Laura Honda-Hasegawa
Born in São Paulo, Brazil in 1947. Worked in the field of education until 2009. Since then, she has dedicated herself exclusively to literature, writing essays, short stories and novels, all from a Nikkei point of view.
She grew up listening to Japanese children's stories told by her mother. As a teenager, she read the monthly issue of Shojo Kurabu, a youth magazine for girls imported from Japan. She watched almost all of Ozu's films, developing a great admiration for Japanese culture all her life.
Updated May 2023
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デカセギ・ストーリー
- By Laura Honda-Hasegawa
- 20 Sep 2021
マルコのお父さんは最愛の妻を病気で亡くしたため、一人息子を両親に預け、サンパウロへ出稼ぎに行った。3年たって、ようやく仕事も住まいも安定したので、息子のマルコを呼び寄せた。
マルコは11歳、大好きなパパー1と一緒に暮らすのが夢の夢だった!
毎朝早起きして、お父さんは仕事へ、マルコは学校へと、楽しい日々の繰り返しだった。なかでも、マルコの一番の楽しみは、週末に、お父さんの仕事場を訪ねることだった。
場所は「サンパウロの東洋人街」として知られるリベルダーデ区の中心街にあった軽食堂だった。マルコはそこで働くお父さんを誇らしく見ていた。イタリア系のパパーは、ブラジルのパステル2に豆腐とシメジの具を入れ、それを看板メニューにして店の売り上げを大きく伸ばしたのだ。
中学卒業後、マルコは薬局でバイトをしながら、夜間高校へ進んだ。リベルーデ区にも通い続け、日本のことにますます興味を持つようになった。ショーウィンドーに輝く刀や日本語教室の案内のビラを見ながら、本屋で見る漫画を立ち読みし、サムライ映画をビデオレンタル。「そうだ。日本語が話せたら、さぞかし、面白いだろうなぁ!」と、さっそく日本語教室に通い始めた。
そこで知り合ったのがスミエだった。彼女はマルコより2歳年上で、美容院で働いていた。夢は日本で美容室を持つことだった「ブラジル人が多い町で、みんなをキレイにしてお金をたくさん儲けるの…
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デカセギ・ストーリー
- By Laura Honda-Hasegawa
- 30 Jul 2021
わたしの名前はミツノ、11歳の女の子です。パパは日系ペルー人で、ママは日系ブラジル人です。わたしは日本で生まれて、ママが大好きなおばあちゃんの名前「光乃」を付けてもらいました。
ママは21歳のとき、2歳のお姉ちゃんのモニカをブラジルの光乃おばあちゃんに預けて、お姉ちゃんのパパのリカルドさんと日本へ来ました。でも、リカルドさんは日本の生活に慣れずに、半年も経たないうちにブラジルへ戻ってしまいました。
ママはパン屋さんで1年ほど働いてからブラジルへ戻って、リカルドさんと話し合ったようですが、結局、ふたりは離婚してしまいました。
それから、ママは、モニカがお世話になっていた光乃おばあちゃんの家で一緒に暮らし始めました。でも、ブラジルでは仕事がなかなか見つからず、また日本へ来ることにしました。今度は4歳のモニカを連れて、頑張るしかなかったのです。
ママはエライ!モニカを保育園に8時から17時まで預けて、昼間は以前働いていたパン屋さんで働き、夜は家でブラジル料理のマルミッタ1を作って、ブラジル人が多い寮に配達していました。とても忙しかったと思います。
モニカが中学生になると、ママは新しい仕事を始めました。日本料理のレストランでした。外国人、主にブラジル人やペルー人のお客さんが増えてきたので、オーナーはその人たちのふるさとの味を出したいと考え、ママを誘ったのです。
ママは、光乃お…
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デカセギ・ストーリー
- By Laura Honda-Hasegawa
- 1 Apr 2021
