Misa Murohashi

Misa Murohashi is General Manager of North American Post Publishing and Editor-in-Chief of The North American Post. Since graduating from Sophia University, Tokyo, with a BA in Business Administration, Misa has been in the content publishing industry for over twenty years. She later earned a master’s degree in Urban Planning from the University of Washington, Seattle, where she studied community development in Seattle’s International District for her thesis. The research taught her Japanese American history, and her interests in it brought her to her current position in 2017.

Updated October 2021

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Shinji Maeda, One-eyed Pilot, to Fly Around the World

Shinji Maeda, founder of Aero Zypangu Project who calls himself a “one-eyed pilot,” departed for his around-the-world flight on May 1st. This mission is to inspire people with his message, “Nothing is impossible.” NAP interviewed him just before his departure from Seattle. He enthusiastically shared the message of his mission.

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One-Eyed Pilot

Shinji Maeda is a Shin-Issei who is active in our community as founder and president of Aero Zypangu Project, a 501c3 non-profit organization he founded with his supporters. Its mission is “to provide opportunities and experiences that inspire hope, strength, and joy in …

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シアトル短歌会100周年を経て知る、シアトル日本文学の歴史

シアトル短歌会は、「華陽会」として兵庫県西宮市出身の田中葦城氏を中心に1919年に発足した。シアトルは「文化的移民地」と呼ばれたほど、日系移民による文運があった。1906年、最初の文学グループとなる「沙香会」(俳句)が結成されると、「文学会」(文学、1909年発足)、「コースト会」(短歌、1910年発足)などが次々と誕生。華陽会もその流れで発足した会のひとつのようだ。

夢を描いてアメリカへやって来た青年たちが、移民生活の厳しい現実にさらされる中で、文学に精神的な潤いを求めた。同じ境遇にある若者らが、誰かの寄宿部屋や日本料理屋に集まって文学を論じ合う。やがて『北米時事』(姉妹紙『北米報知』の前身)などの邦字新聞が作品の掲載を始め、そうした集まりは文学会としての形を成していった。後に当時の文学青年たちを取材した伊藤一男氏は『続・北米百年桜』でこう記している。

「ヤキマの平原で藷掘りをしながら、あるいはレストランで皿洗いをしながら、満たされぬまま、日本の文学雑誌をよんで、当時、盛んだった、田中花袋、岩野泡鳴らによって唱導された自然主義文学運動に傾倒して、いわば独学で作品をつくりあげた人々だった。人によっては、与謝野晶子に、人によっては石川啄木に、あるいは吉井勇、若山牧水、北原白秋に傾倒した」

伊藤氏が同書に載せた田中氏の作品にも、異国へ渡る不安と期待、日々の労働の苦労、母国やふるさとへの郷愁が詠み込まれている。

波さわぐ北太平洋の船の旅
しぶきに濡れて甲板に佇つ        
             田中葦城

華陽会は、1世のみならず日本で教育を受けてシアトルへ戻った帰米2世も加わり、日本の歌人とも交流しながら活況を増していった。

「華陽会の同人には、のちに毎日新聞に入った高田市太郎、当時日本郵船社員でアララギ社友の赤壁四郎、いまロスにいる同じアララギ社友の神部孝子や武田露二、中村風信子(郁子)ら各氏がいた。私もこの会に加わっていたが、一九三七年に至り、北米時事の有馬純義社長、俳壇の小池晩人、金子伸三氏らの斡旋で、女流だけの「紫の会」が発足した。もう故人になられた三原勝野、中村郁子さんのほか、私や中川末子、中村ます子、串春栄さんらが参加した」(伊藤一男著『北米百年桜』、糸井野菊さん回想)

華陽会は日米戦争勃発直前まで続けられ、1940年11月には神武天皇御即位2600年を記念して、紫の会、華陽会、川柳人が日本町にあった玉壷軒で「皇紀祭奉祝会」とするパーティーを開いた記録も残っている。夫の学一氏と共にパイオニア・スクエアでランチ・カウンターを経営していた田中郁子さんは、日米開戦へ進む当時の心境を歌で残している。

日米が戦ふなけむ安んじよ
われもうれとふ日本贔負(ひいき)の顧客  
          田中郁子

太平洋戦争が始まり収容所生活が始まってもなお、短歌会の活動は続けられた。

「戦時中収容されたミネドカキャンプ内で、無聊の収容所生活にいささかの潤いをあらしめむと、米国西部防衛軍の許可を得て、二十人の会員を募り一九四二年十月『峯土香短歌会』と名称を替えて結成された。リーダーの田中葦城、金子伸三氏達が東部キャンプへ移されたのちは、中村郁子さんを中心に維持され、キャンプ生活の辛苦が詠まれた」(『花筐』、シアトル短歌会略歴)

