Maximiliano Shigeki Matsumura

1942年7月16日鹿児島県枕崎市生まれ。父の転勤で鹿児島県内の各地で過ごす。鹿児島大学農学部専攻科を終了後ブラジル移住を決め、1966年7月末親兄弟の反対を押し切って渡伯。サンパウロ州 リオグランデ・ドスール州で働く。鹿児島県人会や地元文化協会の会員。ブラジル国籍取得。

(2021年9月 更新)

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コロニア語

1966年9月11日の夜、私達を乗せた「さくら丸」はサントス港に碇を降ろした。翌日の朝からざわざわと下船が始まる。荷物下ろしも入国手続きもまったくのろく、私を迎えに来た老いた「パトロン」(雇用主)夫婦は早朝から待っていたそうだが、税関吏が荷物検査を終えて、サントスから奥地に向かったのは薄暗い夕暮れ時だった。

三人が乗った小型のワーゲン車「フスカ」(愛称:カブトムシ)は軽快な空冷エンジンの音を響かせながら、海岸山脈の峠を登った。大分経って、「フスカ」は大都会のサンパウロ市内を横切り、イビウナ郡へ向かう街道に入った。くねくねと曲がった街道は上へ上へと向かっている。途中、小高い丘の上にあるコチアの街の中の「バール」(スナックバー)と呼ぶ軽食店の横に車を留めた。

「パトロン」が手を挙げて奥にいる人物になにやら声を掛ける。のっそりと出て来たちょび髭の男が「ナンダ?」と無愛想に答えた。夜なのに中折れハットを帽子を被っている。「パトロン」は指を4つ突き出し「カフェジニョ」(コーヒー)と云った。

カウンターの内側に金属製の湯沸かし器に似た容器が於いてあった。横に湯を張った四角い温浴漕が並ぶ。湯気が立ち上っているので熱いのだろう。ちょび髭は小さなコーヒー椀を温浴漕の湯に潜らせて水を切り、湯沸かし器の蛇口からコーヒーを注ぐ。カウンターに並んだ小さな受け皿に湯飲みを置いて、まず私の前に差し出した。老婦人がニコニコ顔に「ホレ、飲みなさいヨ」と勧めた。

何とも云えないいい香り~。一口飲むと焼けどする位熱い。ふうふうと冷ましながら飲むとおいしい。山の上の寒さに縮こまっていた体がほぐれる。濃くて甘いが体が暖まった。

「パトロン」と老婦人の他に一人ブラジル人がいた。私の荷物を積んだワーゲンの「コンビ」(小型ワーゲンバスやワゴン車の一種)の運転手だという。やはり帽子を被っている。「パトロン」が4人分のお金を払うとちょび髭は初めてニコニコした。現金なものだ。

「パトロン」が運転する「フスカ」は更に快音を響かせて、暗い街道を上り下りする。行き交う車は少ない。20分程走って、森の中の暗闇から抜けるとゆらゆら揺れる街明かりが遠望出来る草原に出た。やがて、車は左折し、ガタガタ道を進む。「フスカ」の後ろから砂埃が舞い上がり、窓から入って来た。赤土の臭い。強烈な草の臭いも混じっている。赤土の細道を下りそして登る。

脇に立つ電柱からぶら下った電燈がゆらゆらと丸木の柵を照らしている。中年男が出て来て、西部劇でよく見る丸木の門を開いた。50日の船旅後、やっと私の配耕先、M養鶏場に到着した。玄関の横には日本式の小さな庭園があった。

「パトロン」が「さぁ」と応接室に通してくれた。靴のままで入っていいという。挨拶を簡単に済ませると食堂に向かう。大きな長いテーブルが置いてある。そこに、門を開けてくれた甥と妻と幼い4人の娘。私と同じ様に配耕された先輩の「コチア青年」、若夫婦、そして、「メイア」(歩合制の独立農家)の家族が並んでいて、「新来青年」の私を珍しそうに見上げた。

ビールと「グァラナ」と呼ばれる清涼飲料で乾杯して遅い夕食が始まった。寿司や刺身や煮物の和食の他に珍しい料理も並んでいる。にこにこ顔の老夫婦が口を揃えて「沢山食べて」と勧める。「ブラジル料理も慣れたらおいしいよ」と甥の妻がお皿を回してくれた。最近の日本の事を聞かれるが、もう皆色々な事を知っている様だった。朝が早いからと皆が席を立って出て行く。「パトロン夫婦」と甥と私の4人がテーブルに残った。

白髪の頭をさすりさすり「パトロン」はブラジルでの永い移民生活の苦労を語る。今では「20アルケール」(50町歩)の農場主だ。成功者としての喜びが滲み出る苦労話で同じ話が何回も繰り返された。それでも、私には珍しい話ばかりで私もいつかは成功して大農場主に成れるのだと夢が湧いて来た。

良く聞いていると、「パトロン」は話しの切り出しにしきりと「余らがナー」と云った。「余」? 昔、殿様が使った「余は満足じゃ」を思い出し、ブラジルで成功すれば傲慢な言い方になるのかな?とその時思った。

色々あって、イビウナの養鶏場を出て、大都会サンパウロ市の日系の肥料会社に職を求めた。ここで同僚の社員が「余は知らんよ」とか「余も行くよ」とか成功者でもない日系人まで「余」を使っている。なんだ、自分とか私の事を「余」というのだな。

