Yuriko Yamaki

東京都出身。1993年よりニューヨーク在住。『エスクァイア日本版』の特派員を務めたほか、語学、アート、メディア、人種問題などについて誌紙に執筆。アメリカに移ってから、西海岸とニューヨークに住んでいた大伯母について知らされたのを契機に、その足跡を調査中。主な著書:『ニューヨーク発・生録英語』、共編著:『笑われる日本人』

(2012年10月 更新) 

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Nikkei Chronicles #1—ITADAKIMASU! A Taste of Nikkei Culture

“おふくろの味”オートミールと親父のおじや

日本のおふくろの味といえば芋の煮っころがしとかお煮染めが想像されるかもしれないが、家ではまるで違っていた。朝食の懐かしい味といえばオートミールだ。

私が育った頃はまだ外国製品のことを舶来品と呼び、輸入食品はデパートや特定のお店に行かないと入手できなかった。しかし、舶来品好きの母は私と弟をアメリカ製の離乳食で育てた。そんなわけで、朝食もチーズトーストにミルク、スクランブルエッグとハムまたはベーコン、そしてオートミールだった。固めに作ったオートミールにミルクとバターと砂糖をかけてゆっくりかき混ぜると芳醇な香りが食欲を誘う。ケロッグのコーンフレークもあったが、オートミールのおいしさにはかなわなかった。

学校給食がなかったので毎日お弁当を持って行ったが、そのおかずはランチョンミートやコンビーフ、ソーセージ、ハム入りの卵焼きなど。でも、ごはんのまん中には梅干しがあり、大好きだったのでいつも最後に食べた。たまにお弁当がサンドウィッチだと、ごはんを食べている同級生がうらやましかった。

晩ご飯は白米という基本パターンは守っていたが、おかずはやはりコロッケやカツ、オムレツという大正時代から人気の西洋料理が多かった。しかもおみおつけ(味噌汁)ではなくコーンスープなどと一緒に食べることもしばしばあった。食後に必ず、ごはん茶碗か別の茶碗で番茶を一杯飲むのは日本的習慣だった。

たまに祖母の家に行くと、母がつくってくれないグラタンが出て、特別のご馳走に思えた。祖母は野菜の切り方が豪快で、タマネギや肉が大きめだった。マッシュルームはまだ生のが手に入りにくかったのでいつも缶詰。

後年、84歳で亡くなる少し前に入院していた祖母に、「何か食べたいものは?」と聞いたらクロワッサンをリクエストされた。それほどこってり味を好んだ明治生まれの祖母であった。

なぜ母も祖母もこんなに西洋料理好きだったかというと、日本の占領時代、祖母が東京の六本木で、進駐軍に接収された屋敷に住んでいたアメリカ人将校家庭の住み込みハウスキーパーになり、母も同居して、そこから洋裁学校に通っていたからだ。

中野にあった実家は運良く空襲を免れたが、事情によって親戚に貸していたのである。この「進駐軍ホームステイ」は2年間ぐらいのことだったらしいが、母にとっては食生活のみならず、そこで出会った人々を含めて、めくるめく体験だったようだ。今でも当時の生活について楽しそうに語る。

父は何でも喜んで食べる人だったが、伝統的和食で育った。米どころの仙台出身だから、味噌は辛口の仙台味噌。そして納豆が大好物だった。今のように発砲スチロールの容器ではなく、細長い藁の入れ物に入っていた。父がごはんの上にかけて醤油をたらし箸でぐるぐる混ぜ合わせると、匂いが鼻をつく。そしてまるで蕎麦をすするかのように、ろくにかまずに平らげた。

仙台といえば漁港もあるので、魚も父の大好物。だが、帰りの遅い父の食の好みが食卓に反映されることは稀だった。珍しく魚がおかずだと、私たちが骨を恐れて身がたくさんついたまま残してしまった魚を「もう済んだのか?」と、きれいに食べてくれた。または、身を少し残したままお湯をかけて「これがうまいんだ。医者殺しっていうんだ」と、即席のフィッシュスープを飲む。現在、フィッシュオイルが健康にいいと騒がれているが、日本人は昔からそんなことは知っていたのだ。

アメリカに来てから滅多に食べないのが鍋料理。冬になると、家の中がセントラルヒーティングのせいで暑いほどだから鍋をする気になれない。やっぱり鍋は肌寒い日本の家に合っている。

