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The Nikkei of Latin America and Latino Nikkei

ハワイの「GANNENMONO」と「日系レガシー」

2018年6月、日本人の海外移住史にとって大きな行事がハワイのホノルルで開催された。それは、ハワイ日本人移民150周年を祝う「Gannenmono」式典であり、日本から秋篠宮同妃殿下がご臨席され、政府からは元自衛隊幹部の佐藤正久外務副大臣、JICAの北岡伸一理事長等が出席された。ハワイの代表者として、イゲ州知事、アリヨシ元州知事、アメミヤホノルル市長代理、アイリン・ヒラノ・イノウエ日米カウンシル会長(故ダン・イノウエ上院議員の妻)、マツダ元ハワイ大学総長などが参加された。私も初めてハワイを訪問し、この式典と同時に開催された海外日系人大会に参加した。

イゲ州知事、ペルー及びアルゼンチンの代表団と。

日本人労働者がハワイのサトウキビ畑で働くために初めて海外に行ったのは今から150年前の1868年。幕末から日本とハワイは交流があり、1860年には幕府使節団の「咸臨丸(かんりんまる)」号がハワイに寄港している。その船には勝海舟やジョン万次郎、福沢諭吉らも乗っていた。

当時ハワイ王国は深刻な人手不足に悩まされており、日本人移民の受入れを歓迎していた。さらに、アメリカの強引な外交圧力に対抗するため日本との関係強化を望んでいたという。そんな中、日本人労働者をハワイへ送る交渉が徳川幕府との間に行われたが、労働者が送られる前に明治政府が樹立。新政府は混乱の中なかなか出国許可を出さなかったため、1868年6月20日 に153名で構成される第一陣が正規の旅券なしにホノルルに到着した。彼らは海外へ渡った初めての日本人労働者であったため、明治元年(1868年)にちなんで「元年者 - GANNENMONO」と呼ばれている。当初は気候や風土が合わずに病気で亡くなった日本人も多かった。

その後、政府の主導で移住事業が行われ、数千、数万人単位でハワイとアメリカ本土へ移住した。真珠湾攻撃前の1940年には、ハワイの人口の約40%を日系人が占め、存在感あるコミュニティーを形成していた。本土でも日本人移民の数は増え、20世紀初頭にはカリフォルニア州を中心に人種差別と経済的理由や職を奪われているという危機感によって排日運動が高まり、1908年には紳士協定により日本人移住制限され、1924年にはついにアメリカへの移民が禁止された。そのため、日本政府は徐々に南米移住を展開するようになる。

第2次世界大戦中、アメリカ政府はハワイを含めたアメリカ在住の日本人または日系人を敵国の住民(敵性外国人)とみなし、本土では12万人以上が強制収容された。ハワイでも、諸団体の幹部や有力者多数が拘束・収容されたが、日系人の人口が多かったためすべての日系人にそのような措置を施すことは困難と判断され、強制収容所へ送られることはなかった。しかし、FBIや治安当局は日系人に対する監視体制を強化した。中には、公的な職を解かれたり、階級の降格の対象になったものもいた。収容されることがなかったとはいえ、彼らの生活は一変し苦難の時期を迎えた。

戦争が勃発すると、ハワイ州予備役将校訓練部候補生とホノルル高校の志願兵によってハワイ州兵隊が新編成され、アメリカ陸軍の指揮下に入るが、その後日系人は隔離され、第100歩兵部隊が編成される。1943年になると、日系人部隊である第442連隊戦闘部隊を編成されることになり、収容所内で忠誠登録が行われ、二世による志願兵の募集が行われ、第100大隊も第442連隊に組み込まれることになった。日系部隊はヨーロッパ前線で最も厳しい作戦に駆り出され、大きな犠牲を払いながらも、勇敢に戦った。アメリカの史上、最も多くの勲章が授与された陸軍部隊として知られている。
 
ハワイの式典と大会は、ともに「レガシー Legacy」に注目した。我々が継承してきたもの、継承していくもの、そしてこれから継承できるものは何であろう。私は、ハワイでは日系人のレガシーがどのように受け継がれているのか興味を持ち、公式行事が始まる前に、日系人部隊がどのように扱われ、どのような評価を得ているのか確認するため、市内にある陸軍博物館(Army Museum of Hawaii)を訪れた。館内には「Go for Broke 100th/442nd」という展示セクションがあり、「Legacy of the Nisei Soldiers(二世の兵士たちが遺したもの)」として欧州前線の戦いについての詳細な説明や勲章の数などが明記されていた。また、戦後アメリカ陸軍で活躍した日系人将校エリック・ケン・シンセキ(Eric Ken SHINSEKI) 氏についても誇らしく紹介していた。日系人に対する高い評価が反映された展示であった。

ハワイ陸軍博物館には日系部隊のコーナーもあり、戦後活躍して閣僚にもなったシンセキ陸軍大将の軍歴も掲載されている。  

現在ハワイの総人口130万人、うち日系人は20万人(16%)といわれており、各分野で活躍している日系人も多い。日系人として二人目となる現在の州知事デイビッド・イゲ(David IGE)氏 をはじめとし、副知事や閣僚の一部、そして州議会や司法の上級ポストにも多数の日系人が存在する。戦後の間もない1959年に初の日系連邦下院議員として当選し1963年から亡くなる2012年までのほぼ半世紀にわたり連邦上院議員を務めたダニエル・イノウエ(Daniel Ken INOUYE)氏を選出したところでもある。

ビジネスでも多くの成功者がいるようだ。滞在中ほぼ毎日のように覗いていた「ABCマート」はオーナーが日系人だというし、その他、不動産関係や旅行会社、観光セクターにいる多数の有力財界人は日系人だと耳にした。

日系レガシーのパネル。やはりここにも442部隊の写真は欠かせないようである。

今回の式典や各行事が行われたシェラトンホテルの会場ホール前のスペースには「ハワイ・ニッケイレガシー」というパネルが展示されていた。そこには様々な苦難を乗り越えて今のコミュニティを築いた一世・二世への感謝の気持ちが、「おかげさま」という言葉で記されていた。良いことも悪いこともみなひっくるめて今の日系コミュニティの成功と地位、社会からの尊敬があるという意味で、「おかげさま」という言葉を使ったのだろうと私は受け止めた。中南米の日系社会でも多くの苦難があったが、アメリカの日系人ほど犠牲を払った例はないと改めて感じた。

4日間の短い期間であったが、とても有意義な滞在だった。式典の一環として、元年者の子孫だったと思うが初めて日系7世や8世を目にした。やはり150年経つと8世がいても不思議ではない。彼らが、この記念式典をきっかけに、改めて自分のルーツを認識することができたと話していたことが印象に残っている。7世・8世ともなると、日系としての意識はあまり強くないのだろうが、日本人的な勤勉さや規律、礼儀正しさは、とても大事にしていきたいと話されていた。戦前、ハワイの日系コミュニティはマジョリティーを占めていたが、戦争によって大きな制限と犠牲を強いられ、戦後はマイノリティーになりながらも努力を重ねて今の地位とプライドを取り戻した。とても勉強になったハワイ訪問であり、中南米の日系人にももっと共有したい歴史だと思った。

 

© 2020 Alberto J. Matsumoto

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About this series

Lic. Alberto Matsumoto examines the many different aspects of the Nikkei in Japan, from migration politics regarding the labor market for immigrants to acculturation with Japanese language and customs by way of primary and higher education.  He analyzes the internal experiences of Latino Nikkei in their country of origin, including their identity and personal, cultural, and social coexistence in the changing context of globalization.