ある日、なかなか顔を合わせなかった同じ下宿に住む日系大学生と話した。日本語が良く分かるので日本語で相手してくれた。私も覚えたばかりの「余」を使って話してみた。すると、彼は即座に「余と云うのはやめろ」と云う。「だから日本人の喋るポルトガル語は田舎言葉になるのだ」と私を諭した。

私(第一人称)はポルトガル語で 'eu'(エゥ)という。‘エ’ は強く、‘ゥ’ は軽く添える程度に弱く発音する。欧米人は顎や舌を大きく動かして「アエイオウ」をはっきりと発音する。口をあまり動かさずに発音する日本人は「アエイオウ」をはっきりと発音出来ない。顎や舌がスムーズに動かないので、'eu'(エゥ)の発音は縮まって(ヨ)に聞こえる。ブラジルは文盲率が高く、農場の使用人はほとんど文盲だ。日給を貰うと受け取り書に拇印を押す。

私達日本移民の多くはブラジルの学校に行かない。農場では「パトロン」や使用人同士の会話を耳で覚えるので、どうしても田舎言葉になってしまう。私に注意してくれた日系の学生さんは小学校に入った頃、先生や友達に「ポルトガル語の発音」を注意され、悪坊主に「やーい、ニホンジン」とからかわれたのだろう。発奮した彼は今ではサンパウロの有名大学の学生になっている。私の妻も同じ目にあっているし、アメリカでも英語を流暢に話さない人はバカにされると聞いた。もちろん、ブラジルでも同じなのだ。ブラジルに移住した来たのだからポルトガル語の基礎は勉強しようと私は誓う。

 

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Nikkei Chronicles #10—Nikkei Generations: Connecting Families & Communities

ブラジル二世第1号の人

珍しく早起きしてソファで血圧を計っていると電話が鳴った。早朝に電話がなるのはお葬式の知らせと決まっているので、恐る恐る受話器を取る。

「オレオレ、まだ寝てた?」

アチバイアに住むさくら丸同船者の三木路生(みちお)さんだった。

「聞いて驚くな!」

人をビックリさせるあの独特の抑揚。同船者で病気の人って誰だっけ?それとも元気な人が事故か何かで?早く教えて!

向こうもじれったいのか「聞いて驚くなかれ!昨日、珍しい人に会ったよ」と切り出した。

アー、誰も死ななくて良かったと安堵する。

三木さんは続けて、「第1回移民船笠戸丸移民の二世第1号の人だよ」と自慢げな声だ。なんだかんだと説明があって、「君にこの事を新聞に書いてほしい」と依頼された。次の日、彼は断れ切れない私に数冊の資料を届けに来た。

その人はローザ・芳子・樋口・ジョーンズさん。1908年4月2日出港の第1回移民船笠戸丸乗船時、母の樋口タニさんは妊娠1ヶ月だったが気付いていなかった。樋口敏政・タニの一家はモジアナのグァタパラを経て、ノロエステ線のピラジュイの耕地に入る。その年の10月15日、ローザさんが生まれる。

未熟児として小さくひ弱に生まれが、黒い髪の毛の乳児は母のお乳を一生懸命飲んですくすくと育った。樋口一家はリオ州のノ―バ・イグアスに移り米作に従事したが、父の敏政さんが死亡。母タニさんはローザと日本生まれの兄敏信、妹のフランシスカ・シズコの3人を連れて、弟の村崎豊重さんを頼ってサンパウロに出た。タニさんは織物工場で働いて生計を立てる。

その後、村崎さんは敏信とロ―ザを勉強させる為にリベロン・プレットの耕地に移るが、仕事に追われて学校どころではない。タニさんはサンパウロで香山六郎さんと再婚する。

それから、一家はあちこちの耕地を渡り歩いたが、香山さんは新聞社を起こす為にバウルーに移った。この時ローザさんは12歳。市内の小学校に入った。小学校を終えると商業学校で簿記とタイプを勉強した。

1930年、バーシ・ウイリアム・ジョンズという英国人と結婚した。両親は国際結婚に反対だったので、2人は登記所で結婚した。日本移民の二世第1号のローザさんは国際結婚でも第1号となった。

男やもめの三木さんは毎日アチバイア市内の日本料理店でお昼を食べている。そこで日本人の様なブラジル人の様なマダムといつも目が合っていたそうだ。先日、思い切って話しかけると、自分は日本人と英国人の混血だという。彼女の母が笠戸丸移民のタニさんの娘、ブラジルで初めて生まれた日系二世のローザさんであった。

尋問するのが上手な三木さんに、その女性ドロシーさんは大事に仕舞っていた母の思い出の写真集とブラジルの一流週刊誌の『ヴェジャ』誌、『ヴィゾン』誌、『マンシェッテ』誌に載った日系コロニア特集版を見せて、良かったらゆっくり読んでと渡してくれたという。

45年前にそういった、ブラジルの一流週刊誌にブラジル人向けに紹介されたローザさんの存在は、今になってまた、日本移民の歴史の1ページを飾るのではないか。私達は再度日系の新聞で取り上げたり、サンパウロ日伯文化協会の日本移民史料館に紹介すべきだと思った。

美味しいブラジル食があるのに、三木さんが好んで食べるのは白ご飯に味噌汁とお寿。ドロシ-さんと夫のパウロさんも日本食は大好きだという。日本料理が縁で三木さんはドロシーさんと夫のパウロさんに出会えた。三木さんは近いうちに2人をアチバイア日伯文化体育協会に紹介するという。

 

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