Saori Kato

神奈川県横浜市出身。母親が奄美の加計呂麻島出身の奄美2世。2009年からJICA横浜海外移住資料館展示ガイドを務め移民史に興味を持つ。2014年3月神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科修士課程修了。2015年から一年間、ブラジル国サンパウロ大学大学院留学。現在は神奈川大学大学院博士後期課程在学中。奄美移民をテーマに研究を行っている。

(2019年1月 更新)

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サンバの国でキバランバ! ~ブラジル奄美移民100年の軌跡~

第6回 2世・3世の訪問団が奄美へ

2018年11月1日鹿児島で「鹿児島県人世界大会」が開催され、鹿児島にゆかりがある海外在住者(20カ国・地域から約280人)が鹿児島を訪れた。この大会に参加するためにブラジルからは27名が訪問団として来日していたが、そのうち18名が奄美にゆかりを持つ人々だった。なぜブラジルからの訪問団は奄美にゆかりをもつ人々の参加が多かったのだろうか。 ブラジル在住の奄美にゆかりを持つ訪問団の来日の目的はもちろん世界大会への参加だったが、実はもっと大きな理由があった。1世は数十年ぶりに親戚や同級生に会うこと、2世や3世は祖父母や両親の故郷である奄美に訪れて祖先の墓参りをすることなども重要な目的であったが、彼らの一番の目的は、奄美大島宇検村村長へ感謝の気持ちを伝えることだった。 同年7月、ブラジルで開催された「ブラジル鹿児島県人会創立105周年記念式典」へ参加するため、奄美で一番多くのブラジル移民を送り出した宇検村は、訪問団(団長・元田信有村長)を結成してブラジルを訪問した。このときブラジル在住の奄美出身者や奄美にゆかりを持つ人々は、村長率いる訪問団と親睦を深め、奄美の話しを直に聞いたことで、それまで漠然としか描いていなかった“故郷、奄美”をグッと身近に感じた。日本で開催されるという鹿児島県人世界大会が参加者を募集しているということは知っていたが、自分たちとは関係のない…

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サンバの国でキバランバ! ~ブラジル奄美移民100年の軌跡~

第5回 魚屋を開業、看板に「AMAMI」― 玉利繁弘さん(奄美大島宇検村出身)

奄美大島宇検村の伯国橋(ぶらじるばし)以外にも、ブラジル奄美移民の歴史を伝えるものがある。1955年、サンパウロ在住の奄美出身者たちによって建てられた奄美会館は、残念ながら2002年、他の日系団体に譲渡されたが、その名称に今も「AMAMI/奄美」の文字が残る。また、サンパウロ市営市場にある魚屋の看板にも「AMANI(奄美)」の文字を見ることができる。魚屋を経営するのは玉利繁弘(76)さん(宇検村出身)と、その息子たちだ。 「(ブラジルへは)15歳の時、叔父に付いてきた。だけど自分でも行きたかったから、自発的に来たようなもの」と話す繁弘さん。中学卒業後、ブラジルへ渡るまで3カ月間、奄美大島名瀬市内の大きな商店で配達や雑用の仕事をした。勤め先の親方に「このまま仕事を続けたら高校へ行かせてやる」と言われ、ちょっと心が揺れたが、既にブラジル行きを決めていたので断った。当時はブラジルの知識も情報も何もなかったが、「ただ、行きたい、行きたい」と思っていた。シマ(郷土)を出る同級生たちは東京や大阪など内地を目指したが、繁弘さんにはブラジルの大地しか見えなかった。 ブラジルへ到着してからは、他の移民たちと同じように、苦労に苦労を重ねた。しかし「とにかく来たいと思っていたから、来てから後悔したことはありません」という。20歳を過ぎた頃、漁業関係の会社に勤めた。ほどなくして独立。自分で魚を仕入れ…

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第4回 記憶と絆つなぐぶらじる橋 ~ 文岡賀津子さん(宇検村出身)

