Masako Miki

三木昌子は、全米日系人博物館・日本語渉外担当として、日本人や日本企業に向けてのマーケティング、PR、ファンドレイジング、訪問者サービス向上などを担っている。またフリーランスの編集者、ライター、翻訳者でもある。2004年に早稲田大学卒業後、詩の本の出版社、思潮社に編集者として勤務。2009年渡米。ロサンゼルスの日本語情報誌『ライトハウス』にて副編集長を務めた後、2018年2月より現職。

(2020年9月 更新)

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アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その4

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制度的人種差別の中で起きたロサンゼルス暴動 

公民権法が成立し、日系人強制収容に対するリドレスが成立し…と人種差別を是正するための取り組みが少しずつ歩を進めてきた一方で、新自由主義的な政策の下で、社会に深く根を張った制度的人種差別は人種間、また人種の中でも、いっそうの経済的格差を広げていきました。

同じ頃、1965年の移民法改正によって移民の扉が開かれたアジア圏や中南米から新しい移民が続々とアメリカに移住してくるようになりました。自国での政治的、経済的状況を背景にアメリカを目指した移民・難民は、彼らに住むことのできた貧困層が暮らす地域で生活を始めるのですが、それはしばしば、差別と貧困にあえぐ黒人が暮らす地域であったのです。公民権運動も黒人の苦難の歴史も知らない移民たちと、移民が味わってきた苦境を知らない黒人たち。互いに対する無理解と貧困による資源の少なさから、そうした地域に住む者同士で衝突が起きることも少なくありませんでした。

そして1992年、ロサンゼルス暴動が発生します。1991年に黒人男性のロドニー・キングに対し、白人警官らが激しい暴行を加える出来事があり、また黒人が多く住む地域にあった韓国系の商店主が万引きと誤解して黒人の少女を銃殺。この商店主は有罪となったものの、陪審員が求めた禁固ではなく、5年間の保護観察と500ドルの罰金という軽い量刑であったことから人種間の緊張関係が高まります。そこに、ロドニー・キングに暴行を加えた警官ら全員に無罪判決が下されたのです。その無罪判決に対し、黒人らは裁判所や警察署前の路上で抗議デモを展開。そのデモが暴動につながった理由は明瞭には特定されていませんが、デモの中で、長年にわたって不当な差別と暴力にさらされてきた黒人のやるせない思いと怒りが暴発したのかもしれません。

1992年4月29日、ロサンゼルス暴動が発生したこの時に、サウスセントラル地区で働いていたマイクはロドニー・キング事件に関するコミュニティーミーティングに参加していました。「出かけた時は穏やかでしたが、暗くなり始めてミーティングを終えて帰ろうとした時に、知り合いの黒人が『気を付けろよ。人種問題に発展している』と言って、安全に帰れるように誘導してくれました。その数日後、コリアタウンでデモが行われるというので黒人の友人と出かけたのですが、そこに警察は全くいませんでした」。

死者63人、負傷者2383人、被害総額10億ドルにも上ったロサンゼルス暴動の最中、黒人やメキシコ系、アジア系などのマイノリティーが多いサウスセントラルやコリアタウンといった地域は公権力によって守られることはなく、暴動の被害を大きく受けることになりました。警官にとって有色人種の多いこれらのエリアは守るべき街ではなかったのです。人種暴動として報じられるこのロサンゼルス暴動の背景と結果には、社会の底辺で生きるマイノリティーに押し付けられた制度的人種差別から生じる歪みがあったのです。

しかしこの中からも新しい連帯の動きが生まれました。「怒りにかられた黒人の暴動により、韓国系コミュニティーは大きな被害を受けましたが、互いの無知と偏見を補おうと、韓国系と黒人のコミュニティーは歩み寄り、新たな関係を築き始めました。どんな悪い出来事でもポジティブなものを始められる可能性があります」(マイク)。

そもそもマイクがサウスセントラル地区で働き始めたのは、黒人の公民権活動家で牧師のジェシー・ジャクソンが84年に民主党大統領候補の予備選挙に立候補し、それを手伝い始めたことがきっかけでした。

「彼を支援したのは人種だけが理由ではないのです。ジェシーは世界平和にも、女性の権利にも、環境についても素晴らしいビジョンを持っていました。そして『私たちの国旗は赤と白と青だが、私たちの国は赤、黄、茶、黒、白が混じった虹色だ』と。彼は黒人だけでなく、全ての人種のことを考えていましたし、実際88年に民主党の大統領予備選挙で2番目の得票数を獲得した時、黒人に次いで多く彼に投票したのはアジア系だったのです」。

ジェシーは指名を獲得することはなかったものの、マイクは「無駄ではなかった」と回顧します。ジェシーの立候補は黒人や他のマイノリティーの政治参加を促し、それまで選挙に出ることを考えもしなかったヒスパニックやアジア系のマイノリティーが政治の世界へと飛び込んでいく契機になったのです。

「Black Lives Matter」は私たちの問題か?

