政談講演には「自信があった」所以であります。

アキヤは多くのものを関西学院で学び、それらを実践していった、換言すれば、アキヤの豊かな才能を開花させる土壌・雰囲気が関西学院に備わっていた、と申せましょう。

4. アキヤを取り巻く周囲の状況

関西学院在学中のアキヤを取り巻く周囲の状況を、次に簡単にみましょう。

日米関係に関しましては、1924年のいわゆる排日移民法の可決・成立を前に、関西学院理事会は、時の国務卿に以下の決議文を電送しています。「移民問題の満足なる解決法を発見せられんことを」8)。専門部学生もまた、「この法の撤廃を期す」9)旨の反対決議をしています。アキヤは当時、中学部の生徒でありましたが、政治に関心を持つ多感な性格の故、また自分に直接関係するする法律であるだけに、この問題に無関心ではなかったはずですが、散見する限り、アキヤはこれらについて一言も触れていません。

日本を取り巻く状況に関していえば、アキヤの在学中、陸軍現役将校学校配属令が発令され、全国の学校(中学、専門学校、大学)で、いわゆる軍事教練 が実施されことになります。これは、平和を信条とし、キリスト教主義教育を旨とする関西学院においても例外ではありませんでした。あるとき、アキヤのクラ スで軍事教練がボイコット運動にまでエスカレートしましたが、アキヤは級長として責任を感じ、配属将校に謝罪をし、事なきを得たことがありました。また、 先述の米国への一時帰国を巡って、憲兵隊から出頭を命じられたこともありました。嫌疑はすぐに晴れはしましたが、「スパイ」と疑われてのことでした。監視 の対象として帰米2世がよく遭遇した不快な経験の一コマでありました。

5. 帰米後の生活行動

帰米後、アキヤは、社会主義系の新聞『同胞』と関わり、日系企業で働く労働者のために奔走します。第二次世界大戦が始まると、彼は当然のことなが ら、反ファシズム、親米、民主主義を鮮明にします。強制収容所では民主化闘争を行い、志願兵にも応募しています。本来ならば、彼がリーダーシップを発揮し て深く関わったトパーズ収容所での成人教育プログラム10)――これに彼のそれまでの人生経験が強く反映されていると考えています――について触れるべきですが、紙幅の都合で省略します。

関西学院時代に培われた聖書研究(思索)、弁論術(表現能力)、奉仕活動(行動)が相互に作用し合うなかで、その後のアキヤの生き方は形づくられ た、と考えます。そうした世界観・人生観の延長上に、1987年受賞の栄誉あるーマーチン・ルーサー・キング・ジュニア記念生涯の業績賞は位置づけられる と言えましょう11)

6. まとめ

以上、ひとりの帰米2世のライフヒストリーを粗く描いてきました。ここで言い得ることは、学校教育やその時代の状況や精神は10代の多感な生徒や学 生に、色濃く反映されるものだ、ということではないでしょうか。community of orientation の持つ意味が改めて強調される所以であります12)

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1)志賀太郎「永井柳太郎、疾風怒濤の青年期」、26-33頁参照、関西学院『関西学院高中部百年史』1989年。

2)カール・アキヤ・一郎に関する記述は、以下の資料を参照しました。
①カール・アキヤ著『自由の道太平洋を超えて』、1-245頁、行路社、1996年。
②「日系人の強制立ち退き・収容に関する実態分析」、19-43頁、関西学院大学社会学紀要104号、2008年。
③カール・アキヤの日記(馬小屋日記)。なお、この日記は、立命館大学名誉教授の山本岩夫氏のご厚意により関西学院大学史料編纂室に寄贈されています。
④関西学院発行の雑誌「クレセント」VOL11,nos.2 、84頁、1987年。

3)注2)の資料に加えて、関西学院、「資料室だより」、10-13頁、No.6 1988年、を参考にしました。

4)キリスト教伝道者、社会労働運動家。賀川が神戸で行っていた社会事業の手伝いをする。

5)アキヤの在籍中、神崎は高等商業学部の部長や学院の理事を務める傍ら、福祉活動・奉仕活動に精力的に従事。後に関西学院の院長や 理事長を歴任。1915年から同21年まで在米日本人会の書記長を務め、1920年には下院移民帰化問題委員会で、帰化権問題などについて、在米日本人の …

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来日就学生物語 ~マイグレーション研究会メンバーによる移民研究~

