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The Nikkei of Latin America and Latino Nikkei

メキシコ榎本殖民団に「海外移住の夢」を託した榎本武揚という人物 ― その2

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殖民団をメキシコのチアパス州へ

榎本武揚は、外務省を去った後も、海外殖民への夢を追い続けた。1893年に殖民協会を設立し、海外殖民を送る事業を立ち上げた。

1888年にすでに日本と修好通商条約を提携し、1891年には中南米初の領事館が開設されていたメキシコに目を付けた。当時メキシコを統治していたのはポリフィリオ・ディアス政権で、1876年クーデーターによって誕生し35年間に及ぶ長期政権を樹立した。国内開発のため、外国資本を積極的に導入し、産業の近代化を図るとともに、移民を誘致していた。日本政府が調査にあたらせたところ、農業で大きな利益が得られるだろうという報告結果がすでにでていた。

そのため、同協会は、幹事の根本正(ねもと・しょう)1を1894年7月から95年3月の間にメキシコやブラジル、インド等に商工視察も兼ね派遣した。ほぼ同時期に、アメリカ留学帰りの橋口文蔵(はしぐち・ぶんぞう)2をメキシコ南部チアパス州に派遣し、調査を依頼した。橋口氏は、エスクイントラ(Escuintla)が入植に最適で、コーヒー栽培が出来る土地だと報告した。根本も同様の報告をしていた。

榎本はこの報告を受け、資金調達のために1896年末に日墨拓殖株式会社を設立した。当初予定していた額の半分の10万円ぐらいしか集まらなかったが、1897年3月24日、36名の殖民団を横浜から送り出した。一行は、5月19日にエスクイントラに到着したが、マラリアが蔓延し、雨季のためにジャングルの伐採もできなかった。収入源として期待されていたコーヒー苗は現地の環境に合わず、また入植地自体がコーヒー栽培には適していなかったためにうまく育たず、殖民団は苦悩を強いられた。その結果、僅か数ヶ月で逃亡者が発生、その後も資金不足が解消することはなかった。

榎本は、1900年、事業を殖民協会会員で代議士の藤野辰次郎に譲渡し、事実上、メキシコ殖民から手を引いた。藤野は榎本の事業を継続したが、1901年、根本や橋口による事前の調査にも関わらず、殖民地は崩壊した。後に日墨協働会社の代表となった照井亮二郎は、榎本殖民団の失敗の原因を「真面目に殖民事業を経営しようとは思わず、ただ移民を送って当時最も有利と言われたコーヒー栽培で利益を貪るつもりであったからである。だから土地の購入にも殖民には不適当な山地を買ったし、株主の賛同もコーヒーの利益ということをもって得たのがそもそもの榎本子爵の失敗である」と述べている3

漫画メキシコ榎本殖民史「サムライたちのメキシコ」、チアパス州に建立されている榎本殖民団の記念碑。


日墨協働会社とメキシコ革命

榎本殖民地が解散した後、残った6人の移民が中心となって、隣町のアカコヤグア(Acacoyagua)に1901年、私有財産を認めない社会主義的な三奥(さんおう)組合を設立した。その後、この組合は日墨協働会社となり事業を拡大、1912年までには日本人の海外事業としては最大規模を誇るまでに成長した。また、同社は、子弟の教育にも力を入れており、アメリカ大陸で初の日本人学校を設立した。1902年には、無教会キリスト教(Nonchurch Christianity)の布施常松(ふせ・つねまつ)夫妻がやってきて、二世やメキシコ人の教育にあたった。さらには、西日辞典の編さん、さらには水道をひいたり橋を架けたりするなど、地元への多大な貢献を果たした。

しかし、そんな日墨協働会社も1920年に解散した。社内での意見の不一致や事業を拡大しすぎたことが原因といわれているが、メキシコ革命の混乱によって多大な経済的被害を被ったのも事実である。