ミネドカ収容所では邦字新聞『ミネドカ・イリゲータ』が発行され、短歌、俳句、川柳が掲載された。ツールレイク収容所でガリ版刷りにより発行されていた歌誌『高原』には、峯土香短歌会やその他の各収容所から投稿を受け付けており、収容所間で歌を介しての交流もあったようだ。中村郁子さんは1942年9月に収容所内で病死。1945年5月の「中村郁子追悼号」の『高原』発行の際は、全米から追悼歌が寄せられた。

追われ来て荒野に住めるしるしには
いきの命に歌をし刻まめ              
          田中葦城

終戦を迎えると「峯土香短歌会」は中断するが、シアトルへ戻った半数ほどの同人によって1946年には「シアトル短歌会」と再び名称を改め、再開された。1958年に日系人会会長で短歌会同人だった三原源治氏、1974年には岩月静恵さんが「宮中歌会始」に入選している。

現在、シアトル短歌会は帆足敏子さんが代表を務め、毎月第2月曜日に川辺メモリアル・ハウスで例会を行い、『北米報知』への作品掲載など活動を続ける。神戸出身で1975年に45歳でシアトルへ移り住んだ帆足さんは、子育てに区切りをつけた35年ほど前にシアトル短歌会へ入会した。現会員の中では、発足メンバーの面影を語ることのできる唯一の人物で、『花筐』発行に当たっては、当時100歳だった野村鷹声氏が語る略歴を文章としてまとめるなどした。入会時には健在だった、紫の会発足当時の同人である中村ます子さんを車で例会まで送迎していたこともあったそうだ。

「短歌は言葉の結晶体のようなもの。言葉のひとつひとつが結び付き、響き合い、一首の内容を盛り上げて、その内容にふさわしい調べを持っています。そんな歌を作ることで、日本語の美しさに触れられることが短歌の魅力です」と帆足さん。90歳を迎える2020年は代表を次世代へ引き継ぐ予定で、「100年続く短歌会の歴史を次の世代に引き継いで欲しい」と語る。

 

* 本稿は、『北米報知』(2020年1月3日)からの転載です。

 

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インタビュー:めぐみ保育園園長・鈴木芳美さん

相手の気持ちを思いやったり、年長者を敬ったりという、日本的な常識やマナーが当たり前のこととして身に付くような幼児教育の場を作りたい。

— 鈴木芳美

おじいちゃまおばあちゃまたちに迎えられたシアトル移住

「英語も話せないままシアトルへ来た14歳の私を、日系1世のおじいちゃまおばあちゃまたちが迎え入れてくれたんです」と話すのは、めぐみ保育園園長の鈴木芳美さん。素敵な笑顔でテキパキとインタビューに応える姿からは、大らかな優しさがにじみ出る。

芳美さんは、父親が高校教員を辞めてシアトル日本人バプテスト教会の牧師に就いたことをきっかけに、中学生で母や姉と共に、父に付いてシアトルへ移住した。同教会は1899年に日系1世によって創設され、芳美さんがシアトルに来たばかりの80年代当時は日系1世の年長者たちが教会コミュニティーの中心にいたという。「日本以上に日本的な社会がアメリカにあることに驚きました。おはぎを作ってもらったり、舞踊を教えてもらったり、本当に良くしていただきました」

高校時代には教会近くの高齢者向けアパート、川部メモリアル・ハウスで配膳のアルバイトをし、そこでも日系1世の住人たちと親交を深めた。「3世に当たる孫世代ともなると日本語を話せないケースが多くありました。私のような高校生と日本語で会話する機会はあまりなかったのではないでしょうか。交流をとても喜んでくれました」。そんな影響もあり、若者としてはめずらしく国風流詩吟の稽古へ通い、シアトルで活躍していた宮辺孝満さんに弟子入りもした。日系1世たちとの出会いは、その後のめぐみ保育園創立にもつながっていく。

日本語を介して孫と心の底から通じ合って欲しい

「小さな頃から幼稚園の先生になることが夢でした」と話す芳美さん。実は、芳美さんの母方の祖父母は長年にわたって、めぐみ愛児園というキリスト教精神に基づく幼稚園を日本で営んでおり、芳美さんの母親も園に勤めていた。家庭環境を考えれば、芳美さんが迷いなく幼児保育の道へ進んできたことは自然な流れだったのかもしれない。