以下、9回に亘って、われわれマイグレーション研究会メンバー有志による、移民研究の成果の一端を発表させていただきます。お読み下されば幸いです。

1)マイグレーション研究会は、歴史学・地理学・経済学・人類学・社会学・宗教学・文学などを専攻する、おもに関西居住の学徒が移民・移住に関わる 諸問題を互いに協力しあって調査・研究しようとの目的で、2005年に結成された研究会であります。もっとも、その前身は、それまで長く続けられてきた関 西移民研究会に遡ります。どちらかと言えば、インフォーマルな研究集団であった先の関西移民研究会を発展的に解消して、装いも新たにフォーマルな研究会に 衣替えをしたわけであります。研究成果を毎年度末に印刷・公表すること、一定の共通テーマのもとにメンバーが数年に亘って共同研究をおこなうことなどが、 新たな試みであります。研究会は、移民・移住に関心をもつ同好の士に開かれた、入・退会の自由なオープンな組織で、2009年3月現在、60名弱の会員を 擁し、年4回の研究例会と1回の1泊の合宿形式による報告会を開き、そこでの成果は『マイグレーション研究会 会報』に収められています。これまでに会報 は3回発行され、現在、第4号にむけて準備が進んでいます。

「1930年代における来日留学生の体験:北米および東アジア出身留学生の比較から」を共通テーマとする共同研究最中の2007年、研究会のメン バーである山本岩夫氏に全米日系人博物館のディスカバー・ニッケイから原稿の依頼がありました。研究会では熟慮検討の末、共同研究参加者の有志が各自の研 究成果の一端を発表することで、このお申し出にお応えしようではないかということになり、今日を迎えたわけであります。この機会を与えて下さったディスカ バー・ニッケイ関係者の皆さまに感謝を申し上げます。

2)共同研究のテーマである「1930年代」、「留学生」、「東アジア」について、若干の背景説明をしておきたいと思います。

1880年代後半以降、出稼ぎを目的に渡米した日本人の多くは、紆余曲折の末、現地社会に定住する途を選びました。出稼ぎから定住にいたる過程の分 析や論考はたいへん関心を誘うテーマですが、別の機会に譲り、ここでは次の点のみを指摘するに留めておきたいと思います。それは、現地社会への定住過程 は、家族が誕生し、学校が設立され、日本人会・県人会・各種の職業集団などが本格的に活動をはじめ、という風に諸々の組織・制度の確立やそれら組織・制度 の活発な展開と互いに絡み合って、言いかえれば、この定住過程と組織・制度の確立や展開とは互いに因となり果となって、歩んでいった、ということでありま す。こうして形成された日本人コミュニティの担い手や日々の行動の主役は、当然のことながら、渡米した第1世代(以下、1世と記します)であり、彼らの子 供である第2世代(以下、2世と記します)の多くはまだ幼く、脇役に甘んじていました。それは、1910年代に1世の多くが結婚したこと、したがって2世 がその頃多数誕生したこと、そのためもあって、1920年にはいわゆる写真結婚による花嫁の入国が禁止されたこと、などから傍証される、といえましょう。 彼ら2世が日本人コミュニティにおいてその存在感を増し始めるのは、1930年代後半以降であります。そして、やがて世代の交代を迎えることになります が、その転機は、日本軍による1942年のパール・ハーバー攻撃であった、と申せましょう。

成人した2世が、米国市民としての、そして日系アメリカ人としての権利を主張するために結成した組織に、1929年設立のJACLがあります。組織された 当初は大して影響力を持たない2世の親睦団体的存在と見られていましたが、パール・ハーバー攻撃を契機に、それまで日系人コミュニティをリードしてきた、 日本人会・日本語学校・仏教会など主だった組織の担い手が逮捕・勾留されるにおよんで、英語の出来る2世集団が1世に代わって矢面に立たされることが多く なってきました。JACLが脚光を浴び、やがて主役を演じるのは時間の問題でありました。JACLのメンバーやリーダーは、年齢的にはやや年長、高学歴 的、都市居住者、弁護士・歯科医などの専門職従事者を特徴とし、自分たちは米国人であるとの強い帰属意識を持ち、国家への忠誠・貢献をモットーに、いわゆ る米化志向・中流志向・主流化志向を持つエリート層であった、といえましょう。

