Shigeo Nakamura

立教大学アジア地域研究所研究員。2005年から2年間、JICA派遣の青年ボランティアとしてブラジルサンパウロ州奥地の町の史料館で学芸員をつとめ る。それが日系社会との出会いで、以来、ブラジル日本人移民百年の歴史と日系社会の将来に興味津々。

(2007年2月1日 更新)

 

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ブラジル国、ニッポン村だより

日本人移住地の話(1)ーどっちを向いても日本人

「きょう町で外人をみたわ!」

小学生だったTAさんは、ある日学校から帰るなり息せき切っておかあさんにそう報告した。TAさん、もう80歳は越えているはずだから、そんなこ とがあっても不思議はない。地方の県庁所在地に暮らしていた私にとって、たまに見かける外国人が目を離せなくなるほど珍しい存在だったのもやはり小学校の 低学年の頃だった。その私の年齢がTAさんのおよそ半分でしかないことを思えば、むしろその当時ならだれでもが経験するようなことだったろう・・・日本で だったら。

もちろんここで日本の昔話をしようというのではない。TAさんは、これをブラジルで経験した。

TAさんが暮らしていたのは、いったいどんなところだったのだろうか。

現在ブラジルの日系人は、一般にずいぶん同化が進んでいるといわれるが、その傾向に拍車がかかったのは戦後のことで、それまではサンパウロ州、パラ ナ州の田舎を中心に、日本人移民は新しく開拓した土地などで集まって暮らしていることが多かった。そういったところでは、同化どころか基本的に日本的な暮 らしが営まれていた。共通語は当然日本語、部屋にちょっとした神棚があることも珍しいことではなく、日本人移民は日本人移民同士結婚することが当たり前だ と思われていた。

そういった、日本人が集まった町を「植民地」と呼んだが、その「植民地」より少し遅れて、大正の終わりから昭和のはじめごろにかけて「日本人移住地」というものがいくつか作られた。そこは「植民地」以上に日本的だった。

「日本人移住地」が「植民地」より日本的だった理由には、後者が移民して契約労働者として働いた後地主になった人びとによって作られたのに対し、前 者には、あらかじめ地主として、日本から直接移民してきた人たちが多く含まれていたことがまずあげられるだろう。それにまた移住地には、いわゆる国策移住 の名の下に、母国政府の力で学校、病院、産業施設などさまざまな設備が早々整えられていたことも少し影響しているようだ。「日の丸移住地」などと言って、 ブラジルで苦労した人たちの中には冷ややかに見るむきもあったようだが、日の丸に庇護されている分、やや無遠慮に日本的な生活ができたのではないかと想像 できる。

TAさんがいたのも、そんな日本人移住地のひとつだった。

TAさんの育った移住地―仮にA移住地としよう―は、現在市制がひかれて人口2万ちょっとの町になっているが、元はまったくの原野だったところを、日本人が伐り拓いて作り上げた。サンパウロから州奥地に向けて五百数十キロのところにある。

「移住地」が日本的であるためには、当たり前だが日本人の圧倒的な多さが必要になる。冒頭に紹介したTAさんの話も、結局はいかにそこが日本人ばかりだったかということを伝えるエピソードのひとつだ。

ほかにも、A移住地における日本人の多さが知れる話はいくらでもある。

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視覚的に理解するには、この写真などちょうどよいのではないかと思う。小学校の集合写真だ。昭和8年頃、校庭で撮影されたものだ。

この学校は、A移住地の中心にあった。移住地には最終的に十ほどの小学校ができるが、ここは常に最大の規模をほこり、最盛期には300人を超える生徒が在籍していた。

全体では、ざっと200人ほどの子供たちと、10人に足りない、教員と思しき面々が写っている。この中に日本人とは異なる顔立ちの生徒を見つけ出す ことができるかどうか、目を凝らして試してほしい。おそらく、昔の日本の、普通の小学校の集合写真にしか見えないだろう。ブラジルの小学校ですといわれて も、とまどうはずだ。

この学校は日本人の入学しか認めなかったというわけではもちろんなく、その地区では唯一の学校だった。ブラジルにあって、ほぼ全校生徒が日本人だったいうだけの話なのだ。

ブラジルに移住した日本人がいる、それもたくさんいるらしい、というところまでは、今の日本の若いひとたちにもある程度知られている。けれども実 際、ブラジルに日本人移民たちのどんな暮らしがあったのか、ということを知っているひとはめったにいない(自分がついこの間までそうだったから、断言して も許されるだろう)。