鍋は母の味方だ。肉と野菜を皿に載せておけば、普段料理を手伝わない父が鍋に入れて煮てくれた。よくやったのはすき焼き。家のは関東風だからまず鍋に牛肉の脂身を溶かしながら、醤油、砂糖、若干の酒を流し入れ、肉、ネギ、白菜、豆腐、椎茸やエノキ、白滝などを煮て、最後に春菊。それらを生卵で食べる。一家そろって煮立った具を同時に食べる鍋はある種パフォーマンスだった。「もっと食べろ」とボウルにどんどんつがれて食べ過ぎることがしばしば。具が残ったらあまりご飯を入れておじやに。豆腐を足すと特においしい。すき焼きの翌朝は珍しく、オートミール的舌触りのおじやが朝食となった。

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Nikkei Chronicles #1—ITADAKIMASU! A Taste of Nikkei Culture

かんだばージューシィを探して

――「かんだばージューシィ」とは沖縄語でいものつる、つまり「かずら葉」のなまりである。私はこれを入れた雑炊が好きで、特にシイバスのアラを焼いて実 をほぐしたものをだしにして作ったジューシィ(ゾウスイ)は、たまらないほどおいしい。私がこの味を知ったのは、つい二、三年前のこと。

幸地さんのきよさんが、「水代が高くって、只水を捨てるのは馬鹿馬鹿しい」と前庭のダィコンドラを全部掘りおこし、その後にサツマイモを植えつけた。しば らくしたら芽を出し、間もなく庭一面に青々とした葉をつけたるつが伸び出した。きよさんは、伸びたつるの先をハサミでチョキン、チョキン切ってそれを雑炊 の中に入れたのを「食べてみなさい、おいしいから・・・」とすすめて下さった。かん詰めのマグロをだしにしたもので、私はそんなにおいしいとは思わなかったが行く度に、きよさんが夫の幸地さんと二人で食べているところにぶつかり、すすめられてご馳走になったのが、かんだばージューシィとの出合い。


上の文章は、1983年の沖縄で発行されていた「政経情報」に掲載されたもの。

執筆者は当時ロサンゼルスに住んでいた一世の仲村千代である。一度も会ったことがないこの大伯母は、宮城県出身でアメリカに来てから沖縄の人と結婚し、2001年に亡くなるまで、記事に出てくる沖縄出身の友人たちやその子孫と親しくしていた。

かんだばーは沖縄出身者の間で人気のある食材らしい。千代は、長い間参加していた沖縄県人会の集会でも、ある時、かんだばーの葉っぱをトラッシュバッグいっぱいに持ってきた人がいて、皆が大喜びしてもらった様を記述している。


初めてこの記事を目にした時から、この食べ物の名前が非常に印象に残ったため、いつかぜひ、そのかんだばージューシィとやらを試してみたいと思った。2006年1月、沖縄にリサーチのために足を運んだ際、これを本家本元で食べる、というのも目的のひとつだった。

友人の運転で、千代の夫の実家があったやんばるの東村を尋ねた後、名護から近いある店に入った。期待を胸にメニューを見たら、ちゃんとかんだばージュー シィがある。喜びいさんですぐに注文したら「季節ものなので今はありません」。瞬間的に、かずら葉の知識がまるでない自分の無知を責めたが、がっかりして 代わりに何を食べたのか記憶にない。


それから1年半後、初夏のロサンゼルスに滞在した時、沖縄出身の人々のホームパーティに招かれた。さまざまなご馳走が並んでいる中に雑炊らしきものがあ る。ジューシィは雑炊なのだから、いろいろいろな味のジューシィがあるのが当然だ。だが、私の頭の中では「かんだばージューシィ」がひとつの言葉となって 響いていた。冬にないのなら、今はあるはず。今度こそ、かんだばージューシィが食べられる!と、ボウルによそいながらそのお宅の人に尋ねたら「これは昆布 ジューシィ」。ニアミスである。でも、ロサンゼルスの沖縄系によるジューシィだと思い直し、ご馳走を楽しむことにした。昆布の味がきいた、まろやかな ジューシィだった。私がイメージしていたスープ状の雑炊ではなく、米が煮詰まったおじやに近い感じがした。

千代の記事にはこんなことも書いてある。

――亡くなった幸地さんは何時かこんな話をした。「僕の家は貧乏で、毎日かんだばージューシィを喰わされた。豚肉でもはいってればまだよいが、米を一つか みだけ入れた大きな鍋にかんだだばーを、どっさり入れたの・・・あれはまずかったなー。それでも僕の母は、自分の茶碗の中のかんだばーから箸で米つぶをふ り落として食べ、茶碗の底に残っている一口ほどのめしは〝ウリヒャー〟と云って僕に食べさせた・・・・・・」と。

2人の証言によると、かんだばージューシィはだしをうまく使わないとおいしくなさそうだ。かんだばーが手に入らなくても他の野菜で類似のものは作れるだろう。でも、アレンジは本場のものを食べてからにしたい。私の「かんだばージューシィ」を求める旅はまだ続いている。

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