Asami Kojima

公立小学校教員を経て、2011年よりブラジル在住。ニッケイ新聞の記者として、日系社会の出来事や文化、ブラジル社会で活躍する人物などを取材している。その他連載「不妊治療天国ブラジル」「ユタ―混交する神々=移民社会の精神世界」など。

(2014年1月 更新)

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「レジストロ紅茶守りたい」=88歳、島田梅さん立ち上がる=新銘柄「おばあ茶ん」発売=販路開拓に奮闘中

かつて〃紅茶の都〃として栄えた聖州レジストロだが、紅茶産業は輸出に依存していたため、20年ほど前からのレアル高で国際競争力を失い、衰退の一途をたどった。5歳から携わるこの紅茶産業を守ろうと、島田梅エリザベッチさん(本名梅子、88、二世)が立ち上がった。荒れ行く茶畑に心を痛めて一念発起し、自宅の一角に「天谷」に次ぐ第二の製茶工場を設立し、なんと昨年11月に新銘柄「おばあ茶ん」を立ち上げた。「何とかして茶畑を活かしたい」という母の熱意に打たれた子供たちと共に、新たな挑戦が始まった。 * * * * * 大西洋岸林に囲まれたシチオ島田の一角には、見渡す限りの茶畑が広がる。50年前に息子たちと植えた15万株。梅さんは毎朝6時、籠を背負って犬のボブと畑に出かけ、丁寧に選別しながら茶葉を摘む。 「皆、お茶が駄目になるとププーニャやバナナを植えてしまうが、私は茶畑から離れることができない。レジストロのお茶をなくすのは悲しい」。そう紅茶への愛情を吐露する梅さんは、「茶産業が駄目になったのは、売れると質より量になったからだと思う」と語る。だから、品質を誇る商品を出せば、希望があると考える。 機械で摘むと硬い葉や新芽、虫まで混ざってしまうため、手間はかかるが手摘みにこだわり、農薬もほとんど使わない。それを丸ごともんでじっくり乾燥させたのが「おばあ茶ん」。試行錯誤を重ね、昨年11月に完成を…

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太鼓指導員 蓑輪敏泰さんに聞く

7年間で26万キロ=文化としての和太鼓伝え JICAシニアボランティアや、ブラジル太鼓協会の依頼により約7年間ブラジルで和太鼓指導にあたった蓑輪敏泰さん(65、宮崎県)が11月1日に任期を終え帰国する。コロニアの若い世代を盛り立て、ブラジル社会を巻きこみ普及していく和太鼓界を絶えず後押ししてきた。同協会で本紙のインタビューに答え、「皆さんお世話になりました。すばらしい思い出を持って日本に帰ります。また帰ってくることを願っています」と感謝をのべた。 [inline:minowa.jpg] これまで太鼓指導に訪れた場所を尋ねると、「サンパウロ、パラナ、マット・グロッソ、ゴイアス、アマパー、トカンチンス、ロンドニア…」と赴いた州を指折り数え、「移動距離でいえば約26万キロ。地球6周したことになる」と自分で目を丸くした。 初来伯は2007年。百周年の記念事業「千人太鼓」の準備のため、太鼓人口がぐんと増えた頃だった。翌年には日本でプロとして活躍する娘の真弥さんも応援に駆けつけ、指導にあたった。 「当時は老いも若きも一緒になって太鼓を叩いた。今はだんだん若い子に移行してきているし、以前はほとんど見なかった非日系も1割弱はいる。技能的レベルも上がってきた」と太鼓界の変化を語る。 太鼓人口は、同協会の加盟チームで約2千人、08年以降はほぼ横ばいだ。ただし、非加盟チームがま…

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ハイカラさん海を渡る = 移民画家 大竹富江の一世紀 ~ その4/4