そんな状況だから、「日本人移住地」のことを知っている人はさらに限られるはずだ。

これから何回かにわけて、ブラジルにあった日本人移住地(今も十分その名残はある)の話を書き留めておきたい。ブラジルにかつてあった、どっちを向いても日本人ばかりの不思議な町のことが、もう少し人に知られてもいいように思うからだ。

 

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ブラジル国、ニッポン村だより

サンパウロ州の牧草地の広さとその理由

その気になればすぐに海岸線まで出られる土地に長く住んできたので、サンパウロ州内陸部の、海まで600キロはあろうかという町で暮らすことが、自 分の気持ちにいったいどんな影響を及ぼすものだろうという興味があった。たとえば海が懐かしくてうずうずし、いてもたってもいられなくなるとか。


しかし実際には、なんとなくおさまりがよくて、たまに「いやあ、海が見たいですねえ」などと言ってはみたもののなんということもなかった

それでも、子供の頃から頭に焼き付いたいろんな海の風景があるせいだろうか、ふとした景色を海と錯覚することがあった。

景色と言っても、それはサンパウロ州の奥地とサンパウロを結ぶ幹線道路を、真夜中に疾走する長距離バスの窓から見える牧草地の風景だ。

ブラジルの長距離バスの豪華さ快適さは、何度でも土産話にしたいぐらい素晴らしいものだったが、それでも深夜に一度は目を覚ます。目が覚めると、エンジン音や眠らない人たちのひそひそ話を耳に、反射的にカーテンをずらす。そこに真っ暗闇が広がっている。

サンパウロを出て奥地に向かい始めると、一時間もすればあとは町までたいして変わり映えのしない景色が続く。昼間ならば、地平線まで広がる牧草地と、わ ずかな立ち木、ときどき牛の群れ、といったところだ。日が落ちてしまうと、街灯があるわけではなし、人家もまばらなので、大きな月でもかかってなければほ ぼ完全な闇なのだ。

やはり半分寝ぼけているということなのだろう、そんな闇を見ていて、ここは日本で、今自分は住んでいた町にある長い海岸線を走っているのだと一瞬勘違いする。夜の海原は、ちょうどこんな風にどこまでも広がる深い闇として見えるものだ。

正気に戻ると、今度はわざとあれは海なのだと思うことにし、まれに見える遠くの明かりは、まるでイカ釣り船のようだなあ、などとぼんやりしていればそのうちまた眠りにはいった。

それにしても、といつも感じたのは、なんとまあ広い野原だということだ。

サンパウロ州に広がるこのだだっ広い野原は、もとはマットと呼ばれる原生林だったという。マットが牧草地にかわった背景にはこんな物語がある。

ここを主になって切り拓いたのは、約100年前、ある国から船でブラジルにやってきた移民とその子孫たちだった。財産を作って故郷に帰る―ほとんどの移民はそういう腹積もりだった。

最初かれらは大きな農園に雇われて働いた。ところがその暮らしでは思い描いていたような財を築くことはできなかった。契約満了を待たずに農園を去り、町に出るものもあった。あるものは、どうにかこうにか資金を作り、やがて土地を買って自作農になっていった。

自作農として農民の道を選んだ者たちは、同じ言葉を使う仲間同士で集まった。手に入れた土地には、マットが広がっている。皆で力を合わせて、時にはブラジル人たちの力を借りながら原生林を切り拓いていかなければならなかった。
木を伐り倒し、乾くまで待って火を放ち、種を植える。自分たちの国ではまず経験しない農業だった。彼らの国では、手間をかけてよい土を維持していくことで成り立つ農業が主流だった。だから先祖から受け継いだ農地は、狭いながらも毎年収穫をあげた。

切り拓いて初めて作物を植える土地は、木の灰のわずかな肥料だけでもよく稔った。

まず植えたのは、祖国を離れるきっかけにもなった「金のなる木」、珈琲だ。そのうち棉が売れるようになると棉を植えた。大きな戦争が起きると生糸や薄荷が高く売れるようになり、養蚕のために桑を植え、薄荷を植えた。