歴史をたどれば、何度も交差してきた日系人と黒人コミュニティーですが、経済的格差が広がり、暮らす地域が離れたことも背景に、今は個別の例を除いては、その関わりは極めて限られたものになっています。

「リドレスの後、日系コミュニティーの関心は非合法移民の人権問題に移っていきました。日系人の多い西海岸では黒人の数が少なく、移民の数が多いこともその理由だったと思います。また2001年のアメリカ同時多発テロ後は、ムスリムや中東系、南アジア系に対して人種差別が向けられるのに対して声を上げることに優先順位が置かれました」とカレンは話します。

しかしその状況は、過去数カ月の間に変化しつつあります。その理由の一つはアジア系に向けられた人種差別でした。この数年にわたって差別的な言動を許容する雰囲気が全米レベルで醸成された中に新型コロナウイルスが流行。そのウイルスを中国と重ね合わせる言説が流布され、どのアジア系であるかにかかわらず、アジア人もアジア系アメリカ人も、ここ数十年には経験したことのない人種差別のターゲットとなっているのです。

「私たち日系人は多くの場合、社会的に成功し、人種差別など存在しないかのように嘘の安全性に包まれて生きてきました。しかし、人種差別はいつ私たちに向いてもおかしくないと目を覚まさせられたのです。それに、もう一つの理由は、私たちのコミュニティーの中にも黒人に対する差別意識がある、ということでした」(カレン)。

「移民がアメリカに来るのは、多くの場合、自分自身や家族のより良い未来のためです。彼らはより良い安全な暮らしへ憧れます。しかし、この国では長年の制度的人種差別から、社会的な力を持ち、豊かな暮らしをしているのは主に白人であるわけです。そうなるとより良い暮らしをしたいと憧れるとき、『白人のようになりたい』と思うことになります」(マイク)。

5月にジョージ・フロイドが警官によって殺害された時、その現場にいた4人の警官の1人はアジア系アメリカ人でした。彼はベトナム戦争を逃れてアメリカに移住したモン族の移民の子どもであり、白人のように成功したいと、黒人に対する人種差別意識を身に付けていったのです。長年、より良い「アメリカ人」であろう、より白人に受け入れられようと努めてきた歴史のある日系人、アジア系アメリカ人にとって、彼はまるでもう一人の「私たち」のように映ったのです。

クリステンはこう話します。「これまで何年も研究を続けてきて、制度的人種差別や自分の特権を理解しているつもりでしたが、安全な場所から傍観していただけだと痛感しました。自分が生きているこの社会にどうしたら確固たる変化を起こせるのか、まだ迷いながら考えている途中です。これは短距離走でなくてマラソンで、変化には長い時間がかかると思います。でも、今ここから始めていかなくてはならないと考えています」。

私たちにはそれぞれの生活や家族があり、守りたい安全や実現したい夢があります。公正さを実現するためにそれらを全て諦める必要はなく、生活の中で少しずつ選択を変え、友人や家族と会話を持ち、考え学び、署名や寄付、投票、デモといった政治参加など、小さな変化を私たち一人一人が起こし続けることで物事は変化していきます。たとえ無力なようでも、たとえ今、全てが変わらなくとも、小さな行動の累積が未来を変えていきます。その変化は、国籍や人種にかかわらず、この国に暮らし、この国に関わる全ての人にかかっています。

もし今、これは「私たちの問題ではない」と考えるなら、そう考えられることそのものが、私たちが安全な場所にいることの証です。そして、これは「私たちの問題ではない」と考え続けるなら、次は私たちの問題となるかもしれないのです。

「私たち」の未来のために

アメリカで暮らす私たちは、私たちより前にこの国に来た日本人移民や日系人の肩の上に立っているだけではなく、アメリカ黒人史の肩の上に立っています。当たり前のように享受している公正さも安全もその上にあり、私たちは、その危ういバランスの上にこの国に暮らしているのです。

そして今ここに生きる私たちは、黒人をはじめとする他のコミュニティーと共に生きてきた「日系アメリカ人の歴史」の続きを紡いでもいます。その歴史の続きと、未来の私たちが生きていく社会の土台をどのように作っていくのか。今、私たちが向かい合っているのはその問いかけでもあるのです。

 

* 本稿は、『ライトハウス』(ロサンゼルス版2020年8月1日号、サンディエゴ版2020年8月号、シアトル/ポートランド版8月号)からの転載です。

 

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アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その3

