Tatsuya Sudo

神田外語大学講師。1959 年愛知県生まれ。 1981年、上智大学外国語学部卒業。1994年、テンプル大学大学院卒業。1981年より1984年まで国際協力サービスセンターに勤務。1984年から85年にかけてアメリカに滞在し、日系人の映画、演劇に興味を持つ。1985年より英語教育に携わり、現在神田外語大学講師。 1999年より、アジア系アメリカ人研究会を主宰し、年に数度、都内で研究会を行っている。趣味は落語とウクレレ。

(2009年10月 更新)

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二つの国の視点から

カレン・テイ・ヤマシタ~自分の居場所を問い続ける日系3世作家 -その3

その2 >>激動の10年に重ねた青春期I Hotelとは、かつてサンフランシスコのマニラタウンにあったInternational Hotel(国際ホテル)のことで、主にフィリピン系の低所得者層が暮らすアパートだった。 1920年代によりよい生活を求めてアメリカにやってきたフィリピン人にとって、低料金で利用できるI Hotelは不可欠な存在だった。1950年代には、このホテルを中心として約1万人のフィリピン人が暮していた。 1968年の12月、ホテルのオーナーであるミルトン・マイヤー社は、ビルを駐車場にするので立ち退くよう、住人に通達した。この頃には、マニラタウンは、I Hotelがある一角だけになっていた。高齢者のために安い宿泊施設を提供してきたこのホテルを守ろうと、労働団体、教会、活動家などが抗議運動を起こした。その結果、ミルトン・マイヤー社が統一フィリピン協会(UFA)にホテルをリースすることになったが、その契約の前日にホテルで不審火が発生し3人の犠牲者が出た。契約は中断された。放火の疑いが強かったが、マイヤー社もサンフランシスコ市も事故扱いとし、市は同社に建物の取り壊しを命じた。その後の運動でホテルが期限付きでUFAにリースされたが、1977年8月4日の未明、武装した警官300名が、ホテルを囲む数千人のバリケードを突破して、最後の50人の住人が強制退去さ…

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二つの国の視点から

カレン・テイ・ヤマシタ~自分の居場所を問い続ける日系3世作家 -その2

その1 >>日本、ブラジル、アメリカの3つの視点『ぶらじる丸』にこんな記述がある。 〈イチロー・テラダは、最近自分の孫が、大学農学部の入試に合格したことを誇らしげに語った。かれは、この達成をまるで自分のことのように喜び、こう話している。「日本人は、もともと大地とともに生きる人々です。原生林の処女地に移り住めば、人間はその大地に対して責任を担うことになります。農業によって大地のために力を尽くさなければなりません」。またその一方で、テラダは自分の孫娘についての複雑な想いも語る。彼女は成績優秀者として建築学科を卒業した。しかしブラジルでは安定した職が見つからず、彼女もまた、近年下層労働者として日本へと渡る、十五万人を超える日系ブラジル人のひとりとなった。〉(浅野卓夫訳) 最後の部分で、日本に労働に来る日系ブラジル人のことについて言及されているが、ヤマシタの『Circle K Cycles』(サークルKがめぐる)は、この部分に焦点を当てた作品である。『ぶらじる丸』が出版された5年後の1997年の3月から半年間、彼女は、愛知県の瀬戸市に家族とともに暮らした。そのときの体験が、リアルタイムでcafecreoleというウエブサイトで紹介され、2001年に本にまとめられた。彼女が住んだ瀬戸市にはコンビニのサークルKが多く、友人の家に行くにも、サークルKを目印に右折、あるいは左…

