Keiko Fukuda

Keiko Fukuda was born in Oita, Japan. After graduating from International Christian University, she worked for a publishing company. Fukuda moved to the United States in 1992 where she became the chief editor of a Japanese community magazine. In 2003, Fukuda started working as a freelance writer. She currently writes articles for both Japanese and U.S. magazines with a focus on interviews. Fukuda is the co-author of Nihon ni umarete (“Born in Japan”) published by Hankyu Communications. Website: https://angeleno.net 

Updated July 2020

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新二世のアイデンティティー: 補習校か、日本語学校か?

私の子供たちはアメリカ生まれの二世である。私と私の夫は日本生まれの日本人。そんな日本語を第一言語とする我が家の長男が最初に通った学校は、ロサンゼルス郊外のトーランスにある日系の幼稚園だった。この幼稚園では英語は一切使わず、徹底した日本式の幼児教育を行っている。1年後、3歳になった息子は英語のプレスクールにデビューした。当時、英語はゼロの状態だったが、何とかプレキンダーガーテン、キンダーガーテンと進級し、地元レドンドビーチ市の公立小学校の1年生になった。今から5年前のことである。 さて、この段階で、日本語教育に関する選択肢が生まれた。ロサンゼルス近郊には、日本人と日系人の人口に比例するように、数多くの日本語教育機関がある。駐在員の子弟が日本に帰国した時に困らないように全教科を日本語で学ぶのが、日本語補習校。ただし、現在は生徒の半数以上が永住家庭の子女である。日本語だけを学ぶことを目的に授業を行っているのが日本語学校。両親共、もしくは片方が日本語を話さない日系人や国際結婚の家庭の子供が多い。最近は「日本語を身に付けておけば将来の選択肢が広がる」からと、日系以外の子供も通っているようだ。 さらに、補習校の上を行くのが全日制日本人学校。ここは補習校の生徒が平日は現地校に通うのに対して、現地校には一切通わない日本人の子供が、月曜から金曜まで日本語で日本の教科を学ぶ学校である。アメリカ国…

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母国アメリカと戦った日系人たち その3: 兄弟で敵味方に分かれて戦う-阿久根三郎さん-

その2 (大森馨一さん)>>阿久根三郎さんは1926年カリフォルニア州中部の生まれ。7歳の時に、兄弟と共に親の故郷、鹿児島へ渡る。母親が亡くなったので、鹿児島の祖母の 元で暮らすらめだった。9人兄弟の上から6番目。名前の三郎は3番目の男の子だったからだ。父親は子供たちを故郷に連れて帰ると、すぐに仕事をしにアメリ カに戻っていった。兄弟だけで残された日本では、日本語がわからないだけでなく、年より下の学年に入れられたことも原因となり苛められた。抵抗するため に、三郎少年は剣道を習い始める。自分と兄弟たちを守る手段だった。 戦争が始まる前、上の兄2人はアメリカに戻った。そしてアメリカ軍へと入隊した。三郎少年と弟は日本軍に志願した。自ら入隊の意志を表明したのであ る。「当時はアメリカからの仕送りもなくなったので、家族が生活していくのが大変な時代だった。兵隊に入れば家族のヘルプになるのでは、という気持ちから だった」ところが、アメリカ国籍のせいで最初は失格となる。その後、海軍の飛行兵としての試験を受けた時は、日本生まれと書いて合格した。彼の中には、幼 い頃から暮らした日本への忠誠心が芽生えていた。「軍でも、剣道や銃剣術を習っていたこともあり、上の方から随分可愛がってもらった」と阿久根さんは振り 返る。 [inline:Nikkei Solders 3-1_sm.jpg] 終戦を迎え、…

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母国アメリカと戦った日系人たち その2: 国籍を問わずに徴兵、中野学校への命令 -大森馨一さん-