財を成して故郷に帰るのだから、その時売れている作物に飛びつくのは当然だった。けれどもそれは安定しなかった。買っているのはどこか遠い国らしく、そ この事情次第で価格は前触れも無く下落した。うまくいって故郷に帰るものもあったが、これではまだ帰れない、と考える人も多かった。

問題は作物の価格ばかりではなかった。土地が年々痩せていくのだった。

ある土地では、棉ブームに乗って皆が棉を作ったが、その翌年から目に見えて木が弱り、徐々に収量が落ちていった。その土地はそもそもそれほど肥沃ではなかったのだ。これは後からはっきりしたことだ。

研究熱心な人びとだったから、土地の疲弊を防ぎ、収量を増やす工夫をあれこれしたが、追いつかなかった。そこでふと目を転じると、奥地にはまだ広大な マットが広がっている。あのマットをまた切り拓いて農地にすれば・・・・当たり前の発想だった。そうしてさらに奥地に入り、木を伐り、焼き、種を植 え・・・・・・。そうやってかれらはサンパウロ州の奥へ奥へと、先頭きって開拓していったのだと言われる。新しくマットを切り拓くたびに、懐かしい故国へ と通じる海からは、どんどん遠ざかっていったのは皮肉だとしかいい様がない。

ずいぶん単純化してしまったけれど、もちろんこれは日本人移民のことだ。その頃の人が、「日系人が通った後には草一本はえない」とブラジル人に言 われたもんさ、と話してくれたことがある。日本人移民を苦しめた大敵といえば蟻、ブラジルでサウーバと呼ばれる葉伐り蟻で、せっかく葉をつけた棉が一夜で 丸坊主にされたという苦労話はあちこちで耳にしたが、ブラジル人たちの目には、日本人移民が巨大な葉伐り蟻のように映っていたのかもしれない。

隣接するパラナ州にはテーハロッシャという赤土がある。洋服に付くと取れないことで悪名高いこの土は、粘土を含んだ良質な土だ。ほとんど60年間そこに肥料を入れずに農業を続けたという話も聞いたことがある。

サンパウロ州の土地では、そんなところを相手に農業をするのは難しい。結局のところ、草地にして牛を放しておくのがいちばんいい、ということになる。そうやってあの広大な野原はできたらしい。

それにしても、と思う。この海のように広い土地を切り拓いて行ったエネルギーというのは、本当に、とてつもないものではないか。

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ブラジル国、ニッポン村だより

大宅壮一の「名言」をめぐって

大宅壮一というジャーナリストがいた。昭和を代表するジャーナリストのひとりと言ってよいと思うが、政治から社会風俗まで広範な仕事に携わってい て、耳にした人の多くが、なるほどうまいこと言う、と唸るような、物事の本質を的確に捉えた名言をいくつも残した人だ。毒舌家、という評価もある。

たしか、「明治を見たければブラジルへ行け」だったと思う。その大宅壮一が戦後ブラジルの日系社会を訪れた時に発したという言葉だ。戦後とはいってもずい ぶん古い話になるはずだが、日系社会のなかにはまだこの言葉を持ち出す人が時々いる。うまいこと言われたなあ、という思いがやはりあるのだろう。

「明治」とは感じないかも知れないが、今はじめてブラジル日系社会と接する人もある程度この言葉に共感できるのではないかと思われる。
これも名言の部類に入れていいだろう。

大宅壮一が表現したかったのは、単純に言ってしまえば、ブラジル日系社会には戦後の日本から姿を消してしまった明治気質がまだ息づいている、というようなことだろうか。

あなたには明治気質が残っていますね、と言われたらどう受け止めればよいのだろう。

「明治」というものの評価が概して高い現代の日本であれば、誉められたということになりそうだ。敗戦後、日本は戦前のよい部分もよくない部分も一緒くたにして捨て去ってしまった。失われてしまった日本の美点、それがブラジル日系社会には受け継がれている、というふうに。

けれどとりようによっては、あなたは古い、進歩のない人間だと言われていることになる。日本は敗戦で大きな犠牲を払うことによって新しい民主主義国家とし て大きく変貌した。それなのにブラジルの日系人たちはまるで昔のままの日本人だ。この言葉を悪く取るとすれば、そんなところだろうか。