その3を読む >> 日系人芸術家との親交=「100歳なんて気がしない」 仕事の上ではブラジル社会が主な舞台だった彼女も、私生活ではもちろん日系画家との親交も楽しんでいた。 70年代ごろに富江さんと親しく付き合っていた彫刻家の豊田豊さん(82、山形、帰化人)は、「当時の富江さんは、もう有名になっていた間部さんや福島さんを追いかけていた感じだった。普通は40歳になってから始めたら趣味で終わる場合が多い。それだけ意志の強い人」と振り返る。 毎週土曜日には芸術家のたまり場になっていたブタンタン区の豊田家を、当時60代だった富江さんも訪れていた。古いアルバムに残る写真には、スーツ姿で明け方まで快活に踊る彼女の姿がある。 [inline:Tomie_group_sm.jpg] そんな活発な私生活は80歳を超えても続いていたようで、97年からアシスタントをつとめる吉沢太さんは、「付き合いの多い人で、夜はあまり家にいなかった。音楽会にいったり、人の展覧会に顔を出したりして、色々なものを吸収していた」と振り返る。 彼女の頑健さは半端ではなく、「80歳を過ぎても、深夜過ぎて『まだ早いじゃない』と言っていた。90くらいまで病気したことがない。俺が風邪引いていても絶対引かなかったし、タバコもポッカポカ吸っていた」とか。がっちり体型で、働き盛りの50歳前の吉沢さんをして、半ば呆れさせるような壮健…

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ハイカラさん海を渡る = 移民画家 大竹富江の一世紀 ~ その3/4

その2を読む >> プロへの道をまっしぐら=とんとん拍子で出世街道へ重厚な作品集を繰りながら、「少しずつ細部を取り除き、骨組みだけを描き始めた。事物のエッセンスだけを描いているのが面白いところ」と作品の魅力を語るリカルドさんの言葉には、母への敬意がにじんでいる。 年を経るごとに絵の細部がこそげ落ちていき、わずか数年で抽象画に移行している。同時に、初期の作品に多い暗い色合いは影を潜め、明るい彩りが取って変わる。例えば彼女の多くの作品に表れる紅だ。まるで心の底に沈んでいた “日本的なもの” を吐き出すかのよう―というのは勝手な印象かもしれないが、心から自由を謳歌する彼女の喜びの表現なのは、確かな気がする。 * * * [inline:Mabe_sm.jpg] 「画家として売れるには、相当の苦労があっただろう」と思いきや、富江さんと話していても、そんな苦労話は一向に出てこない。 古くから彼女と付き合いのある画家・故間部学氏の妻よしのさん(83、新潟)に聞いても「苦労したのは見たことがない。スランプで苦しんでいるところ? そんな様子がにじんでたことはないですね」という具合だ。 間部家がリンス市から聖市に引っ越した67年、大竹富江の名は大分知られていたようで、よしのさんは「富江さんは私と年もうんと違うし、体格もいいし、雲の上の人みたいだった。ブラジル人と…

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ハイカラさん海を渡る = 移民画家 大竹富江の一世紀 ~ その2/4

その1を読む >> 「私は夢を追います」宣言=40歳遅まきのスタート次男のリカルドさんは好奇心の旺盛そうな目に、エネルギッシュな話しぶり。「セニョール」と呼ぶと、「今何ていった?ヴォセでいい」と訂正される。年を重ねても溌剌としている所は、富江さんと同じだ。 [inline:Ricardo_sm.jpg] リカルドさんは「あえて西洋的教育を受けた」と感じているようだが、富江さんに「日本語を教えたい」との思いがないわけではなかった。「家庭教師まで準備をしたけど、戦争が始まって日本語使用が禁止されたから、日本語を習っても、もう使わないだろうと思った」と語っている。 学校選びも「近くて便利で評判がよかったから」という合理的な判断からで、キリスト教信者だったからではない。ちなみに富江さん本人は「神様を信じる人もいるけど、私は無宗教。私は私を信じたらいいと思っています」という “自分教” を標榜している。 でも結果的に二人の息子はブラジル人として育ち、建築家、文化事業者として母に負けず劣らず名を馳せるようになった。 * * * 「人生にとってはファミリアが大切」と潔く妻、母としての道を選び子育てに専念したが、40歳を迎えた1953年、念願の画家として遅まきのスタートを切った。 「絵描きになりたい」との情熱がたぎり続けていた富江さんは、毎月日本か…

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