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公民権運動とアジア系アメリカ人運動 

実際1960年代の日系社会では、若者のドラッグの乱用や、収容所から戻ってきた後、生活を立て直せず貧困の中で暮らしていた高齢の一世らの社会福祉といった問題が出てきていました。しかしそれは「モデルマイノリティー」であるべき日系コミュニティーでは存在しないものとされ、いっそう問題を悪化させることになったのです。

当時、ソーシャルワーカーとして若者のドラッグ乱用問題に取り組んでいた一人が、全米日系人博物館チーフキュレーターのカレン・イシヅカさんです。

「私たち三世は誰よりも優秀であり、問題を起こさず、優れたアメリカ人であることを期待されました。しかしそれがなぜなのか、親たちは決して説明してくれなかったのです」。

収容所に送られた一世や二世の大半はその経験を口にすることはなく、そのために三世の多くは、自らの生まれた場所や家族の歴史を知らないまま成長することになりました。三世が英語ではキャンプと呼ばれる「強制収容所」のことを知るのは1960年代後半、大学に入ってからでした。

「一世や二世にとって収容はあまりにも深い恥と怒りの感情を伴うものでしたから、その重荷を次の世代に負わせたくないと考えたのでしょう」(カレン)。

三世であるカレン自身も、家族が送られた強制収容所のことを理解したのは、大学に進学した1960年代後半のことでした。

1960年代は公民権運動が活発化した変化の時代でした。各地でデモが行われ、1965年には公民権運動の活動家マルコムXの暗殺、「血の日曜日事件」と言われるアラバマ州セルマでのデモ隊への暴力事件、1968年にはマーティン・ルーサー・キングJr.の暗殺など命がけの運動が繰り広げられました。その運動の中で1964年には人種や宗教、性別、出身国などによる差別を禁じる「公民権法」が、1965年には投票に関する法律における人種差別や言語少数者に対する差別を禁じる「投票権法」が、1968年には不動産の売買や賃貸における人種や宗教、性別、出身国、身体的障害、家族構成などによる差別を禁じる「公正住宅法」がと、差別を是正する法律が次々と成立していったのです。

黒人たちが長年の差別に対して立ち上がり、命がけで自らの権利を主張していくのを見て、アジア系アメリカ人も自らのアイデンティティーと権利について行動を起こし始めます。

「アジア系アメリカ人運動は、黒人の公民権運動や、その後も続く黒人差別に対する『ブラックパワー』運動に大きくインスパイアされました。私たちの闘いは『誰よりも良いアメリカ人になること』ではなくて、私たちが闘っているのは白人至上主義的な社会構造であるのだと。私たちは黒人ではなく、もちろん白人でもありませんでしたが、闘いの相手は共通したものだと気付いたのです」(カレン)。

共闘の例で有名なものが、マルコムXとユリ・コチヤマの交友です。ユリは収容所を出た後、ニューヨークで新婚生活を始めます。職場や低所得者用公営団地で黒人コミュニティーと暮らす中で、公民権運動に関わり、マルコムXと親しく交流するようになりました。しかしその友情は彼の暗殺で唐突に終わりを告げるのです。彼が床に倒れたとき駆け寄って頭を支えたユリはマルコムXを追悼しこう書いています。「残された者の心に生きることは、死なないことである。したがって、マルコムは生きている!」と。「立ち上がって行動することが生きるということ」とも言ったユリは、敬愛するマルコムX同様、2014年に生涯を閉じるまで、公民権運動、アジア系アメリカ人運動、反核運動と信念に身を捧げ、その後の世代に大きな影響を与えました。

「モデルマイノリティー」であったはずのアジア系が、この有色人種による闘いに目覚めた背景には、公民権運動と同時に1950年代、1960年代に展開されていたベトナム反戦運動がありました。ベトナム戦争では日系人を含むアジア系アメリカ人も例外なく徴兵されていきました。アジア系アメリカ人にとっては、自らの国で人種差別を受ける一方で、戦場では自分と同じような外見のベトナム人の殺害を命じられ、その敵を指す差別的な言葉で呼ばれることも、戦場で敵と間違えられることもあったのです。そうした不条理を目の当たりにし、彼らは、ベトナム戦争を有色人種を虐げる道理の通らない戦争として反戦運動を繰り広げたのです。

どんなに「良いアメリカ人」になっても、いつまでも「外国人」のように社会の周縁に追いやられていたアジア系アメリカ人。この「アジア系アメリカ人」という言葉すら1968年まで一般的でなく、彼らは「東洋人」と外国人のように呼ばれていたのです。二世の歴史家であり公民権活動家であるユウジ・イチオカが1968年に名付けた「アジア系アメリカ人」とは、人種差別や外国人恐怖(ゼノフォビア)の対象となっていたアジア系が、自分たちもアメリカ人であるのだと声を上げるために自ら選択した、連帯のアイデンティティーなのです。