何しろ毒舌家としても知られるジャーナリストの言葉である。良いようにも悪いようにも取れるところに真骨頂があるということなのかもしれない。

大宅壮一がこの一言を残したブラジル講演旅行中のエピソードを聞いたことがある。それを知っても大宅氏の発言の真意はわからないが、その背景のようなものはなんとなくうかがわれるように思う。

その話をしてくれたのは、当時、大宅氏を含む日本の著名人による講演会の受け入れ先になったある日本人会の関係者、MKさんだ。
戦争が終わってずいぶん月日はたっていたが、ブラジル日系社会の人びとにとって日本の最新情報をもたらしてくれる話を日本人から直接聴くことのできる機会はまだ貴重な頃だった。著名なジャーナリストらの話を聞こうと、会場にはたくさんの人が集まった。

当時、戦後のブラジル日系社会を混乱に陥れた勝ち組負け組みの騒動は、暗殺などが頻発するもっとも激烈な局面こそ過ぎていたものの、決して解決したわけで はなかった。敗戦を受け容れない人びと、受け容れたとしても日本の敗北を喧伝する行為や人物を決してゆるすことはできないという人びとは依然として少なか らずいるという状況だった。

その日の聴衆の中にもそういった立場のひとはいた。

講演全体がどんな雰囲気の中で進んでいったのかMKさんは憶えていないが、きっかけはある講演者(大宅氏だったかどうかはわからない)の発言だったという。

「まずいなあ」、主催者側のMKさんでさえそう感じるような言葉だった。

その一言から会場は徐々に不穏な空気に包まれ、終わるころには相当物騒な気配が充満していた。MKさんら関係者は、講演者たちの身を案じ始めた。

その日は、その町のホテルで宿泊予定となっていたのだが、聴衆の一部から、講演者たちをこのまま帰すな、というような声が出るに至り、主催者の判断で結局その晩のうちに町を出てもらうことになった。

「命からがら逃げ帰った」とMKさんが言うほど切迫した状況だったらしい。

講演者の一言というのは、天皇を他愛の無い(親しみを込めすぎた)愛称で呼んだものだった。

戦後の日本ではよく言う人があったという。日本にいて、戦前戦中から戦後アメリカの占領を経験した日本人にとっては、そんな一言を人前で堂々と口にすることで世の中の変化を実感できたのかもしれない。

日本からの講演者一行は、日本で敗戦を経験しなかった日本人たちに、日本がどれほど変わったかを伝える格好の材料としてその一言を選んだのかも知れない。 また、日本からブラジルまで講演旅行に来られる時期であれば、その変化がどうやら正しい変化であったという自信を持ち始めていただろう。

やや得意になってしゃべる講演者と、その前でどんどん顔が強張っていく一部の聴衆という場面は、思い描くだけで緊張してきそうだ。

ちゃんと調べたわけではないのだが、この日、聴衆の反応を見て、もしかすると命の危険まで感じたかも知れない大宅氏の頭に例の名言がひらめいたと想像することもできるだろう。

そうだとすると、大宅氏の名言の背景にあるのは、何よりもブラジル日系社会に接したときの大宅氏の驚きだったということになるだろう。

もちろんそれは、「明治」の日本が残っているブラジル日系社会が存在する、ということに対する驚きであると同時に、自身を含めた日本人が敗戦を境にすっかり変わり、以前のメンタリティーを完全に忘却しているということに対する驚きだったに違いない。

大宅壮一株がなんとなく下がりそうなエピソードを披露してしまったからというわけでもないが、最後にブラジル日系社会における知られざる大宅壮一の名言を紹介しておこう。

ある日系団体に伝わる芳名帳のなかにこれを見つけたとき、大宅壮一の眼差しの暖かさに胸が熱くなった。忘れないように書き留めたけれど、そのまま記憶してしまった。これぞ名言だ。

「実生よりは、接木の方によい実のなることが多い ―新しい祖国をつくる人々に」

 

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ブラジル国、ニッポン村だより

カデイアと日本人移民

第二次世界大戦中北米の日本人移民が、収容所生活を強いられたことは広く知られている。移民先国と祖国が敵同士となったのはブラジル日本人移民も同 じだ。ブラジルには収容所こそなかったが、やはり敵国人としての扱いは受けた。戦争中から戦後の一時期まで、ちょっとしたことでカデイア(監獄)行きとい うことも珍しくなかった。

