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タイムスリップ・リベラルタ 1999年 -日系3世に生まれて- その1

私は日本人を祖父に持つ日系3世のボリビア人です。しかし18歳になるまで、日本語や日本文化を学ぶことはありませんでした。父は、日系2世でしたが、父も私もボリビアで生まれ、教育もボリビア人として受けました。

そのような環境で育った私ですが、幼い頃からなんとなく日本語に興味があり、学んでみたいと思っていました。しかし母に反対されて、ボリビア日本文化センターの日本語教室に通うことはできませんでした。18歳になったとき、ようやく日本語教室に通う機会を得ることができました。この日本語教室は強制ではなく、興味のある人が参加する形のものでした。その2年後、私は文化センターの会長から、日本語教室で日本語を教えている青年海外協力隊の先生の助手として生徒の勉強をみてくれないかと頼まれ、教壇に立つことになりました。私は大学へ通いながら、日本語教室の助手を勤めるという二足のわらじをはくことになったのです。それまでは私の生活のなかで日本人と接する機会はありませんでした。しかし接してみると、私のなかで眠っていた何かが目覚めたかのように、日本語をどんどん吸収していきました。また私の周囲の環境もそれを後押しするかのよにに、リベラルタにやって来る青年海外協力隊の数も増えていきました。日本語教室では、日本語はもちろん、日本文化についても時おり触れることができました。この仕事をきっかけとして、私は日本のことをたくさん学びました。そればかりではなく、協力隊の方々との個人的な付き合いもありました。いま振り返ってみると、彼らとの付き合いの中からの方がより多くのものを得たような気がします。

ボリビア人として育った私ですが、もう一つの祖国、つまり祖父の生まれた故郷である日本へ行ってみたいといつも思っていました。1991年に、私は国際交流基金の日本語国際センターの日本語教育研修に選ばれ、日本へ行く夢が実現しました。まさか私が研修生に選ばれるとは思ってもいませんでした。きっと祖父が天国で応援してくれたのでしょう。

憧れの日本に到着した時、私は人の多さに驚きました。もしかすると私の知らない間に、自分の親戚とすれ違っていたかもしれません。この一度目の訪日では、埼玉県で10カ月間、日本語教育養成の研修を受けました。研修終了後には、再び元のリベラルタでの生活に戻りました。しかしリベラルタでは、日本語を使う場が限られています。私はこのまま日本語を忘れてしまわないかと悲しい気持になっていました。そのような時、再び日本へ行くチャンスが訪れたのです。1998年4月から、私は故郷リベラルタの役に立つように、国際協力事業団の研修生として東京農業大学の森林総合科学木材工学研究室で、環境・森林保全と地域開発を学ぶことになったのです。

2度目の日本訪問が決まった時、私は日本文化を学ぶことと研究課題のほかに、自分のルーツを探そうと考えていました。それは祖父方の親戚を探すということです。私が持っている戸籍は古すぎて自分で探すことは難しく、また祖父の郷里である熊本県は遠いところにあります。そのため福岡県にある友達に相談して、手伝ってもらうことにしました。そのおかげで運良く、祖父方の親戚と連絡をとることができ、会うことになりました。一人で行くのが怖かったため、福岡県の友達について来てもらいました。そのような私の不安をよそに、親戚の皆さんはとても親切にしてくださり、はじめて会ったにもかかわらず、ずいぶん前から知っているような親しみを感じました。家には親戚一同の写真が飾ってありました。その中に祖父の写真を見つけた時、私の中に熱いものがこみ上げてきました。私はそれまで、祖父のことは昔のことなので親戚に忘れられているのではないかと思っていたのです。今まで祖父のことを忘れずにいてくれた親戚の方々への感謝の気持でいっぱいになりました。これからも親戚と連絡をとり続けたいと思います。

続く>>

*初典 『日本人移住100周年誌 -ボリビアに生きる- 』

© 2010 Yasukara Hayashida

Bolivia culture education generations Japanese language languages Riberalta Sansei
About this series

They crossed the Andes on foot, then traveled down the Amazon River by canoe into Bolivia. It was a hellish journey, enduring illnesses caused by extremes of heat and cold, and fear of wild animals in the jungle, and the people who made this journey were later called "Peru Down." When about 100 "Peru Down" people were cast ashore in Riberalta, Bolivia, the population was less than 3,000. Now, 100 years later, it has become a city of over 100,000 people.

In this column, we will introduce the story of a Japanese person in Liberalta that was introduced in the blog "Japanese Who Crossed the Andes" written by a JICA volunteer.

Japanese people who crossed the Andes>>

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About the Author

She was born in Riberalta on September 2, 1969, as the eldest daughter of Oswaldo Hayashida and Teresa Oliver. She is the oldest of six siblings, with three younger sisters and two younger brothers. Her grandfather, Ryotaro Hayashida, was from Akata-gun, Kumamoto Prefecture, and after moving to Peru in 1908, settled in Riberalta in 1910. Her grandfather, Venancia Oyola, was also from Riberalta. The Hayashida family has had roots in Riberalta for 100 years, dating back to her grandfather's generation.

(Updated December 2010)

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