Select a primary language to get the most out of our Journal pages:
English 日本語 Español Português

We have made a lot of improvements to our Journal section pages. Please send your feedback to editor@DiscoverNikkei.org!

アメリカで最も成功した日系スーパー日本食材を広めたシアトル・宇和島屋ファミリー その2

その1>>

顧客は日系、アジア系、非アジア系というバランス

一方、品揃えについては、日系人・日本人を対象にスタートしながら徐々に日本食の広まりをとらえて変化させていった柔軟さが業績を伸ばした。

宇和島屋の顧客は、その3分の1が日本人あるいは日系人、3分の1が日系以外のアジア系、残りの3分の1が白人ほか非アジア系と見ている。このバランスが功を奏しているようだ。

「これからはべルビューにあるような店を展開していきたい。ハイクオリティーのものを売っていくようにしたい」と、新店舗展開に積極的なCEOが言うように、他店と差別化を図る戦略を今後は進めるようだ。

現在の宇和島屋のそばにモリグチ会長は、コンドミニアム(マンション)を所有しているが、そのビルには大きく「富士貞」と漢字で書かれている。また、ベルビュー店の入り口近くには、昔の宇和島屋時代の富士松と貞子の写真が大きく引き伸ばされ飾られている。ともに、両親に敬意を表してのことだ。

さつま揚げを売る個人商店から始まり、戦争を乗り切る

創業者の森口富士松は愛媛県西部の八幡浜町(現在の八幡浜市)の生まれで、1923(大正12)年に渡米。28年にワシントン州のタコマ(Tacoma)で日本の食料品を扱う小さな商店を始めた。シアトルからは南に50キロほど離れた港町だ。

ベルビュー店内に飾られたポスター(森口夫妻と当時の店舗の様子)

さつま揚げや豆腐など自家製の食品などを、日本から移民してきた日本人、日系人のために売る店だった。

店の名前は、富士松が日本にいた頃同じ愛媛県の宇和島近くで働いていたことにちなんで「宇和島屋」と漢字で記した。

「トーフを冷たい水のなかからくみ上げていたのを覚えている」と、ケンゾウは幼い頃の父親の働く姿を語る。

富士松の妻貞子は、シアトルで食料品などを扱う由緒ある蔦川家の出で、アメリカで生まれたが一時日本で教育を受けた“帰米2世”だった。結婚後はタコマで富士松とともに店を切り盛りした。

しかし、戦争が始まり、森口家は他の日系人同様に収容所に入ることになり、カリフォルニアのツールレイク収容所に移った。この時トミオは6歳だった。戦争が終わると、収容所を出た森口家はシアトルに移り、まもなくして富士松、貞子夫妻は宇和島屋を再開した。

コミュニティーと日系社会で親しまれ

お客は地元の日系人をはじめ、数年すると日本からアメリカ人と結婚した“戦争花嫁”たちがやって来るようになった。地元のワシントン大学(University of Washington)などへ日本からの留学生も来始めた。

こうした人々にとっても、異国での日本食を扱う宇和島屋は需要があった。

「米やタクワン、塩鮭なんかをお客さんは買っていきましたが、限られたお金しかない人に、お母さん(貞子さん)がお茶漬け食べさせてあげたり、よくしてあげていました。当時から店に来ていた人の中には、いまひ孫を連れてくる人もいます」

トミオがこう思い出すように、当時、母貞子がお客の状況をみて、いろいろお店とお客という関係を超えて面倒をみてあげていたという話はいまでも古い日系人の間から聞く。

また、日本からの貨物船もシアトルの港に入るようになって、多くの日本人乗組員たちがまちに来ていいお客になった。

戦後は軍隊を除隊したケンゾウが店を手伝うようになり、ワシントン大学を出て、ボーイングでエンジニアとして働き始めたトミオも1年半で会社を辞めて、店を手伝うようになった。

戦後、西海岸沿いに住む日系人は収容所を出てアメリカ人として復権したとはいえ、実際は就職面ではまだまだ見えない差別はあった。

「とにかくお母さんが一生懸命だったから、自然と仕事を手伝おうと思ってました。小さい頃から商売を手伝っていたし、それに会社でもそんないいポジションじゃなかったしね」と、トミオは笑う。

1962年のシアトル万博を機に躍進

1950年ごろには日本からいろいろな商品を売り込みに来るようになり、それらを仕入れていって商売は伸びていった。加えて、62年に転機が訪れる。

インターナショナル・ディストリクトのはずれから中華門と時計台を望む

この年シアトルで万博(world's fair)が開かれ、その間6カ月宇和島屋は出店した。ここで会場に来るお客だけでなく地元の人も新たなお客になっていき宇和島屋の知名度は高まった。

しかし、この年の末、店主の富士松が亡くなりトミオがそのあとを継いで、65年には店は法人化された。彼は言う。

「うちのオヤジ(富士松)は、日系人はもっとアメリカのものを食べるようになるだろうと言っていた。しかし、日本食は意外に伸びていったね。電気釜も最初は売れないと思っていたけれどどんどん売れるようになった。それらを日本人以外の人も買うようになった。豆腐も健康のために食べる人が増えてきた。昔から中国人もよく来たけれど、朝鮮戦争のあとには韓国からの戦争花嫁も来てお客になっていった」

日本食の潜在的な可能性は高く、それを受け入れるのは日本人だけではないことが、分かってきた。

こうして、日本の食材を中心に成長し、1970年には2ブロック離れた近くの2万 spuare feet(約600坪)の敷地に新店舗を構えた。この時点でアメリカ北西部では最大の日本食スーパーとなる。さらに8年後にはこれに匹敵するほどの土地を買い増した。

そして2000年11月、このすぐ近くでの宇和島屋ビレッジの誕生となる。食品スーパーを核にして、日用品やギフト用品を扱うコーナーのほかフードコートも設け、店舗の上はアパートとして利用されている。

ベージュにピンクのかかったような落ち着いた色合いの外壁に濃いブルーの瓦屋根をあしらった宇和島屋ビレッジのファサード(正面)。店内に入ると、確かに一般のスーパーには見られない日本食品が並んでいるが、訪れるお客はみたところ人種もさまざまだ。

個性的な店だがこれもまたアメリカの一つの食文化を反映した店になっているのだろう。寿司を中心に日本食は全米の至る所で食べられるようになった。しかし、その一方で外国人オーナーの日本食レストランも当たり前のように増えている。

そのなかで、日系の歴史を背負いながら発展する宇和島屋は、1つのスーパーの枠を超えた日本と日系の国際化を示す好例ではないか。(敬称一部略)

* 本稿は、JB Press (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2012年7月30日掲載)からの転載です。

© 2012 Ryusuke Kawai, JB Press

international district J-town seattle uwajimaya Uwajimaya Village Washington