第7回世界のウチナーンチュ大会期間中の11月3日、那覇市平和通り商店街・元雑貨部で開催されていた「なはーとがマチグヮーにやってくる 世界のウチナーンチュとマチグワー展」会場で、ブラジル移民展示を熱心に見ていた日本人老夫婦に声をかけたら、元ブラジル移民だった。
「あんたはブラジルから来た邦字紙記者か。僕は昔『ジョルナル・ド・ブラジル』のカメラマンだったんだよ。アチバイアの中沢宏一さんはアミーゴだ」と懐かしそうに笑顔を浮かべるのは樋口馨さん(かおる、89歳、フィリピン生まれ)だ。
現在は米国カリフォルニア州ロサンゼルス市在住。入居する老人ホームが改修工事をする2週間、日本へ観光旅行することになり、ついでに世界のウチナーンチュ大会を見に来たそうだ。
「戦後第1回移民船で渡伯した」というので1953年だ。父が8男で戦前にフィリピンに移住。マニラで樋口さんは生まれた。戦中に父は戦死。敗戦時は他の日本人と共に山の中に逃げたが、米兵に収容されて帰国した。
8年間、両親の郷里の福島県で過ごした。「狭っ苦しくてね。何か目立つことをやったらすぐ騒ぎになる。周りがうるさいんだ」と振り返る。「僕は当時県庁で仕事をしていた。だがブラジル移民が再開すると聞いて、母が僕ら6人兄弟を連れて移住を決め、まっさきに第1回移民船に乗った」
リオで降りて18年間を過ごした。最初の3年間は地方部ジャプイーバで農業契約移民として過ごし、リオ市街に出た。「大富豪の家でお手伝いさんとして雇われた。そこでパーティをやるっていうので、持っていたヤシカで撮ってプレゼントしたらえらい気に入られた。戦争中、兄が報道カメラマンの手伝いをして家のトイレで現像とかしていた。それを見ていたから、見よう見まねでやった」と笑う。
「パトロン(雇用主)が、友人の『ジアリオ・デ・ノチシア』紙社長にその写真を見せたら、『俺の所でカメラマンとして働かないか』という話になった。運が良かったんだな」。今度は「そこで働いていたら『ジョルナル・ド・ブラジル』に引き抜かれた。そこで54年にリオで大規模ビル火災が起き、その写真が社長に気に入られ、かわいがられた」。まさに移民成功譚そのままだ。
三木淳がブラジルにニコンを紹介
1958年、日本を代表する報道写真家、三木淳(じゅん)がブラジル日本移民50周年を契機に来伯した。終戦直後に日本人で唯一『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の正規写真家として活動した人物。日本製のニコンのレンズとカメラを世界に紹介して回っていた彼は、リオでも新聞社社長らにそれ売り込んだ。
樋口さんは「ブラジルにニコンを持ちこんだのは三木さん。『ジョルナル・ド・ブラジル』の社長はニコンを気に入り、僕に向かって『おまえは日本人なんだから出来るだろう。修理を覚えてこい』と言った。それでわざわざ日本に行ってニコンの修理方法を習って帰ってきた」との驚きのエピソードを披露した。
だが1971年、叔父が住んでいたロス転住を決意する。妻正子さん(82歳、福島県出身)は「子ども3人が大きくなった時のことを考えると、親戚が揃っているロスの方が安心だと思ったんです」と説明する。
正子さんは、樋口さんの姉がブラジル移住した1958年、たまたま同船者だった。その縁で知りあって結婚することに。
当時、樋口さんは英会話力ゼロだった。だが「人とコミュニケーションをとるときは、正しい言葉で伝えようとするより、気持ちを伝えようとすることが大事ということをブラジルで学んでいた。だからアメリカでもなんとかなるだろうとね」と当時の心境を思い出す。
元同僚は有名なエヴァンドロ・テイシェイラ
ロスでもカメラ修理の仕事を続け、子どもを育て上げた。すでにロス在住51年。その間、ジョルナル・ド・ブラジル時代の同僚カメラマン、エヴァンドロ・テイシェイラなどに会うために4回ほど来伯した。エヴァンドロは現在、モレイラ・サーレス研究所に所属する有名カメラマンだ。
「南米はアメリカより情熱的。アメリカは個人主義的で、親の気持ちを子どもに伝えることすら難しい。そんなアメリカから来た県系人に、前夜祭パレードで沖縄の人は『お帰りなさい』と家族のように呼びかけていた。すごいことだと思う」としみじみ語った。
正子さんは「今回日本に来るために、日本国籍を捨てさせられました。なんて理不尽なことだと思いませんか?」と悲しそうに訴える。聞けば、米国市民権を持っているので二重国籍状態だった。
日本国総領事館では「二重国籍は認めないので、どちらか選んでください」の一点張り。親戚子どもがいるアメリカで生活することを優先してアメリカ国籍を選び、日本に行くために泣く泣く日本国籍から離脱したという。「日本のお役所って融通が利かないですよね」とつぶやいた。
最後に樋口さんは、「子どもはアメリカ育ちだが、カリオカ(リオっ子)だよ」と笑った。