戦争中のある時期、日本語は禁止されていた。

日本語禁止というのは、日本語をしゃべってはいけないということだ。しゃべってはいけない、というのは、しゃべったら注意や譴責を受けたという程度の話ではない。日本語を使ったところを警察に見つかったり密告されてカデイアに入る羽目になったひとは少なくない。

ブラジル日系社会のお年寄りと話をしていると、戦争中の苦労話のひとつとしてこの話題がよく出る。自分の経験のこともあれば、父親だったり、叔父さんだったり、近所のだれかの話として。

AOさんは娘の頃、サンパウロに出て学校に通っていた。たまに仕事で田舎から出てきた父親が、レストランで食事をご馳走してくれるのが楽しみだった。戦争が始まり、日本語禁止時代になってもその習慣は続いていた。

あるときレストランに入ると、なんとなく周りから注目されているように感じた。当然日本語をしゃべることはできない。久しぶりに会った父娘は、あまり達者 ではないブラジル語で不自由な会話を交わした。たぶん言葉に気をとられて食事を愉しむというわけにはいかなかっただろう。

店を出るときになって気が緩んだのだろうか、ポロリと口から出た言葉は、「じゃあまたね」だった。このたった一言でそれまでの苦労は水泡に帰した。詳しいいきさつはわからないが、店の外にはもう当局が待ち構えていて、父娘はそのまま警察に連行された。

あまりにばかばかしい話だから、ここまでのところでつい笑ってしまいそうだが、その後女性だからというのですぐに釈放されたAOさんが、父を奪還するまで の一晩の武勇伝を聞くとそんな暢気な事態ではなかったということがわかる。ともあれ、ここで父親を取り戻さなければ二度と会えないのではないかと必死の AOさんの機転と勇気、移民仲間の助力で父親も翌朝には戻ってきた。

日本人にとってカデイアがいちばん身近になったのは、戦後すぐの勝ち組・負け組抗争の時だ。

この騒動にかかわって、実に多くの日本人が投獄されることになった。十名を越える犠牲者が出た事件の犯人たちはもちろんのこと、騒ぎに便乗して荒稼ぎした 詐欺師や扇動者も捕まった。しかしおそらくもっとも多かったのは、勝ち組に加担して騒ぎを大きくする恐れありと当局からめぼしをつけられた若者たちだった と思われる。彼らの多くにとってこれはとばっちり以外のなにものでもなかった。

捕らえられた若者たちは、「日本は負けたか否か?」と問われ、負けたと答えた者から帰された。

KNさんは、戦後ほどなくして、人口一万人にも達する日本人移住地にあった連合青年団の会長に推された。それまでの会長は日本の敗戦を受け容れた派、いわ ゆる認識派だったが、連合青年団の大勢はそこに組することを潔しとしなかった。ただしそれは青年団が勝ち組だったということではない。KNさんが担ぎ出さ れたのは、勝ったか負けたかはまだわからない、現時点で敗戦を喧伝するのは間違いだと考えている、という立場だったからだ。

当時高い組織率を誇る集団で町への影響力も大きかった連合青年団の動向に対して、当局は当然大きな関心を寄せる。青年団が勝ち組にまわる事態だけは避けた い。各地で抗争が起きるようになると、予防的措置という意味合いでKNさんはじめ数人の幹部は拘束され、とうとうサンパウロのカデイアに送り込まれること になった。

当時KNさんたちはまだブラジル語が十分ではなかったこともあって、状況がもうひとつ飲み込めていなかった。とにかくサンパウロまで行くというので列車に 乗り込んだ。ほとんど丸一日かかるこの小旅行は、手錠があるわけでもなく、ビールなど飲みながらの愉快な、暢気なものだった。

しかしサンパウロのカデイアに収監されたKNさん一行は、結局それぞれ数週間から数ヶ月そこで過ごすことになった。最後のひとりになったのはKNさんだ。

カデイアに出回っていたポルトガル語新聞を、ポルトガル語をある程度理解できた若手幹部に読んでもらっているうちに、KNさんもどうやら日本は負けたらし いと考えるようになった。「負けました」と言えば解放される。でもそう簡単に認める気持ちにはなれなかった。とりあえず若い仲間には日本の負けを認めて町 に戻るように諭した。