このJACLメンバーと考え方を異にする2世集団として、幼年・青年期を日本で過ごし、そこで教育を受けた後、帰国した、いわゆる帰米2世と呼ばれ る集団があります。この集団は、いつ頃日本に滞在していたかによって、さらに2グループに分類できます。ひとつは、1920年代末から30年代に帰米した 人で、彼らは、自由主義的・急進主義的政治思想の波が日本国内に拡がりつつあった、そういう時期に日本で勉学に励み、その思想に影響・感化された人たちで あります。労働運動に身を投じた人もいました。もうひとつのグループは、1930年代に成人に達し、同年代末から1940年にかけて帰米した人たちであり ます。国民を戦争に動員するための神道的・国家主義的考え方が浸透していた時期に日本で教育をうけた若い彼らが、忠君愛国的考え方に染まって行くのは当然 の成り行きであったといえましょう。親日的な彼らは先の帰米2世ともJACLメンバーとも対立し、1世に近い考え方であった、といわれています。共通テー マの「留学生」がこれら帰米2世を指していることはいうまでもありません。

こうした点で第2次世界大戦前夜の1930年代の日系アメリカ人の動向を、留学生に焦点をあて複眼的・学際的に研究することに意味がある、といえましょう。

3)次に東アジアについても簡単にみておきましょう。当時の日本の状況はどうであったのでしょうか。満州事変(1931年)を契機に日本は、以後、 15年にも及ぶ戦争の時代に突入することになります。その間、日本は、国際的には、いわゆる協調路線から孤立化への道をまっしぐらに進むことになります。 敗戦までのこの15年は、換言すれば、世界経済のブロック化に対応して日本が独自の勢力圏を構築しようとした時代で、満州国建設、大東亜共栄圏樹立という 発想が欧米列強との対立・日本への経済制裁を招き、そのことが日本の武力行使を正当化させ、という風にドロ沼化した悪循環がみられた時代でありました。他 方、国内的には、政党政治の崩壊と軍部の台頭が顕著になり、民主主義・自由主義的な考え方は排除され、軍国主義・超国家主義的思想・行動様式が蔓延しはじ めました。こうした動きは日本経済や国民生活を圧迫することにつながり、その打開策としてとられたのが三国同盟締結や東南アジアへの侵略政策であり、それ らが引き金となって、太平洋戦争に突入していくことになります。しかもこうした動きは、明治期からの動きの延長上にあったといえましょう。

この点を少し東アジアの人たちの側 に立って振り返ってみますと、1910年の日韓併合以後1930年代にかけて、多くの朝鮮人が来日を余儀なくされました。とりわけ1930年代、中国大陸 侵略への前線基地と捉えられた朝鮮各地農村の破壊は著しく、生活基盤を失った農民は賃金労働者として日本に来ざるをえなかったからであります。その後、こ の状況は戦時体制強制連行に繋がってゆくわけであります。こうした農民とともに、留学生の来日もみられはしましたが、その数は多くはありませんでした。来 日留学生が増加し始めるのも1930年代になってからであります。皇民化政策で留学が奨励されたためといわれています。何のための留学だったのでしょう か。興味をそそられます。もっともこの時期、朝鮮人も、日清戦争後割譲された台湾人も日本帝国の臣民でありました。満州・台湾についても論じるべきです が、紙幅の関係で先を急ぎます。

4)以上を踏まえて、これから9回にわたってなされる論考をお読みいただければ幸いであります。各論考は、以下の視点のいずれかを、意識的であれ、 無意識的であれ、あるいは、明示的であれ、暗示的であれ、踏まえて論じられているかと思います。それは、北米・ハワイや東アジアからの留学生が、1)どう いう経緯・背景のもとで、どういう意図や目的を持って来日したのか、2)日本で実際に何を学び、また、経験したのか、あるいは、何を得、何を失ったのか、 3)彼らを取り巻く周囲の人々――来日前の出身国社会ないしはそこの人々、あるいは来日後の日本社会ないしはそこの人々――の反応はどうであったか、4) 日本に留学したということがその後の人生に、プラスであれマイナスであれ、どのような影響を与えたか、ということであります。

さらに、各論考はこうした視点のいずれかを、以下の3つのレベルでのいずれかに重点を置いて捉えている、といえましょう。第1はマクロレベルであ り、これは、留学生を国家レベルで捉えるものであり、双方の国家が諸々の政策を遂行していく上で、来日留学生をどのように位置づけていたか、に注目するこ とになりましょう。第2はメゾレベルで考えることであり、これは、ある地域社会レベル(例えば広島県など)や制度・機関レベル(たとえば学校など)で来日 留学生を考えることであります。特定の地域や機関と留学生との関係が問われることになりましょう。第3はミクロレベルで捉えるものであります。これは留学 生を個人のレベルで考えことであり、個人のライフヒストリーやアイデンティティを問題とします。

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