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概説『ユタ日報』-その歴史と意義- その1

北米における日系新聞は、1886年(明治19年)にサンフランシスコで刊行された『東雲雑誌』に遡る歴史があり、また、邦字紙ではないものまで含めれば、現在でも10紙ほどが発行されている(ハワイを加えるとさらに5紙ほど増える)。

こうした歴史的な広がりの中で、米国ユタ州ソルトレーク市で刊行されていた『ユタ日報』は、(1)戦前や戦時中も含め、近年に至るまで長期間にわたり発行が継続され、資料の散逸が防がれたこと、(2)元来はソルトレーク市などユタ州の地域紙であったものの、太平洋戦争の期間には、各地の収容所を含め全米の日系人社会に読者を持ち、実質的な「全国紙」であった時期があったこと、などから、北米日系新聞の研究上、重要な事例として注目されてきた。

このため、『ユタ日報』については、既に様々な文献の蓄積がある。『ユタ日報』が広く一般的に知られる契機となったのは、上坂冬子(1985)『おばあちゃんのユタ日報』であった。これは、当初『信濃毎日新聞』に連載された「信州女のユタ日報」を加筆・改題したもので、寺澤國子へのインタビューの成果を軸に、戦時中までの歴史と紙面内容に重点を置いて『ユタ日報』を紹介したものである。同書は後に文庫化されるなど、良質のルポルタージュとして広く影響力をもった。

学術的研究文献としては、1981年から日系新聞研究会を組織し、北米日系紙の研究に精力的に取り組んできた田村紀雄と、ソルトレーク市のブリガム・ヤング大学に留学し、1984年に『ユタ日報』などの研究で社会学の学位を得た東元春夫の業績が特に重要である。田村は、北米日系紙の総合的研究を展開しているが(田村・白水・1986、田村・1991、新保・田村・白水・1991)、『ユタ日報』についてもいち早く注目しており、『ユタ日報』に関する包括的な論文を東元と共著で発表(田村・東元・1984)したほか、戦時中の重要紙面を抜粋して復刻した『復刻「ユタ日報」(1940~1945)』(1992A)を編集し、巻末に詳しい解説(1992B)を綴っている。東元は、「移民新聞と同化」をテーマにした学位論文や、その後に実施した『ユタ日報』読者への調査の分析など、関連する論文を数篇発表している(東元・1987、1990、1992A、1992B)。

『ユタ日報』と松本市の関係については、松本市とソルトレーク市の姉妹都市交流に永く携わった本郷文夫による記録・資料集『松本市・ソルトレークシティ 姉妹提携35周年を迎えて-「ユタ日報」寺沢国子さんを偲んで』(1993)がある。その第6章には、『ユタ日報』関係資料が松本市へ寄贈された経緯がまとめられており、末期の『ユタ日報』を紹介する現地紙の記事なども収録されている。『ユタ日報』に関する記事・文献は、この他にもいくつかあるが、詳しくは「北米日系新聞関係日本語文献表」(山田・1994)を参照されたい。

本稿は、以上のような既存の業績と、『ユタ日報』の紙面にもとづいて、創刊前後から終刊まで、『ユタ日報』の歴史的展開を概説するものである。なお、本稿は、諸論稿の中でも、特に田村・東元(1984)と田村(1992B)に多くを依存しており、両文献については、特に必要な箇所を除いて、本文中でいちいち典拠として示すことを省略していることを、ご了解いただきたい。

創刊前後-『絡機時報』と『ユタ日報』

ソルトレーク市を州都とするユタ州には、1900年頃から日本人が本格的に流入し始めた。彼らは当初、鉄道や鉱山の労働に従事したが、徐々に農業や商業に転じる者が現れ出し、日本人コミュニティの骨格が形成されていった。当時の状況は、絡機時報社(1925)『山中部と日本人』によって伝えられている。「山中部」とは、ユタ州を中心にアイダホ、ワイオミングなど、ロッキー山脈中の地域の総称である。