その1 (小野正己さん) >>小野さんに続いて話を聞いたのは、1917年カリフォルニア州ベンチュラ生まれの大森馨一(けいいち)さん。当時の二世の例に漏れず、大森さんも日本で教育を受けるために、10歳で両親の故郷である熊本へ。小学校を卒業して中学から大阪外語へ進学した。蒙古(モンゴル)語を専攻し、昭和15年 (1940年)に卒業し、政府機関に就職。赴任先のモンゴルへ向かった。そこで徴兵され、一旦日本へ帰国、久留米の第一戦車隊に入隊した。将校になるため の幹部候補生だった。 部隊ごと満州へ赴いた後、さらに戦線が厳しくなっていた南方に、輸送部隊の転属となり移動した。「連絡将校として大きな船に乗せられて、沖縄まで部隊を2回輸送した後、フィリピンのマニラに向かった。マニラ湾では爆撃を受けたが、船はゆっくりと沈んでいったので逃げる余裕があった。ラッキーだった。 船がやられたおかげでレイテ島にも行かずに済んだ。行っていたら全滅していたはず。船を沈ませてくれたアメリカの兵隊に感謝している」 [inline:Nikkei Solder 2-1_sm.jpg] 終戦は台湾で迎えた。昭和21年(1946年)に鹿児島港に着いたが、仕事探しでつまずいた。「将校だったから戦争に負けた日本では公職追放で仕事 に就けない。できることは闇商売くらい。それでアメリカに行きたいと思うようになった。日本政府から一…

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母国アメリカと戦った日系人たち その1: 神風特攻隊と米軍兵士を経験—小野正己さん—

第二次大戦時、ヨーロッパで戦績を残した日系人部隊のことはよく知られている。日系人のみで編成された第442連隊は、ヨーロッパ戦線に投入され、 アメリカ合衆国の歴史上、最も多くの勲章を受けている。しかし、日本で教育を受けていた時に徴兵され、母国であるアメリカと戦うことになった日系人もまた数多くいた。名古屋市立大学院で日系米人の日本軍従軍について研究している門池啓史氏の調査によると、その数、実に千人とも二千人とも言われている。 今から3年前、筆者はロサンゼルス近郊に暮らす3人の元日本軍兵士の日系アメリカ人の話を聞くことができた。神風特攻隊の生き残りで朝鮮戦争では米軍に従軍した経験を持つ小野さん、満州とフィリピンの部隊に所属し終戦は台湾で迎えた大森さん、そして米軍兵士の兄と分かれ日本への忠誠を誓っていた阿久根さんである。 小野さんは1928年、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のホーソンに生まれた。最初にアメリカに来たのは小野さんの祖父、岡山の出身だった。小野さんの父親は最初、八百屋を経営した後、ウエストロサンゼルスで中華料理店を始めた。 当時は、日系人の子供の教育は日本で受けさせるという風潮があった。それで、小野さんと姉は1940年から岡山での生活を始めた。転入した日本の学校では、「お前はアメリカ人か、日本人か」と苛められたそうだ。 岡山県立第一商業学校の2年生の時に徴兵された。…

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メンソーレ!沖縄 in U.S.A.

第7回 長寿を支える「ヌチグスイ」アメリカへの普及はかる

沖縄県観光商工部北米委託事務所 当銘由洋 (とうめ・よしひろ) さん / 沖縄生まれ新一世沖縄には「ヌチグスイ」という言葉がある。沖縄の食材を、県からの委託で北米にプロモートしている当銘由洋さんは、「この言葉は、食べるものは健康にいいという沖縄の発想で、中国の『薬食同源』につながります。古くから沖縄の料理は養生食とも言われています」と解説。 当銘さんに、沖縄の人々の長寿を支える代表的な食材を紹介してもらった。 [inline:food-2cap.jpg] 「まず、ゴーヤ。体温を下げる働きがあるため、沖縄の人は夏にこの野菜を食べます。ビタミンC、カリウム、鉄分が豊富で、血糖値降下作用があり、夏 バテ防止にいいといわれる健康的な食材の代表格です。私もそうですが、沖縄出身者はこちらでもよく庭で栽培しています。日系、中国系のマーケット、朝市な どでも売っていますのでなじみがある人も多いでしょう」 ゴーヤ料理で一般的なのは、卵や豆腐、スパム、豚肉などと炒めるチャンプルーだ。 「続いて、もずく。ヌルヌルの成分に抗癌作用があるという研究結果も出ています。豊富なミネラル成分が特徴。最近は天麩羅やサラダにも使われます が、本来は三杯酢で食べることが多いですね。もずくは沖縄の特産品ですが、同じ海草でも、沖縄料理でよく使われる昆布は北海道産です。だしをとるのではな く、煮付けやソバに入れるな…

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