カレンは自らを「アジア系アメリカ人」と捉えた時のことをこう振り返ります。「共に有色人種であり、互いが力になるのだと理解した時、それはとても勇気付けられる経験でした。私たちはその連帯によって『マイノリティー』ではなく、初めて『マジョリティー』になったのです」。

1960年代後半、アジア系はステレオタイプを超えて、自らのアメリカ人としての権利を主張し、同時に各地の大学に、エスニックスタディーズ、アジア系アメリカ人研究を設立し、白人のアメリカ史ではほとんど言及されない有色人種の歴史を、アメリカの歴史として収集し保存し研究し伝えていくことを目指しました。

マイクはその中核の一つであるUCLAのアジア系アメリカ人研究センターの設立メンバーの一人でした。今、アメリカに来た日本人移民と、彼らを祖先に持つ日系アメリカ人の歴史が紛れもなくこのアメリカの歴史として存在し、私たちがそれを知ることができるのは、こうして歴史を記録し次世代に手渡していこうとした三世たちの献身によるものなのです。そして、それは黒人たちが声を上げて作った時代と空間の中で生まれたものだったのです。

リドレス運動と黒人コミュニティーの支援

黒人の公民権運動は、アジア系アメリカ人運動に影響を与えたばかりでなく、戦後の移民にも道を付けました。

「1964年、公民権法が成立し、1965年には投票権法が成立します。これらを実現するために黒人コミュニティーは必死に運動を起こし、この運動が醸成した雰囲気の中で、1965年には改正移民法が成立するのです」(マイク)。

この「1965年改正移民法」は1924年の移民法が導入した国別の移民割当制限を撤廃したもの。1924年から1952年までは一切の移民を禁じられ、1952年以後は年間わずかに200人弱の移民しか認められていなかった日本に対しても、他の国と同じようにアメリカへの移民の扉が開かれたのです。

「この移民法にしても、公民権法や公正住宅法にしても、黒人の奮闘によって私たち他のマイノリティーは大きな恩恵を受けてきました」(マイク)。

公民権運動がアジア系アメリカ人運動を生み、その中でマイノリティーの権利の意識と自らのルーツへ関心を持ち始めた三世たち。そこで彼らが見つけたのは、自らの「日系」のアイデンティティーの誇りと、一世、二世が長く口をつぐんできた強制収容の歴史でした。人種差別を是正しようとそれまで黒人や他のアジア系と共に闘ってきた三世たちは、人種差別がまさに自分たちのコミュニティーと切り離せないものであることを知るのです。彼らは強制収容の歴史を自らのコミュニティーに対する烙印ではなく、人種差別が起こした過ちと捉え「リドレス運動」を繰り広げました。リドレスとは「過ちを正す」ということ。これは国が犯した過ちによって失われたアイデンティティーと、公民権と、民主主義を取り戻す運動であったのです。

1980年、戦時市民転住収容に関する委員会(CWRIC)が発足。1981年に全米各地で公聴会が行われ、それまで何十年も収容経験を語らずにきた一世や二世ら約750名が証言します。そして1982年、1983年にかけて同委員会は、日系人の強制立ち退き・収容は軍事的必要性があったものではなく、「人種差別」「戦時下のヒステリー」「政治指導者の失政」による不当な政策だと結論付け、元収容者に対する補償金の支払いを勧告したのです。

1987年、CWRICの勧告をもとにしたリドレスの法案「下院442法案」の審議が行われました。その第100議会の議場に立ったのはカリフォルニア州から選出された黒人の議員、ロン・デラムズでした。ロンは1942年、日系人が強制収容所に送られた時のことを話し始めました。

「私の家は西オークランドのウッド通りの中央にあり、角には日系人の家族が経営する食料品店がありました。私と同い年のその店の日系人の少年、ローランドは私の親友でした。議長、忘れられない記憶があるのです。あの日、陸軍のトラックがやって来て、私の親友を連れ去った日のことです。その記憶は6歳の私の脳裏に深く刻まれてしまったのです。親友のローランドの目に浮かんだ恐怖と自分の家から出て行かなくてはならないつらさを、私は決して忘れることはできません」。

「行きたくない!」と叫ぶローランドに「僕の友達を連れて行かないで!」と叫び返したロン。そして大人になり連邦議員となったロンは、リドレス法案に賛同するよう呼びかけます。