この書物を出した絡機時報社は、ユタ州最初の日系新聞といってよい『絡機時報』(英語名・The Rocky Mountain Times)を発行していた。『山中部と日本人』によると、1907年(明治40年)に、オグデン(ソルトレーク市より60キロ程北方にある鉄道網の要衝で、日本人は「奥殿」と表記した)で桑港日米銀行オグデン支店長・飯田三郎が発行した謄写版の『絡機時報』をきっかけに、同年9月16日に飯田の実弟・飯田四郎が活版印刷で創刊した新聞が『絡機時報』であり、同紙はユタ州最初の日系新聞であった。創刊当時の『絡機時報』は、編集室をオグデン、発行所をソルトレーク市に置き、実際の印刷はロサンゼルスの羅府毎日新聞社という変則的な体制で、週一回刊行されていたが、翌1908八年(明治41年)3月には印刷機と活字を調達して自社印刷で週二回刊となった(在米日本人会・1940)。この『絡機時報』は、残念ながら謄写版、活版とも現物はいっさい残っていない。なお、飯田兄弟が長野県南安曇郡温村(現・三郷村)の出身であったことは、日系新聞関係者に長野県出身者が多いことの一例として注意しておきたい。

『ユタ日報』(英語名・The Utah Nippo)の創刊は1914年(大正3年)11月3日で、『絡機時報』より7年遅い。その後、13年にわたって両紙は競争関係を続けることになるが、元々『ユタ日報』は、キリスト教的な色彩をもっていた『絡機時報』に対抗するため、仏教会系の人脈によって創刊されたものであった。ソルトレーク市の日本人街の一角、テンプル街に社屋を置いた『ユタ日報』は、創刊号の「謹告」に名を連ねた、寺澤畔夫、菅回天、山崎東夢の同人3名と社員4名という体制でスタートした。同人3名のうち、実質的に主導権を握っていたのは寺澤であった。菅は創刊号に「発刊の辞」を綴るなど健筆をふるい、山崎はデンバー在住のまま共同経営に名を連ねたが、いずれも程なく社を去った。「日報」と名乗ってはいたが、創刊直後の11月は週一回程度、その後は週4回程度の刊行で、年内には27号までが発行された。ブランケット判より一回り大型の判型(610×445ミリメートル)、4頁建て、という形式は、終刊直前まで変わらなかった。

寺澤畔夫(うねお)は、『ユタ日報』の創刊後は、活字の都合から「畔夫」と名乗るようになったが、戸籍上の本名は「畊夫」である。彼は、1881年(明治14年)3月11日、長野県下伊那郡山吹村(現・高森町)に生まれた。父・興太郎は永く村長を務めるなど地域の有力者だったが、1903年(明治36年)に破産、長男だった畔夫は家産を整理した後、郷里を離れ、1905年(明治38年)に渡米するに至った。渡米後の彼は、ロサンゼルスやフレスノで働き、農業労働から身を起こして「人夫供給業」を始め、事業の道を歩んだ。1909年(明治42年)にソルトレーク市に移った当時の寺澤は、郊外で野菜農園を経営し(彼は「ユタ・セロリ」の開発者とされている)、「人夫供給業」を営む傍ら、サンフランシスコの邦字紙『新世界新聞』の通信員を務めていた。仕事柄、情報収集の重要性を理解し、労働者を集める手段として新聞広告を活用していた事業家・寺澤にとって、新聞に手を出すことは、いわば当然の成行きであった。

ちなみに、『ユタ日報』の創刊当時、ユタ州にはおよそ2,500名ほどの日本人がいたと推定されている。これに対して『ユタ日報』の部数は、創刊の翌年である1915年(大正4年)で837部という数字がある。『絡機時報』の部数は判然としないが、『ユタ日報』に拮抗するか、上回る部数があったものと思われる。小さなコミュニティの中で、キリスト教系と仏教系の二紙がしのぎを削っていたのである。

その2>>

* 本稿は、「ユタ日報」復刻松本市民委員会,編『「ユタ日報」復刻版 第1巻』 (1994年),pp431~435.に出典されたもので、執筆者のウェブサイトにも掲載されています。

© 1994 Harumichi Yamada

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