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アメリカの戦後補償(リドレス)

1988年8月10日、レーガン大統領が市民の自由法(Civil Liberties Act of 1988)に署名した。日米戦争中に強制立ち退き・収容された日本人移民および日系アメリカ人に対し公式に謝罪し、各自に2万ドルを支払うというものであった。軍事的必要性と日系アメリカ人の保護を名目とした強制収容が、実はアメリカが掲げる自由と公正の侵害であったと公式に認められた日であった。リドレス(redress)という耳慣れない言葉が使われた。金銭による補償(reparation/compensation)ではなく「過ちを正す」ことを意味するという。

この法律が成立するまでには長年の紆余曲折があった。議会を通過したときも、大統領が署名したときも、むしろ意外だとする雰囲気があったように思う。強制収容は50年も昔の、しかも戦時中のことで、時効だという声はあった。金銭的補償ということになると、更に賛同者は少ないものと思われた。日本人に補償をすれば、他の民族―例えば黒人―に対する補償問題も起きてくるのではないかと懸念する声もあった。国が取り組むべき問題は他にも山積していた。このような小集団のための法律など議会を通過させることはできるのか。本来、日系人とは無関係だとはいえ、貿易摩擦による“ジャパンバッシング”も影を落としそうだった。

今にして思えば、「過ちを正す」動きはかなり以前から始まっていた。1948年日系アメリカ人立ち退き賠償法が成立し、戦時に失われた財産に対する―失われた額には遠く及ばないものではあったが―賠償が行われた。1952年のウォルター・マッカラン法により日本人にも移民枠が与えられ、同時に一世の帰化権も認められた。50年代、60年代の公民権運動はアメリカ社会における少数民族の権利に関する意識を劇的に変えた。

この間、日系社会を取り巻く環境も大きく変貌を遂げていた。収容所が閉鎖される頃は、日系アメリカ人が戻ってくることに強い警戒心を示した社会も、戦時中の日系人部隊の活躍が広く知られるようになったこと、日米関係が急速に改善したこと、そして何よりも日系アメリカ人の不断の努力で、次第に受け入れは進んでいった。1960年代のはじめ頃には、日系アメリカ人は概ねアメリカ社会に「復帰」を果たし、高い教育水準や就業率、高収入、低い犯罪率などで「サクセス・マイノリティ」「モデル・マイノリティ」と呼ばれるようになっていった。

公民権運動は日系社会の意識も大きく変えた。マイク・マサオカを中心とする日系アメリカ人市民協会(Japanese American Citizens League; JACL、設立は1929年)は戦後、日系アメリカ人の権利獲得のための活動を続けると同時に、他のマイノリティ・グループと連携しつつ、公民権運動に積極的に関わっていく。1946年にはカリフォルニアの外国人土地法(日本人に農地の購入や借地を禁じた)の廃棄に向けたキャンペーンを始める。1948年には日系アメリカ人立ち退き賠償法を成立させ、翌49年には日本人移民の帰化権を認めさせる運動を始めている。

1960年代末に西海岸の大学で次々に採り入れられていったアジア系アメリカ人研究は、日系社会の変化に新たな局面を開いた。アジア系アメリカ人の歴史や文化を検証し、あわせてマイノリティ集団のアイデンティティの確立を目指したこの動きは、強制収容を知らない日系アメリカ人三世の意識を高め、祖父母(一世)や父母(二世)の世代の経験を見直すきっかけを与えた。日系社会の中で、戦時中に被った不公正に対し、何かを主張しなければ、という意識が高まっていった。

もう一つ、リドレス運動を成功へと導いたとされる大きな要因があった。有力な日系アメリカ人議員の登場である。1959年、ハワイが米国の第50番目の州になった年、ハワイ出身のダニエル・イノウエが日系アメリカ人初の連邦下院議員となった。輝かしい武勲で知られる442部隊の元兵士で、戦闘で右腕を失った人物であった。1962年には日系アメリカ人初の連邦上院議員となった。彼はスパーク・マツナガ〔(1916-1990); ハワイ出身;連邦下院議員(1962-1977);連邦上院議員(1977-1990)〕、ノーマン・ミネタ〔(1931-);連邦下院議員(1975 – 1995);商務長官(クリントン政権)(2000 – 2001);運輸長官(ブッシュ政権)(2001 – 2006)〕、ロバート・マツイ〔(1941- 2005)三世;連邦下院議員(1979-2005)〕ら3名の日系アメリカ人議員と共にJACL本部に助言を与えつつ、リドレスの実現を目指した。

1978年、JACLは謝罪と賠償を求める運動を立ち上げた。連邦議会による正式の謝罪、強制収容された個人に対する賠償と強制収容についての正しい歴史教育を行う基金の設立の3点が要求された。1980年7月31日、カーター大統領の署名により市民の戦時民間人強制立ち退き・収容に関する委員会(The Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians; CWRIC)が創設された。①大統領行政命令9066号に関する事実とその影響に関する調査、②軍による指令の検証、③適切な救済策の提示、を目的とするものであった。1981年7月から12月にかけて全米10都市で公聴会が開かれた。20日間、750名の関係者が証言している。1983 年2月、委員会は『否定された個人の正義(Personal Justice Denied)』と題する467頁の報告書を提出し、強制収容が軍事的必要性でなく人種差別に基づく不当な政策であったと批判し、収容され、生存している約6万人に対し、ひとり当たり2万ドルの賠償金を支払うことを連邦議会に勧告した。