「これは、たまたま黄色の肌を持ち、たまたま祖先が日本人であるというだけで、何千ものアメリカ人が味わわなくてはならなかった痛みに対する補償なのです。この黒人のアメリカ人は、アジア系アメリカ人の兄弟、姉妹と共にこの問題について声を上げます。この法案に賛同してください。そして戻ってこられるかどうかも分からぬまま、叫び声を上げてトラックで連れて行かれたローランドの目に浮かんでいた痛みと、心中の悲しみを、あなたも理解していると彼に知らせてやってください!」。

長い闘いの後、1988年にロナルド・レーガン大統領が署名し「市民の自由法」が成立します。これは日系人の強制立ち退き・収容の過ちを認めて謝罪し、生存する元収容者1人あたりに2万ドルの補償金の支払いを定めたものでした。日系人の強制収容に対するリドレスが成立したのは、日系コミュニティーが力を注いだのみならず、これが日系人に限らず、あらゆるマイノリティーに対する人種差別の問題であることを、黒人をはじめとするさまざまなマイノリティーが理解し、二度と繰り返されることがないようにとリドレスの実現に力を結集したからなのです。

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* 本稿は、『ライトハウス』(ロサンゼルス版2020年8月1日号、サンディエゴ版2020年8月号、シアトル/ポートランド版8月号)からの転載です。

 

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アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その2

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リトルトーキョーからブロンズヴィルへ

1941年に日米が開戦すると、日本人移民や日本人を祖先とする日系アメリカ人らに疑惑の目が向けられます。真珠湾攻撃直後には日本人コミュニティーの指導者的立場にいるとみなされた一世が逮捕され、翌1942年には西海岸に住む日系人約11万人全員が人里離れた荒野や沼地に作られた強制収容所へと送られました。日系人がスパイ行為や破壊行為を行った事実はなく、ただ日本人の血を引いているからというだけで「敵」と同一視されたのです。その3分の2がアメリカに生まれたアメリカ市民でした。一方で同じようにアメリカの敵であったドイツ系、イタリア系に関しては、疑わしいとされた者だけが拘束されました。

戦前は約3万人の日系人が暮らしていたロサンゼルスのリトルトーキョーもゴーストタウンとなりました。そこに新たな住人が現れることになるのです。「第二次大戦中のロサンゼルスは軍需産業の拠点であり、戦闘機や戦艦などの製造において多くの人手を必要としていました。そこで人種隔離や異人種間の結婚禁止など人種差別的な州法『ジム・クロウ法』があった南部から、大勢の黒人が職を求め、また社会的立場の改善に期待をかけて移動してきたのです。しかし彼らもまた住宅の人種差別条項によって白人の住む地域で暮らすことはできませんでした。リトルトーキョーをはじめとする日本人街は、黒人が暮らすことができた数少ない場所の一つでした」(クリステン)。

扉を閉めていた日系の店舗やレストランに次々と黒人のビジネスがオープンし、仏教寺院はキリスト教の教会へと姿を変え、リトルトーキョーは約8万人もの黒人が暮らすブロンズヴィルと呼ばれる活気溢れる街へと変貌するのです。

「ブロンズヴィルには豊かなジャズシーンがあり、コールマン・ホーキンスやチャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィスらも演奏しました。しかし大勢がひと所に集まって生活していたことから、公衆衛生の悪化や犯罪率の上昇が起き、当時のロサンゼルス市長のフレッチャー・バウロンらをはじめとする社会的リーダーらはそこを『荒廃地域』とみなし、都市再開発が必要だとして立ち退きを命じ、居住人口を減らそうとしたのです」。

限られた地域でしか暮らすことを許されないために、密集して暮らすしかないのに、そこからも追い出されようとする黒人たちにとって、当初は希望の地に見えたロサンゼルスも決して安住の地ではなかったのです。

そして1945年初頭以降、ようやく西海岸へと戻ってくることが許された日系人らが徐々にかつての故郷へと帰ってきます。白人のメディアや政治家は「黒人と日系人の間に衝突が起きるか」と噂し、また、それを煽りもしましたが、『カリフォルニア・イーグル』をはじめとして黒人コミュニティー内部から、収容という苦難を経た日系人への共感を示し進んで出て行こうと促す声が上がり、多くの場合、ブロンズヴィルからリトルトーキョーへの移行は穏やかに行われたと記録されています。

しかし自らも人種差別を受けていた黒人がそこを出てほかにどこに行く場所があったのでしょうか。彼らは本当に進んで出て行ったのでしょうか。クリステンはこう話します。「日本人は『外国人土地法』によって不動産購入を禁じられていましたので、リトルトーキョーの建物の大半は白人が所有していました。人種差別の対象は一晩のうちに変わっていくもので、戦時中は日系人がその対象でしたが、日本との戦争が終わろうとしている今、白人は『衛生状態が良くなく、問題を起こす』とされた黒人よりも、『清潔で、犯罪を犯さない』日系人に貸す方がよいと考え、それまでの借り手であった黒人との賃貸契約を打ち切ったのも一つの理由でした」。