ウエスト・シアトルにあるクリーブランド高校を卒業すると、シアトル・セントラル・カレッジの幼児教育課へ進学。日系人講師の飯田静子さん指導の下、幼児教育について学び、乳幼児保育の実地経験も積んだ。そして、大学卒業直後にめぐみ保育園を創設した。

当時、芳美さんはまだ23歳。なぜ、自分で園を創設しようと思ったのだろうか? 「大学4年間の勉強と実地経験の中で、日本の教育とアメリカの教育の良いところを組み合わせた保育をしたいという気持ちが芽生えてきました」と芳美さん。そして何よりも、教会や川部メモリアル・ハウスで交流を深めた日系1世へ恩返ししたいという思いがあった。「日系1世の方々が孫たちと日本語で会話できない姿を目にしてきて、次の世代に向けて日本語を教えたいと強く感じていました。同じ言葉を使って心の底から通じ合って欲しいと思ったんです」

シアトル初の日英バイリンガル保育園、誕生

めぐみ保育園は、シアトル初の日英バイリンガル保育園として、1992年にオープン。早速、日系1世たちが孫の手を引いて訪れた。「オープンハウスには、教会のおばあちゃまたちが手伝いに来て、テリヤキ・チキンを参加者へ振るまってくれました。おじいちゃまたちは庭の手入れなどをしてくださいました。大学時代にレポーターとしてアルバイトをしていたシアトルの日本語ラジオ放送局、JENからは特別に広告枠をいただいて、日系コミュニティーへ開園告知をすることもできました」と、芳美さん。教会、川部メモリアル・ハウス、国風詩吟会、JENと、中学から大学まで関わった日系コミュニティーの各方面からのサポートがあってこそ、めぐみ保育園をオープンできたのだと振り返る。

芳美さんが思い描いていた、「相手の気持ちを思いやったり、年長者を敬ったりという、日本的な常識やマナーが当たり前のこととして身に付くような幼児教育の場」が誕生したのだ。

それでも、初年の園児はまだ8名。ビーコンヒルにキャンパスとして借りた小さな一軒家への家賃と、保育スタッフとして協力してくれる友人への支払いを賄うために、夜間は日本食レストランでアルバイトもこなした。「牧師をしている父には『アメリカへ来たら自分のことは自分でやらないといけない』と教えられていて、大学入学資金なども自分でやりくりしていました。そのおかげで自分で資金繰りをすることは自然と身に付きました。保育園の立ち上げを知った横浜の祖母が300万円を貸してくれたので、まずはそのお金を返済しようと、必死に頑張りました」

そうして始まっためぐみ保育園も、2年後には24名の園児を受け入れるようになって軌道に乗り、現在ではベルビュー校122名、シアトル校43名の園児を抱えるシアトル地域最大の日英バイリンガル保育園に成長した。最初の卒園生たちは、すでに30歳を超えている。

人生で困難にぶつかったときこそ、たくさんの愛情を受けて育ったことが強みに

「園の先生たちは、園児と実の子どものように接していて、子どもたちの成長を楽しみに毎日を過ごしています。卒園時には、『いい時間をありがとう』と言いたいくらい、子どもたちへの感謝でいっぱいになります。人生で何か困難にぶつかったときには、めぐみ保育園でたくさんの愛情を受けて育ったことを思い出して欲しい。幼児期に受けた深い愛情は大きな力になるはず」と、芳美さん。

現在では子どもたちと直接関わるのはスタッフに任せており、頑張っている現場の先生たちをハッピーにするのが芳美さんの仕事なのだという。「現場に横から入って、一面だけを見てジャッジを入れないように気を付けています」。インタビュー当日も、芳美さんからスタッフへ、あんみつの差し入れが。こうしたスタッフと子どもたち、園長とスタッフたちの愛情にあふれる関係が、めぐみ保育園の人気につながっているのだろう。

めぐみ保育園には、日本人や日系アメリカ人の家庭以外からの園児も多い。それは、日本語と英語のバイリンガル教育という言語面だけではなく、日本の文化や食生活を取り入れた教育方針に魅力を感じる保護者が多いからだ。3人の専属給食スタッフが学校内の調理室で作るこだわりの給食は、子どもたちからも大人気だ。日系コミュニティーとのつながりも強く、園児が高齢者向け施設のシアトル敬老を訪れて日本の歌を合唱したり、同じく日系マナーの住人をめぐみ保育園へ招待したりといった交流が続けられている。