冒頭に記したように、1988年、レーガン大統領は市民の自由法に署名する。連邦議会による公式の謝罪と金銭的賠償、更に強制収容に関する教育を全米の学校で行うための総額12億5千万ドルの教育基金が設立された。1990年10月9日の式典で9人の日系人に小切手が手渡されたのを皮切りに、個人への補償が開始され、ブッシュ大統領の署名入りの謝罪の手紙が同封された。1992年には更に4億ドルの資金が追加され、1999年までに8万人余の日系人に一人当たり2万ドルが支払われた。

「過ちを正す」、リドレスは様々な形で行われた。

そのひとつは、開戦当時、州や市など政府機関で働いていて、日系アメリカ人であることを理由に解職された人びとに対する賠償である。1942年、カリフォルニア州政府で働いていた314名の日系アメリカ人が解雇された。これに対し、1982年8月から賠償が開始された。1986年、ワシントン州でも同様の賠償が行われている。対象はワシントン州政府で働いていた40人、シアトル市の4人、シアトル教育局の27人であった。同様の動きは、例えば当時の大学生、高校生にも見られる。2008年5月19日、ワシントン大学で特別な卒業式が行われた。強制立ち退きで卒業を前に大学を離れなければならなかった450人のための66年目の卒業式であった。

もう一つの動きは、今回の展示では全く触れることができなかったが、1983年から88年にかけて行われた、一連の連邦最高裁判所における、強制立ち退き・収容の違憲性を問う3つの裁判―コレマツ、ヒラバヤシ、ヤスイ訴訟―の再審である。強制立ち退き政策が進められていた1941年から42年にかけて、司法省関係者が強制収容政策に軍事的必要性が無いことを知っていながら、この重要な事実を握りつぶしていたことを示す証拠が見つけられたことで、誤審審理という極めて珍しいかたちで再審への道が開かれた(Coram Nobis裁判)。

 最後に、日系人のリドレスに大きな貢献をしたひとりの日系アメリカ人の女性を紹介しておきたい。アイコ・Y・ハーツィグ(Aiko Y. Hertzig)さんは、卒業を目前にした高校3年生のときに家族と共に強制立ち退きの日を迎えた。戦後、60年代、70年代の公民権運動、反戦運動での活動経験を通して、自らも体験した戦時中の強制収容の問題に立ち向かうため、CWRICの調査員となる。国立公文書館所蔵の資料は勿論、公文書館に納められていない、未だ関係各省庁に残されている文書に関しても、直接文書庫に入って精査し、コピーをとることもできる権限を与えられていた。最終的に9.000頁におよぶ資料を提出したという。

私事になるが、私は十数年前から資料探しで何度も氏のお世話になった。「今回は何が必要なの」と問われ、「このような内容の資料を探している」と伝えれば、寸時に資料名から資料番号、概要まで、驚くほどの速さ、正確さで伝えられる。膨大な資料を収集しつつ、分析し、体系化する総合的な能力、資料を分類しコード化する事務能力にも敬服するばかりであった。先述のCoram Nobis裁判を勝利に導いた、決定的な証拠をみつけたのは歴史家ピーター・アイアンであったが、彼がその文書のコピーをとることを許されず、行き詰っていた時、CWRICの調査員との権限としてこれを助けたのも、この人であった。

アメリカの日本人移民および日系アメリカ人の強制立ち退き・収容に対する戦後補償はこのような形で一応の決着をみた。平坦な道のりではなかったが、その間に多くのアメリカ人が、これらの人びとの経験を知ることになった。1987~2008年にはスミソニアンのアメリカ史博物館に「より完全な統合(A More Perfect Union)」と題する、日系アメリカ人部隊に関する展示が置かれた(2008年のリノベーションで終了したようである)。1985 年に非営利団体として発足したロサンゼルスの全米日系人博物館は徐々に規模を拡げ、収集資料も充実している。2000年には首都ワシントンDCのモールに日系アメリカ人兵士を称える記念碑(The National Japanese American Memorial To Patriotism During World War II)が建てられた。「リドレス」に向けてのすべての動きがマスコミに取り上げられ、教科書に載り、大衆を教育する役割を果たすことになった。金銭的な補償にとどまらず、状況を広く社会に知らしめること、「リドレス」の歴史的意味はまさにその点にあったように思われる。

*本稿は、国立歴史民俗博物館による編集・発行、特集展示『アメリカに渡った日本人と戦争の時代(図録)-Japanese Immigrants in the United States and the War Eraー』(2010)からの転載です。この展示は、2011年4月3日(日)まで開催しています。

© 2010 National Museum of Japanese History

Aiko Herzig-Yoshinaga Daniel K. Inouye Redress movement United States U.S. Senate war World War II
About the Author

Professor at Keiai University's Faculty of International Studies. Completed his doctoral course at Tsuda University's Graduate School of International Relations. Doctor of Philosophy (International Relations). Specializes in the history of US-Japan relations, US-Japan comparative cultural studies, and Japanese American history. Major publications and papers: "Amerika no Kaze ga Fukuita Mura" (Ehime Prefectural Cultural Promotion Foundation, 1987), "Citizenship on the Borderline," Immigration Research Annual Report No. 7 (2001), and "Citizenship on the Borderline: The Japan-US War and Japanese Americans" (Ochanomizu Shobo, 2006). His grandparents lived in Arizona before the war, which is why he became interested in Japanese American history.

(Updated September 2010)

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