多様な人種が混在していた戦後のコミュニティー

戦争が終わったと言っても、日本人の米国籍取得を妨げる国籍法や外国人土地法といった差別的な法律はそのまま存在していました(1952年に国籍法は改正、外国人土地法は違憲判決が出て撤廃)。不動産には人種制限条項があり、それが禁止された後も暴力や嫌がらせによって、差別的な習慣は根強く残っていきました。そのため日系人は、戦前同様、黒人やメキシコ系らほかの人種やエスニックグループと混在して、有色人種が住むことができた地域で暮らしていました。

リトル東京サービスセンターでサービスプログラムのディレクターを務めるマイク・ムラセさんもそうした地域で育ちました。アメリカに生まれて子どもの頃に日本に戻った帰米二世の父を持ち、日本で生まれた三世のマイクは1956年に家族でアメリカに渡り、労働者階級の黒人や日系人が暮らすクレンショー地区に居を構えます。当時は戦争が終わって10年程度。日系人らは何とかして収容で失った生活を立て直そうとしていた頃です。

「日系三世の子どもたちよりも、黒人の子どもたちとよく遊びました。僕は英語も話せなかったし、三世らにとって僕は日本人過ぎたのです。三世は日本語を話したり、日本人的に振る舞ったりするのでなくて、よりアメリカ的なアメリカ人になることを期待されていましたから」。

共に成長する中でマイクのみならず、ほかの三世もジャズやビバップなど黒人音楽や黒人文化を吸収し、スポーツを通して、同じエリアに住む黒人コミュニティーと親しく交流していました。「子どもには人種はあまり関係ないですからね。しかし大人たちは日系人は日系人だけで、黒人は黒人だけで固まっていることが多かったです。同じレストランに行きはするけど、互いを夕食に家に招くような関係ではありませんでした。文化も社会的な立場も異なっていましたし、何より私たち日系人には黒人が受けている差別が本当の意味では理解できていなかった。そのうちに日系三世らは大人になり、子どもが生まれると教育のために良い学校区へと引っ越していきました。良い学校区とは白人が多く住むエリアでした」。

隣人として交流していた時代は過去のものとなり、それぞれが別の地域で、別々のコミュニティーを作り始めるのです。

「モデルマイノリティー神話」と制度的人種差別

しかし、どうして日系人は経済的に成功してそこから出ていくことができ、一方で黒人はそこに止まったのでしょうか。

「日系人も人種差別に苦しめられてきましたが、黒人がこの国で直面してきた人種差別と不公正はその比ではないほど過酷で、長い間続いてきたものです。どんな差別であれ不公正を乗り越えていくのは簡単ではありませんが、黒人の置かれた環境は全くスタート地点が異なります。奴隷制があり、解放後もジム・クロウ法が続き、その過去から続く差別による経済的格差が存在する上に、公共サービスや教育、医療、警察など社会のあらゆる面において黒人に不利な仕組みになっていて、自助努力ではどうにも悪循環から抜け出せない。その構造的な差別『制度的人種差別』は今も続いているのです」(クリステン)。

「黒人のコミュニティーで働いていた時、最初、若いギャングらがドラッグを売っているのを見て『悪いことばかりして』と思いましたが、彼らを知ると考えが変わりました。彼の母親はドラッグ中毒で、父親は刑務所にいて、彼らは適切な教育や大人の助けなしに、自分でなんとかして生きていかなくてはならない。むしろ『こんな悪い状況にもかかわらず、それでも生きている』わけです。彼らだって私たちと同じようにより良い未来を求めています。でも同じだけのチャンスがないのです」(マイク)。

無論、黒人の中にも経済的・社会的な成功者はいます。しかし全体では他の人種に比べて黒人の貧困率は高く、その所得格差が居住地域や教育機会を制限し、貧困から治安や衛生状態が悪化し、さらにそこから偏見が生まれていく…。この悪循環こそが制度的人種差別によるものなのです。

「それに」とクリステンは続けます。「日系人が皆、成功したかどうかも議論が必要です。私たちは1960年代には『モデルマイノリティー』とレッテルを貼られるようになったわけですが、それによって成功しなかった者や社会の問題点が隠されるようになったのも事実です」。

「モデル(模範的)マイノリティー」とはアジア系アメリカ人に使われたステレオタイプ。この言葉が最初に使われた例の一つは、1966年に社会学者のウィリアム・ピーターソンが発表したエッセイ『成功の物語:日系アメリカ人方式』でした。