当時メキシコには、近代化を目指すポリフィリオ・ディアス大統領による独裁政権が樹立していた。政権末期には鉄道の98%、石油や鉱山資源の97%、国土の25%が外国資本に支配されており、肥沃な農地はアメリカの企業がかなり所有していた。産業の近代化は進んでいたが、労働者の労働条件は悪化し、農産品の輸出は増加したが、小規模農家の生活はとても苦しかったという(農民の97%が土地を持たない小作人だった)。必需品の生産量は少なく、ほとんどが輸入に頼らなくてはならなかった。また、軍を支持基盤にしていたため、政党活動も制限され、カトリック教会ですら監視の対象にあった。そのため、メキシコ革命といわれるディアス独裁政権の打倒をめざす反乱が全国各地に広がり、最終的1911年にディアス大統領は国外追放された。その後もメキシコの国内における民主化や農地改革、経済改革などを目指す内戦は長期化し、1917年の新憲法が制定されるまで続いた。 

後のオブレゴン大統領は、革命によって大きな損害を受けた外国人らに対して損害賠償を約束するが、チアパス州の日本人は、その権利を放棄することを通知する。結果、大統領をはじめとする多くの閣僚や州政府の要人は日本人を改めて評価し、更なる尊敬を得た。また戦時中、チアパス州在住の日本人73世帯は首都等への強制転住が免除されたのである。

チアパスの日本人移住者は、こうした時代の中で奮闘し、メキシコ社会で自らの地位を確立し、信頼を勝ち取った。今でも榎本殖民の名がメキシコで残っているのは、彼らの貢献があったからである。

榎本武揚の人柄 

東京都杉並区の梅若公園にある「榎本武揚銅像」(著者撮影)

榎本は長年、日本の人口事情や資源不足を補うには海外殖民は必要だと考え、メキシコだけではなくアジアやオセアニアを殖民先として重要視していた。チャパス殖民団は失敗に終わったが、その想いや国の政治的・経済的戦略に沿って、特にアジア諸国ではその後大掛かりな殖民事業が展開される。帝国主義に組み込まれた海外移住も促進されるが、応募したほとんどの日本人は単なるもっと広い土地や豊かさを求めたにすぎないのかも知れない。

榎本と親交があった方々は、同氏は義理がたく、涙もろく、気楽にお金を貸したり、すぐに人を信用してしまうタイプだったという。晩年は、向島の屋敷に住み、お気に入りの向島百花園をよく散歩していたという。酒豪で日本酒を「米の水」と言っていたようだ。

赦免後、元幕臣でありながら新政府に仕えたため、旧幕臣からはかなり批判的な目で見られたが、終生心がけていたのは元幕臣やその家族などの救済だったという。北海道開拓も海外殖民も、旧幕臣の生活改善や新たなフロンティア提供のためだったのかもしれない。

日露戦争が日本の勝利で終わった1905年、榎本は海軍中将を退役し、1908年10月26日に73歳で死去した。海軍葬が営まれ、東京都文京区にある吉祥寺に埋葬された。榎本の長男武憲は黒田清隆の長女梅子と結婚し、父の子爵を継承して貴族院議員になる。子孫には、曾孫に当たる東京農業大学客員教授の榎本隆充(たかみつ、1935年生まれ)が今も健在で、(現在、客員教授であるかは定かではない)、榎本教授には長女不二子と長男隆一郎(りゅういちろう)がいる。

注釈:

1.根本正は元水戸藩士。1889年にアメリカのバーモント大学を卒業、後に衆議院議員になった。

2. 橋口は、1872年に慶應義塾で入り、その後開拓使として勤務、1879年には官費留学生としてマサチューセッツ農科大学に留学した。帰国後は農商務省に勤務した。北海道庁の理事官や札幌農学校の校長も歴任し、メキシコ視察後は台湾総督府殖産局に入局、1896年には台北県知事に就任した。

3. 「メキシコ榎本殖民団=照井亮次郎の生涯=殖民地崩壊の実際とは=JICA前支所長が著作発表」(ニッケイ新聞、2003年12月2日)

 

© 2019 Alberto J. Matsumoto

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About this series

Lic. Alberto Matsumoto examines the many different aspects of the Nikkei in Japan, from migration politics regarding the labor market for immigrants to acculturation with Japanese language and customs by way of primary and higher education.  He analyzes the internal experiences of Latino Nikkei in their country of origin, including their identity and personal, cultural, and social coexistence in the changing context of globalization.