日本の勝利を主張して獄中で騒ぎを起こす日本人もいた。そこには加わらず、後輩の出所を見届けたKNさんもようやく町に戻ることができた。

ところでカデイアでの生活はどんなものだったのだろう。ひどい扱いを受けた話も聞くが、多くの人にとってつらかったのは、死にそうなほどの退屈だったようだ。そんな退屈の極致は、ときに瞠目すべき発想の源泉となった。

戦前の日本人移民社会で人気の娯楽に麻雀があった。カデイアには時間はたっぷりあるし、相手はいくらでもいるのだから、牌さえあれば麻雀やり放題だ。さて どうにかならないものか。いくらなんでも差し入れは許されないだろうから、ここで作るほかない。材料は?と考えてひらめいたのは、毎日の「ごはん」だっ た。固めて形をとり、乾かせば牌にもなるだろう。試作品の出来も悪くなく、それから毎日有志がひとつまみずつごはんを残し、丁寧に固めては役牌、風牌と少 しずつ揃えていった。

そうしてカデイアは雀荘のようになった、とまではいかなかっただろうが、退屈しのぎの目的は達したようだ。牌ができるなら駒もできる。同じ方法で将棋もやった。牌や駒の制作自体も大きな楽しみであったに違いない。

使いこむうちに人の手の脂でツヤが出たところがなかなか見事な駒や牌だったので、大事に取っておけば博物館の資料にでもなったはずだが、釈放された喜びでそのまま捨ててしまったのがなんとも惜しい。当事者はそんな言葉を残している。

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ブラジル国、ニッポン村だより

ワラと松と竹-ブラジル日系社会で新年を迎える

サンパウロから500キロ離れた小さな町。12月にはいると、いつも7時には早々閉めてしまう商店が遅くまでやるようになる。

街の中心の辻々には、財政が厳しいなか、市役所が提供したという、小さいながらも凝ったデザインのクリスマスツリーが配置されている。

通りを横切って幾重にも渡された点滅灯の線と電飾の数々、巨大なスピーカーから流れてくる地元ラジオ放送の大音響のなか、家族やカップル、友人同士でそぞろ歩く大勢の人を眺めていると、ここが人口わずか2万ちょっとの町だとは思えないほどのにぎやかさだ。

にこにこと笑っていない顔はない。笑っている理由を尋ねられてはっきり答えられる人は少ないだろう。誰かが笑い、それを見た人がつられて笑顔になり、笑顔に囲まれて仏頂面もできなくて自然と頬がゆるむ。

クリスマスらしい愉快な気分に街全体が包まれている。

この街で唯一のホテルをやっているUSさんの機嫌も上々だ。しかしUSさんご機嫌の理由は、クリスマスと別にもうひとつあった。

日本からの戦後移民一世、70歳まであと少しのUSさんにとって、この時期はクリスマスを祝っているだけではすまない。お正月の準備があるのだ。毎年そのせいで忙しく、準備が滞りなく進むかどうか相当に気も遣う。

USさんの心配は、自分の家の正月ではない。町の日本人会の役員であるUSさんは、1月1日に行われる「新年会」を正しくとりおこなうためのご意見番であり、同時に裏方としても重要な役割があるのだ。

「今年はこれで準備できた」

ほっとした表情でUSさんが言う。

USさんが引き受けた仕事の一つは、日本人会会長と住民代表による新年の挨拶の原稿を書くことだ。

会長も住民代表も二世だ。日常生活では日本語を話すけれど、改まった挨拶となると自信がないというので毎年USさんが準備した原稿を読む。

 「もう日本語がわかる人の方が少ないのだからブラジル語(日系人はポルトガル語をこう呼ぶ)でやればいいんだよ」

そう言いながらもUSさんは満更でもなさそうな笑顔だ。

日本人会の中心である二世の人たちにとって、新年会や慰霊祭といった節目にあたる行事の挨拶だけは日本語でやらなければ格好がつかないものらしい。この 町の日系社会がどうやって日本文化を継承していくか、というテーマならどこまで語っても飽きないUSさんにとっては歓迎すべき話のはずだ。

新年の挨拶原稿の用意は簡単ではないが、例年の事で手馴れている。あとは新年までに内容を確認し、よしとなったら原稿をローマ字表記に直せば万全だ。

しかしUSさんにはひとつ不安があった。それはもうひとつの仕事にかかわるワラが入手できるかどうかだった。昔ならこの町にも陸稲を作る人がたくさんいて、精米所まであったのだが、今ではひとりもいない。