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二つの国の視点から

カレン・テイ・ヤマシタ~自分の居場所を問い続ける日系3世作家 -その1

今回は、日系アメリカ人の表現者の中で、とりわけ特異な才能を持つ、カレン・テイ・ヤマシタを取り上げたい。 カレン・テイ・ヤマシタは、1951年にカリフォルニア州のオークランドで日系3世として生まれた。ミネソタにあるカールトン・カレッジで英文学と日本文学を専攻したが、1971年、日本の文化と文学を学ぶため、交換留学生として1年半早稲田大学に留学した。1975年、奨学金を得た彼女はブラジルの日系移民を研究するためにサンパウロに渡り、10年間滞在する。ブラジル滞在中にブラジル人と結婚して家庭を持ち、短編や戯曲を書き始める。1984年にアメリカに戻った後も創作を続け、ロサンゼルスのアジア系劇団、イースト・ウエスト・プレーヤーズ(EWP)のために多くの戯曲を書いている。この頃ロサンゼルスにいた私は、ヤマシタのHiroshima Tropicalという芝居を、当時サンタモニカ通りにあったEWPで観ている。日本に強い関心を持つ彼女は、舞台に能、歌舞伎、さらには舞踏の要素も入れている。 1990年以降、ヤマシタはこれまでに5冊の本を上梓し、現在はカリフォルニア大学サンタクルツ校で、創作とアジア系文学を教えている。 なお、彼女のミドルネームであるテイは祖母の名前で、正確には平仮名で「てい」。彼女自身は、自分の名前を、「カレンてい山下」と、片仮名、平仮名、漢字混じりで表記してほしいそうだが、…

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二つの国の視点から

ケニー・エンドウ ~"ダブル"の感覚で叩く和太鼓 -その2

>>その1撥に託す平和への思い帰国後、彼は「ケニー・エンドウ太鼓アンサンブル」を結成し、ハワイを本拠地として全米で活動を続けている。海外での公演も多く、日本をはじめ、イギリス、ドイツ、ベルギー、チェコなどのヨーロッパ諸国、ブラジル、アルゼンチンなどの南米諸国、またインドや香港でも公演を行っている。 彼の音楽自体にも、アフリカ、インド、ブラジルなど、さまざまな国の音楽の要素が取り入れられている。大学時代にも民族音楽を勉強しているから、もともと関心が強かったのだろう。 1994年にリリースされたデビューアルバム、『Eternal Energy』(永遠なる力)には、ブラジル音楽のリズムを取り入れた「シンメトリカル・ランドスケープ」、ネイティブ・アメリカンの生活からヒントを得た「ハバスパイ」、ハワイアン音楽から影響を受けた「夢のパフ」、黒人音楽に触発された「クラリティ」という曲などが収録されている。1998年に出された『十五夜(Jyugoya)』にも、ラテンのリズムに影響を受けた曲が含まれており、元来キューバの民族楽器だったコンガが、締め太鼓と一緒に用いられている。インドの管楽器、バンスリも彼がコンサートでよく用いる楽器の一つだ。最新作の『道行き(On the way)』(2007)では尺八奏者のジョン・ネプチュン海山と共演している。 ケニーがさまざまな民族音楽との融合を試みているの…

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ケニー・エンドウ ~"ダブル"の感覚で叩く和太鼓 -その1

東京の浅草に太鼓館(ドラム・ミュージアム)という博物館がある。展示物に触ってもいけないのがほとんどの博物館であるなか、ここでは好きなように世界各地の太鼓を叩いていい。和太鼓の名店、宮本卯之助商店が1987年につくった世界でも珍しい博物館だ。 太鼓館の元室長、越智恵は、以前、ロサンゼルスで開かれたTaiko Conference(太鼓会議)に参加した。「太鼓会議」は1997年にはじまり、会を追うごとに盛大になり、内容も充実してきている。さまざまな流派がいわば超党派で集まる会議で、派閥意識が薄いアメリカだからこそできる催しだと越智は話していた。 宮本卯之助商店と強い関係を持っている日系アメリカ人の和太鼓奏者が、ケニー・エンドウである。同商店はこれまでケニーが出したCDの制作に携わっており、彼が東京に来たときはいつも宿泊施設などの面倒を見ている。 彼が以前来日したとき、浅草のアリゾナ・キッチンという店で一緒に食事をした。「あめりか物語」を書いた永井荷風が通った浅草の名店で、今でも店内には荷風の写真が飾ってある。ケニーは実に温厚で、宮本卯之助商店の社長もその人柄が気に入っているらしい。 北米の和太鼓は、創始者の田中誠一が第1世代とすると、弟子のケニーらが第2世代、ケニーの弟子のマサト・ババらが第3世代と言える。本稿では、ケニー・エンドウに焦点を当てながら、3代にわたる北米和太鼓を通観し…

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