1998年、僕は5歳のとき、両親に連れられて日本へ行きました。それまで父は薬局に勤め、母はスーパーで働いていました。しかし、生活がぎりぎりだったので、もっと安定した暮らしを送るために日本へ出稼ぎに行くことを決めました。
最初、ふたりは同じ工場で働いていましたが、日系人で日本語が話せた父は、本社へ移動させられました。まもなくして、母は工場を辞め、ブラジル製品を扱う店で働くようになりました。
僕は、保育園から中学校を卒業するまで日本に居ました。振り返って見ると、人生で一番楽しい時期でした。先生方とクラスメートのお陰で、僕は日本語を話せるようになり、家でも日本語を使っていました。スペイン系の母に日本語を教えたのは父ではなく、僕でした!弟は僕と違って、日本で生まれたのに、日本語が話せません。
弟が日本の学校に馴染めなかったこと、そして、リーマンショックの影響もあり、両親はブラジルで暮らすのがベストだと考え、2008年に私たちはブラジルに戻りました。
母の実家があるサンパウロ州カンピーナスで新しい生活が始まりました。商売に向いていた祖父の血を引いた父は「スーパーシマダ」という大きな店を構えました。未だに「スーパーシマダ」の「スーパー」は「スーパーマーケット」からか「スーパーマンの島田」から由来するのか分かりません。
商売は、徐々に規模が大きくなり、5年後には、店内に日本食の食堂が…
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デカセギ・ストーリー
- By Laura Honda-Hasegawa
- 22 Feb 2021
マサトシとロザナは幼なじみだった。学校の宿題をする時も遊ぶ時もいつも一緒だった。しかし、中学校を終えると、ロザナは伯母さんの美容室で働くためにサンパウロへ行ってしまった。それっきり2人の連絡は途絶えてしまったた。
それから7年経ち、マサトシは大学に進学した。しかし、学費が払えなくなったため、日本へ働きに出た。ある日、ブラジル料理店でフェイジョアーダ1と山盛りのファロファ2を食べていたときだった。
「ひょっとして、マッサ!久しぶり!」と、女性が近寄って来た。
金髪ヘアーがカーテンのように顔にかかっていたので、誰だかよく分からなかったが、自分を「マッサ」と呼ぶ人は世界で1人しかいなかった。
「ザァナ?もしかして、ザァナ?!」
ロザナを「ザァナ」と呼ぶのは、マサトシしかいなかった。
マサトシが立ち上がって話をしようとすると、2席後ろに座っていた黒い帽子をかぶった男性が「おい、行くぞ」と、ロザナを呼んだ。
ロザナはマサトシの電話番号を聞き、ペンで手のひらに書き写すと、急いでレストランを出て行った。
「まさか、ザァナと日本で再会できるなんて!しかもレストランで会えるなんて思ってもみなかった」と、マサトシは驚いた。実はマサトシは日本へ来る直前、用事があってサンパウロを訪れた際、ロザナの伯母さんの住所を訪ねてみた。しかし、そこにはすでに違う人が住んでいた。ロザナたちは大分前に引…
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デカセギ・ストーリー
- By Laura Honda-Hasegawa
- 18 Dec 2020
両親が出会ったのは24年前。9歳のときから家族と日本で暮らしていた母は、親戚の結婚式に出席するためにブラジルに戻ってきていました。父は、新郎の親友で、めったに着ないスーツ姿で式に参加していました。
ふたりとも一目ぼれだったかどうかは、はっきりとは分かりません。「パッと見たときの印象がとても良かったのよ」と、母が照れて言うと、父は「着ていたキラキラのスーツのせいかもな」と。
当時、母は20歳。横浜のデパートの化粧品売り場で働いていて、いろいろ習い事をしていました。26歳の父は、両親と祖母と弟と2人の妹とサンパウロで暮らしていて、大きな自動車修理店を経営していました。
出会ってから半年後、二人はブラジルで結婚しました。両親の当初の計画は2年以内に日本で暮らすことでした。母は、すぐにでも家族が居る日本へ帰りたいと思っていましたが、父の仕事が順調で、まだ学生だった妹たちの学費や病気だった祖母の医療費を父が払っていたこともあり、ブラジルで二人の生活は始まりました。1年後、長男と長女の双子が生まれ、3年後には僕が生まれました。そのため、両親は子供たちが小学校を卒業するまではブラジルに居ることにして、子供たちが7歳になると日本語学校に通わせました。「いずれは日本で暮らすことになるので、日本語をしっかり勉強しなさい」と、母は僕たちを応援してくれていました。
ところが、僕が8歳になった時、…
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