どうしたものかと考えあぐねていて思い当たったのが、車で3時間ほどのところにある自給自足をモットーとする小さな日本人コミュニティで、さっそくそこ に問い合わせると案の定あるという。開拓年代もほぼ同じで、昔からずっとつきあいのあるところだったから快くわけてもらえることになった。

ホテルの中庭の隅っこに、どさりと放り出されたワラ束には、稲穂までくっついている。

大晦日の前日、隣町で植木屋さんをしているMKさんが、ワイシャツをワラくずまみれにして現れた。

「いやあ堅かった。これはワラとは言えないよ。なうのに往生した」

稲穂がついているくらいだからそれは堅かっただろう。だれかに教わったわけではない自己流だそうだが、それでも稲束は見事な注連縄に変わっていた。

「これを伐るのはもっと大変だった」と言って見せてくれたのは、日本ではちょっと見ない太さの竹だ。このあたりではあまり馴染みのない松の枝もどこからか手に入れている。

町の日本文化継承委員長(実際にはそんなものはないが)US氏の発案で、昨年から新年会に本格的な門松を飾ることになった。ワラの調達はUS氏の仕事、そこから先は前日の晩御飯をUS氏のホテルでご馳走になったMKさんが引き受けた。

戦前、日本政府の肝いりで作られた移住地が発展してできたこの町には、訪れた人がすぐに気付く特徴がある。それは日系人の多さだ。

ブラジルは最も大きな日系社会を持つ国だが、日系人口は全体の1%あるかないか、マイノリティもいいところだ。サンパウロの東洋人街にでも行けば別だが、日本人が集中しているサンパウロの町を歩いてもそうしょっちゅう日本人に出くわすわけではない。

広いブラジルでは、日本人というだけでジロジロ見られ、挙句の果てに両目尻を指で引っ張り上げて細くつりあがった目を作ってみせる定番のからかいを受ける土地のほうが案外多いかもしれない。

そんななかでこの町の日系人の存在感は、ブラジルでも群を抜いている。

日系人世帯数約800、人口約4000という数字は、町の人口のざっと20%程度にあたる。この町に限ればマイノリティとは言えないから存在感があるのも当然といえば当然だが、歴史的経緯から言えば日系人はここでは先住民ですらある。

80年前まではまるっきり原野であり、30年程前、景気が良くなって日系人以外の労働者が大量に入ってくるまでは日系人が人口の8割以上を占めるような町だったのだ。強烈な存在感の背後にはその余韻もあるように思える。

8割の日系人が闊歩する町は、「移民の故郷」と呼ばれた。

しかし世代がすすむにつれて、よく言われる日系人のブラジル化はここでも起きた。

日本語が通じる範囲は年々狭くなり、お茶やお花といった日本の伝統文化も次第に遠いものになっていった。これは由々しきことであると、現状を憂うひとは 少なくない。日本語や日本文化が失われていくのは時代の趨勢のようにも思えるが、孫との会話がもどかしいのはなんともさびしい。憂うとまではいかなくて も、これでいいのか、という思いは広く共有されている。

新年会は元旦の朝行われる。ブラジル各地の日系社会で新年の行事は行われているだろうが、この町のように300人近い人数を集める力を持つところはもう少ないだろう。

文化協会会長の挨拶を皮切りに次々と祝いの言葉が述べられる。あたりさわりのない新年の挨拶のなかに、ふいに挑発的な文句が登場してはっとする。

 「このまま、日本人の顔をしただけの普通のブラジル人になっていいのか?」

間違いなくUSさんの言葉だ。

始まってから1時間、お雑煮が振舞われた後、新年会は大福引大会で幕を閉じた。

明日はもう仕事だ。正月三が日を休む習慣がなくなったのは30年ほど前のことらしい。

新年会に集まったのはやはり一世のお年寄りが多い。10年後はどうなっているのだろうと、誰しもが感じているはずだ。USさんの抵抗はどこまで功を奏するのだろう。若者が日本文化を引き継ぐ時代は来るのだろうか。

USさん、MKさん合作の門松は、新年会で客席の正面に飾られた。松と竹に注連縄をあしらった高さ1メートルほどの堂々たる門松だ。

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