「宇検村に伯国橋(ぶらじるばし)あるでしょ。あれ、うちの父たちがつくったんです。」と話すのは文岡賀津子(74)さん。「前は木の橋で台風で大水が出たら、いっつも流されるから、だからあれ、ちょっと太鼓橋になっているでしょう。いつも流されるから、こんなんにしようって。うちの父たちがつくったんです。(ブラジル在住の)湯湾1(集落出身)の人が寄付を集めて、村で使ってほしいって。ブラジルからもらったお金だから、残さないと。橋をつくろうって。(建ててから)もう六十一、二年になるでしょう。今は(一部が)崩れてね。もったいないね。記念なのにね」 賀津子さんは1957年、家族でブラジルへ移住。「(船で)43日かかったよ。でも、楽しかった。酔いはしなかった」。11月、神戸港から出帆。真冬の太平洋は荒れていた。「もうね、甲板に(海水が)バシャー、バシャーって。ご飯食べる長いテーブルも揺れて、ゴーって向こう行って、ゴーってまた戻ってきて、ものすごい」。一転、大西洋に入ると今度は「洗面器に水張ったみたい」な凪が続いた。月と太陽が美しくいつも甲板から眺めていた。 ブラジルへ到着して10日もすると4歳の弟が「父ちゃんうち帰ろう。帰りたい」と言い出した。弟にとっては遊びに来た気持ちだったのだ。ブラジルの生活は電気もなかった。「シマでも電気はあったのに」 より良い耕地を求めて1年ごとに移動した。4年目にイ…

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第3回 コチア青年、農業に挑戦 ~ 肥後英樹さん(奄美市笠利出身)

ブラジル移民は主に家族単位で行われていたが、単身でブラジルへ渡った人もいた。敗戦後、多くの復員兵や引揚者が帰国した。国内は敗戦による混乱が続いており、彼らを受け入れる力はなかった。失業者があふれ、深刻な食料不足の状態だった。その打開策として再び海外移住に期待が集まっていった。1953年、戦後初めてのブラジル移民がリオデジャネイロに到着すると、次々と海を渡る人が出始めた。失業問題に食料不足、そして農家の二男・三男対策の一助となることを期待されて始まった「コチア青年移民」「産業開発青年隊」は共に独身青年による単身移住という形態をとっていた。肥後英樹さんはそのコチア青年として奄美からブラジルへ渡った一人だ。 奄美市笠利出身の肥後英樹さんは昭和15(1940)年、長男として生まれる。長男だから後を継がせようと父は農林高校に入れた。在学中から外国に憧れを持ち、ブラジル読本などを取り寄せて読んでいた。肥後さんは「奄美の土地を継いだって何もできない」と、海外で自分の思う農業に挑戦したいと思っていた。 高校卒業時、笠利の郵便局長をしていた叔父から「卒業後は局員にしようと思っている」と言われた。とにかく外国に行きたい一心だった肥後さんは「俺は赤い自転車に乗って人のラブレター運びは嫌だ」と叔父に伝えた。叔父は「お前は勉強したんだから、それは(外国に)出たいだろう。行きな、行きな」と背中を押してく…

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第2回 60歳超えて踊りの「先生」 ~ 島田シズエさん(宇検村出身)

2017年11月に刊行された『宇検村誌 自然・通史編』によると、鹿児島県奄美大島の宇検村からのブラジル移民は大正7(1918)年9月に長崎港から讃岐丸でブラジルへ渡航した13家族、54人が初めてのブラジル移民であった。その後、戦前・戦後を通じて81家族、491人がブラジルへと渡っており、奄美において宇検村は最もブラジル移民を輩出した「ブラジル移民村」であった。 宇検村出身の島田シズエさんは大正15(1926)年生まれ。31歳の時にブラジルへと渡った。当時のことを「私なんか一番としの方(高齢)」という通り、奄美から「妻」としてブラジルへ渡った女性の多くは20代前半であった。シズエさんは奄美で高等2年まで通ったのち、東京に住むおばのお産の手伝いをするため上京。当時のことを「親の手伝いもしなかったのに(東京へ)喜んで行った」と話す。 上京後、お産の手伝いが終わるとそのまま東京で仕事を探した。バスガールになりたかったが、おじに「(島の)言葉がダメ」と言われ紡績工場に勤め、言葉を覚えた。2年たち都会暮らしにも慣れたので念願だったバスガールになった。しかし、1年もすると戦争が始まった。空襲がひどく仕事どころではなくなったので、おばとその子どもたちと奄美へ引き揚げた。奄美に戻っても、できる仕事がなかった。父親は既に他界していたこともあり、生活はどんどん困窮していった。 親族から「仕事がな…

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