「彼は、日系人は戦時中は強制収容所に送られるなど苦難を経たにもかかわらず、終戦から数年後には社会的に成功するようになった。それは勤勉で家族を大事にする価値観のおかげで『問題のあるマイノリティー』とならなかったからだ。この『モデルマイノリティー』には貧困も暴力、犯罪も少ないと記したのです。つまり『モデルマイノリティー』のステレオタイプを提示することで、当時、公民権運動で声を上げていた黒人や、貧困や不公正に苦しむ他のマイノリティーの立場が変わらないのは、制度的人種差別が理由ではなく、彼ら自身の努力が足りないせいだと責任を転嫁したのです。『ほら、差別に声を上げるのではなく、日系人のように黙って努力しろ』と」(クリステン)。

第二次世界大戦中、そのルーツのために、「敵」とみなされて強制収容所に送られた日系アメリカ人にとって、戦後、社会的に成功しモデルマイノリティーとなることによって、まず自らが差別の対象とならないようにすることが急務であったのです。

「二度と収容のようなことが降りかからないように、良きアメリカ人であることを証明し、アメリカ社会に受け入れられなくてはならないという生存戦略であったと言ってもいいと思います。しかし同時に『モデルマイノリティー』に当てはまらない者はコミュニティーの周縁に追いやられることになったのです。問題を起こす者、社会福祉を必要とする貧困者、落伍者はまるで存在しないかのように扱われることになりました」(クリステン)。

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* 本稿は、『ライトハウス』(ロサンゼルス版2020年8月1日号、サンディエゴ版2020年8月号、シアトル/ポートランド版8月号)からの転載です。

 

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アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その1

「ブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter/黒人の命だって大切だ)」。今、起きているこの運動をどう考えているでしょうか。アメリカに暮らす日本人にもさまざまな人がいて、黒人*や白人や日系以外のアジア系の血が混じった人や、他の人種やエスニックの人と結婚した人もいます。その立場や環境によって、この「ブラック・ライブズ・マター」は自分に関係のあることとして、もしくは自分からは遠いもののようにも感じられていると想像します。

私たち日本人は、今、アメリカで命の危険を覚えるような人種差別にさらされることはまずありません。新型コロナウイルスの流行と共にアジア系への人種差別が増えていることから差別的な言動に出くわすこともありますが、基本的には法と秩序は私たちを守ってくれるもののように感じられます。いつから、どうやって、安全や公平さが私たちにとって当然のものになったのでしょうか。たどってみると、それはアメリカ黒人史と関わるところが大きくありました。

移民当初から現在に至るまで、同じ有色人種である黒人に助けられる一方で、マイノリティーであり差別の対象でもあった日本人や日系人は、時に黒人を差別する側に回ることもありました。しかし、また別の時には互いの中にある人種差別的意識を超えて友情や連帯を育むこともあったのです。文化や習慣が異なる人々が理解し合うのは簡単ではありませんが、私たちはそうした複雑な社会に生きています。その歴史を紐解き、どのように今にたどり着いたのかを知ることで、ここからどこに進もうとしているのか、未来の地図も描けるかもしれません。


白人の街、有色人種の街

日本からアメリカへの移民が本格化したのは1880年代以降のこと。1882年に「排華移民法」が成立し、中国からの移民が禁止されたために、中国人に替わる労働力として日本人労働者が求められることになりました。しかし安価な労働力としては必要とされても、日本人移民はアメリカ社会において歓迎されたわけではありませんでした。日本人や中国人らアジア人は、白人を中心とする労働組合への加入を拒否され、低賃金や劣悪な労働条件で働くことを強いられたほか、教育や医療を受けられない、または制限されることもしばしばありました。

そして1913年にはカリフォルニア州で「外国人土地法」が制定され、アメリカへの帰化が認められない「帰化不能外国人」の土地所有が事実上禁止されることになります(以後、オレゴン州、ワシントン州など14州でも同様の法律が成立)。当時、帰化が認められていたのは「白人の自由市民、アフリカ生まれおよびその子孫の自由市民」のみ。白人でも黒人でもない日本人は、アメリカ人になることもできなければ、選挙権もなく、不動産を購入することもできなかったのです。

「加えて、多くの不動産登記簿には人種制限条項が設けられていましたので、たとえ生まれながらにアメリカ人である子どもの二世の名義で購入しようとしても、賃貸をしようとしても制限がありました」。そう話すのは、ロサンゼルスにある全米日系人博物館のコレクション管理部門のディレクターで、キュレーターのクリステン・ハヤシさんです。