中高生の息子ふたりのお母さんという一面も持つ芳美さん。仕事以外でも、シアトル日本人バプテスト教会聖歌隊に参加したり、息子たちが通う柔道道場でボランティアをしたりと、日系コミュニティーで活躍している。数代続くキリスト教徒の家系で「常に家に誰かを招いているような家庭環境」で育ってきた芳美さんは、おそらく根っからの「世話好き」「人好き」なのだろう。そこに、14歳で渡米してから自立して歩いてきたたくましさが重なって、理想の乳幼児保育の場を作り上げるという夢を着実に形にしている。アメリカに住む日本人女性のロールモデルとして、これからもシアトル日系コミュニティーの中で輝き続ける彼女の姿が見られそうだ。

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鈴木芳美: 中学2年生の時に、父親がシアトル日本人バプテスト教会牧師に就いたために、生まれ育った横浜からシアトルへ家族で移住。 教会での活動や、川部メモリアル・ハウスでのアルバイトを通してシアトル日系1世の高齢者と親交を深める。シアトル・セントラル・カ レッジで幼児教育を学んだ後にめぐみ保育園を創設し、26年にわたって園長を務める。

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めぐみ保育園
Quality Childcare and Japanese Immersion Early Education

乳幼児を対象に日本語と日本文化を取り入れたカリキュラムで保育を行う。子どもたちが経験を通して、長い人生を生きていくために大切なことを学ぶ場を提供し、「けんかはダメ」ではなく、お友だちとの衝突を通して「どうしてこうなったか」「他に方法がなかったか」「次はどうしたいか」を考える。経験豊かな保育士たちに見守られながら、小さな経験を繰り返し積み上げて「意欲」と「思いやりの心」を育てる。

ベルビュー校
2750 Northup Way, Bellevue, WA 98004
TEL: 425-827-2540
bellevue@megumipreschool.com

シアトル校
7054 32nd Ave. S., #101, Seattle, WA 98118
TEL: 206-723-8818
seattle@megumipreschool.com

 

*この記事は、「北米報知」(2018年8月10日)からの転載です。

 

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History of Gekkeikan Sake - from Kyoto to America

“During the New Year holiday season, Maneki and Nikko Low served Sake and relish free of charge to all who stopped by. They decorated the table with a large one-foot carp especially shipped from Japan, salted and broiled, along with the specially cooked traditional Japanese New Year dishes and Chinese dishes. This made one forget he was abroad. Paying tips to the maids, we had them play the shamisen and sing Okesa bushi or other popular songs. Such was the jolly New Years Party scene at restaurants in which ‘real’ Japan was vividly alive.”

— Ito Kazuo Issei: a History …

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シアトル「日本町」を知る -戦中・戦後編-

戦前編 >>

シアトルのマイノリティ文化を象徴する場として

シアトル・ダウンタウン南に位置するインターナショナル・ディストリクト。その一角に残る日本町。戦前の最盛期には8,500人程の日系移民がそこに暮らし、ビジネスを営んでいた。しかし、太平洋戦争開戦後の大統領令により、すべての日系住民は強制収容所へ送還された。戦前の日本町を紹介した前回に続き、ここでは戦中から戦後、そして現在に至るまでの日本町の変貌を追う。


日系人強制収容と、残された日本町

2015年12月、ワシントンDCで行われた米国帰化移民らの会合で、オバマ前大統領は「日系移民を強制収容所に監禁したのは米国の最も暗い歴史の一つだ」と挨拶した。75年前の同月、フランクリン・ルーズベルト元大統領による大統領令9066号が発令され、12万人以上のアメリカ市民を含む日系人が「敵性外国人」とみなされ強制収容所へ送還された。シアトル日本町住民の多くは、アイダホ州南部のミニドカ収容所へ送られた。それまでに築いてきた商売、土地、財産、家具、思い出の品など、スーツケースに入る必要最低限の荷物以外の全てを置き去りにしての強制退去だ。数日間のうちに、シアトルの日本町はすっかり空っぽになった。

一方で、戦時中のシアトルはさらなる成長を遂げる。1916年にシアトルで誕生したボーイング社が、軍用機の需要で急成長したのだ。シアトル市の人口は1940年から1950年までに約37万人から約47万人へ増えるのだが、その人口増の中心は、ボーイング工場で労働者として雇われたアフリカ系アメリカ人であった。シアトル市内のアフリカ系アメリカ人の人口は、1940年時点では約3800人と日系人の半分ほどであったが、1950年には約15万7千人に急増する。

アフリカ系労働者を受け入れるために、シアトル市は1941年に公団住宅である「イェスラー・テラス」を建設した。その建設場所は、まさに多くの日系人が住居をかまえていた日本町の東側であった。当然ながら、戦後に日本町へ戻った日系人と、戦時中に彼らの家屋や店舗を占拠するようになっていたアフリカ系アメリカ人住人との間には、様々なあつれきがあったと文献にも記述されている。


公民権運動、I-5、キングドーム

戦前に日系店舗が軒を連ねたジャクソン・ストリートは、1950年代にはジャズクラブが立ち並ぶようになる。一度は日本町へ戻った日系人世帯も郊外へ移り住むようになり、日本人住民や日系店舗は次第に日本町から姿を消していった。第二次世界大戦中の米中関係の好転から1943年に中国人排斥法が撤廃されると、中華系移民が再び増え、キング・ストリートを中心にする「中華街」が活況を呈するようになる。1951年に、当時のシアトル市長が「インターナショナル」という言葉を使い始め、日系、中華系、フィリピン系、そしてアフリカ系住民、つまりは非白人住民が集まる場として「インターナショナル・ディストリクト」が認識されるようになる。

1960年代、シアトルでもアフリカ系住民を中心とする公民権運動が盛んになる。多くの若い日系二世たちも、「アジア系アメリカ人」としてのアイデンティティーを掲げるようになり、差別の撤廃を訴えた。1960年代初頭にインターナショナル・ディストリクトを真っ二つに分断したI-5の建設、そして1960年代後半から1970年代初頭にかけて工事が進められたキングドーム建設に対して、アジア系アメリカ人の若者が「キングドーム・プロテスト」と呼ばれる激しい抗議活動を行った。実に、I-5建設工事は、戦前から日本町に存在していたビルや家屋の多くを取り壊す結果になった。この工事による立ち退きで、日本町を離れることになった日系住民も数多くいたとされる。


アジア系マイノリティーの歴史と文化を伝える

朝鮮戦争とベトナム戦争を経て、1970年代のインターナショナル・ディストリクトには、韓国系やベトナム系店舗も姿を現すようになる。特に、I-5で分断された後の東側地区にはベトナム系店舗が連なるようになり、「リトル・サイゴン」と呼ばれる一角が出来あがった。

現在、インターナショナル・ディストリクトには、日系移民を含むアジア系移民の歴史と文化を残し伝える活動に取り組む非営利団体が多く所在している。公民権運動やキングドーム・プロテストを経て創立されたインターリム・コミュニティー開発機構(InterIm)や、インターナショナル・ディストリクト歴史保護開発局(SCIDpda)などだ。

InterImは、2016年には低所得者向け住宅や保育園を併設する複合ビルであるヒラバヤシ・プレースをメイン・ストリートに建設。戦時中に日系人強制収容に抵抗したゴードン・ヒラバヤシ氏にちなんだ名称のビルだ。

SCIDpdaは、歴史的建築物の運営管理などを行うほか、日本町に所在する店舗を集めて日本町のインフラ整備やイベント企画などを行う「フレンズ・オブ・ジャパンタウン」のサポート業務も行う。「フレンズ・オブ・ジャパンタウン」は、2017年8月26日に、日本町で夏祭りを開催。時を経て、「ダイバーシティー(多様性)」を重視するリベラル志向が強いシアトルで、日本町の歴史を伝える重要さが再認識され始めている。

参考文献

Taylor, Quintard. The forging of a black community: Seattle’s Central District, from 1870 through the Civil Rights Era. (Seattle: University of Washington Press, 1994)

Chin, Doug. Seattle’s International District : The making of a Pan-AsianAmerican community. (Seattle: University of Washington Press, 2002)

Seattle: International Examiner Press

www.historylink.org

年表に見る日本町の歴史(戦中・戦後編)

1940年代 1941  真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦
 シアトル市初の公団住宅「イェスラー・テラス」建設
  1942  日系人強制収容令(特別行政指令9066号)発令
  1945  太平洋戦争終戦
1950年代 1950  朝鮮戦争開戦(~1953)
  1951  日米サンフランシスコ条約締結
1960年代 1962  キング牧師「I Have a Dream」演説
  1964  Wing Luke氏がアジア系初のシアトル市議会議員に
公民権法制定 トンキン湾事件により、ベトナム戦争が本格化(~1975)
  1965  ハイウェイI-5完成
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