「ロサンゼルスは20世紀初頭に発展していきましたが、当時の社会的有力者らはこの街を『白人の街』として保ちたいと考えていました。そこで『特定警戒地区』を設けて有色人種が銀行からローンを借りられないようにしたり、不動産登記簿に『白人以外の購入不可/居住不可』などと人種制限条項を設けたりすることによって、有色人種が住める区域を制限し、自分たち白人の街に有色人種が混じってこないようにしました。その結果として、日系人はリトルトーキョーやその近くのボイルハイツなどに、同じように差別の対象となっていた黒人、メキシコ系、ユダヤ系と共に暮らしていました」。

人種を超えた友情と同じ有色人種としての共闘

異なる文化や言語を使う人種やエスニックグループが混在する場所では、偏見や誤解から緊張感が走ることもありました。「しかし」とクリステンは続けます。「たとえ先入観を持っていても、近くで暮らして互いを知れば、自分が持っていた考えが偏見であると気付き、違いを超えて共通点を見つけることもあります。そうして生まれた友情の例が、当館のモリー・ウィルソン・マーフィー・コレクションに見てとれます」。

リトルトーキョーの東南に位置するボイルハイツで暮らしていた黒人の少女のモリーは、近隣に暮らす日系二世らと友情を育み、それは日系人が強制収容所に送られた後も変わることはありませんでした。モリーは彼女たちと手紙をやりとりし、時に収容所の中の友人たちが必要とする物を送りました。モリー・ウィルソン・マーフィー・コレクションは彼女が受け取った手紙と、日系人の友人らの写真で構成されています。

「もう一つの例がサカモト・ササノ・コレクションにも見られます。チヨコ・サカモトはアジア系アメリカ人女性としてカリフォルニア州で初めて弁護士になった二世です。戦前、チヨコはリトルトーキョーで働き、西南地区に暮らしていて、そこで黒人弁護士のヒュー・マクベスと知り合います」。

ハーバード法科大学院を修了した後、1913年にロサンゼルスに移ったヒューは、人種差別に対してさまざまな訴訟を起こし、日系人コミュニティーが直面した排斥にも声を上げた一人でした。「人種に基づく強制収容は憲法違反であり差別だ」と裁判を起こし、残念ながらその裁判は敗訴するのですが、彼は強制収容所を管轄していた陸軍の戦時転住局や当時のルーズベルト大統領に日系人を擁護する意見書を送り続けたのです。

「戦時中、コロラドのアマチ収容所に送られ、そこで収容者のために法律相談を行っていたチヨコですが、収容所から出てロサンゼルスに戻った後、人種差別のために就職先が見つけられずに苦労します。その時ヒューは彼女を同僚として彼の事務所に迎えたのです」。

ヒューと同じく、黒人の弁護士でジャーナリストのローラン・ミラーも日系人の強制収容に異議を唱えたほか、広くマイノリティーの公民権のために闘いました。ローランが後にオーナーとなる黒人の新聞『カリフォルニア・イーグル(The California Eagle)』の当時の編集長シャーロッタ・バスも日系人の強制収容は公民権の侵害だとして何度も批判記事を掲載しました。また同紙は日系人との連帯を示すため、当時多くのメディアが使っていた日系人・日本人に対する蔑称である「ジャップ」という言葉の使用を止めたのです。

別の黒人の新聞『ロサンゼルス・トリビューン(The Los Angeles Tribune)』は、強制収容につながった大統領令9066号の発令直後、新聞そのものの方針として強制収容に抗議する姿勢を取りました。同紙の記者で活動家であったエルナ・ハリスはその2年後にこう書いています。「この問題は人種に基づくものであり、外見上『有色人種』とみなされる者全てに起こりうることなのです」。

クリステンはこう話します。「日系人に起きたことは、黒人が経験してきた差別と共通のものでした。これは小説ですが、チェスター・ハイムズの『わめきだしたら放してやれ(If He Hollers Let Him Go)』にロサンゼルスの造船所で働く黒人の青年が、『日系人のように突然拘束され連行されるのではないか』と恐怖で不眠に悩まされるシーンが出てきます。これはいつ彼らに起こってもおかしくないことだったのです。自分たちも人種差別に苦しめられていた黒人が、日系人のために立ち上がるのは簡単ではありませんでしたが、ヒューやローランらはそれでも声を上げたのです」。

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*注: アメリカでは「African American (アフリカ系アメリカ人)」とルーツを重複する表現もよく使われますが、アフリカ系以外の黒人をも包括し、また色を表す小文字で形容詞の「black」ではなく、Bが大文字で固有名詞の「Black」を使う動きが広がっています。ここでは、それを踏まえ、「Black」の訳語としての「黒人」を使っています。

 

* 本稿は、『ライトハウス』(ロサンゼルス版2020年8月1日号、サンディエゴ版2020年8月号、シアトル/ポートランド版8月号)からの転載です。

 

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