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戦時補償と三味線と -リリアン・ナカノさん-

音楽である種の心情を伝えようとする時、アバンギャルドが最もふさわしい形態ではないかと思われることがあります。例えば、第二次大戦中の日系人強制収容にまつわる心情。ジャズ曲「ポストン・ソナタ」です。

まず、ピアノが深い記憶の底に舞い降りていきます。痛みと悲しみと怒りが混在する記憶。次第にその音は激しく打ち震え、時に低音を叩き付けます。それに呼応し、やはり怒りをぶつけるように吹きならすテナーサックス。続いて、三味線の懐かしい調べが流れてきました。それに、祭笛を思わせるようなフルート。しかし、三味線の音が日本的であることの力を感じさせる一方、ピアノとサックスは聞く者の心に波風を立たせ、何かを訴え、それへの理解を求める。そんな旋律の展開。時には叫び、時にはおどけて、闘わなくてはならないのだと。それが、自分を取り戻すための唯一の術なのだと―。

1993年、ベルリンで開かれたコンサート版です。ポストン(アリゾナ州)には、日系人12万人を強制収容した10の収容所のうちの一つがありました。「ポストン・ソナタ」は日系三世のジャズ・ミュージシャン、グレン・ホリウチさんが作曲。「想起」「収容」「キャンプ・シーン」「祝典」の四楽章からなり、ピアノを弾いているのがホリウチさん、三味線を弾いているのがリリアン・ナカノさん(80)です。ナカノさんは全米補償賠償連合(NCRR。現「公民権と補償のための日系」)のリーダーの一人として、夫のバートさんとともに、戦時収容への補償と謝罪を求める運動の先頭に立ってきました。1988年の補償法成立から今年でちょうど20年。バートさん亡き後ガーデナ市に一人で住むリリアンさんは「補償運動を通じて人間的に大きく成長した」と、シャイなアーティストからの変化を振り返るとともに、「あまりにも日本的」と戦後十年以上手にすることをこだわっていた三味線が、ホリウチさんとの共演を通じて、いかに収容による心の混乱からの回復を助け、いかに社会との結び付きを豊かにさせたか、あらためて感慨を深めるのでした。

ナカノさんの話を聞いていると、その環境から、彼女が補償運動に連なっていったのはむしろ必然だったような気がしてきます。ハワイ州ホノルル生まれの日系三世。大戦勃発で、ハワイからは約二千人が米国本土に連れてこられ、収容所に送られましたが、手広く製パン業を営んでいたナカノさんの家族も、ビジネスの関係で祖父や父親が日本にたびたび行っていたことからスパイの嫌疑がかけられ、家族ぐるみでアーカンソー州ジェロームの収容所へ、その後ワイオミング州ハートマウンテンの収容所に送られました。しかし、父親のサブロー・スギタさんは黙っていません。収容所で食料事情の改善を求めて当局と掛け合ったり、人々の慰安のためと尺八の演奏活動をしたり。また、戦後ホノルルに戻った時に結婚したバートさんも、その後移転したシカゴでマルコムXの演説を聞きに行くなど、時の公民権運動の高まりの中で、日系社会も権利擁護のため積極的に活動していく必要性があるという思いを強めていったのでした。

三味線はまだホノルルに住んでいた八歳の時、たまたま踊りの稽古に連れていかれたところで、踊りよりも魅了され、それ以来、収容されるまで続けていたものです。シカゴに移ってから再び始め、シアトルにいい先生がいるというので行って集中指導も受けました。その後シカゴで個人的に教えていたのですが、心のどこかで「社会との結び付きが必要」と感じていたことも事実でした。

1965年ロサンゼルスに移転。その後「小東京住民の権利を守る会(LTPRO)」と出会い、ナカノさん夫妻の活動家としての歩みが始まりました。そして、NCRRの活動へと発展していくのですが、「最も収容の影響を大きく受けた二世が声を上げていくべき」というNCRRの方針に沿うため、ナカノさん夫妻が年齢的にも二世らの信頼と協力を得るのに大きく貢献したのでした。1981年にロサンゼルスで開かれた強制収容に関する公聴会では、英語が堪能でない一世の通訳も務めました。

そうして補償運動を進める一方で、80年代の中盤に甥のホリウチさんとの「共演」が始まります。運動に時間と精力を注ぐ中、アーティストとしての自己実現の要求が頭をもたげてきたのでした。補償の実現が視野に入ってきた時期でもあり、バートさんもリリアンさんの音楽への復帰を勧めます。そして、NCRRのイベントで演奏したり、コンサートで米国各地をはじめ、海外にも出かけたり。そうした折に日系人強制収容について説明することも忘れませんでした。

今年は補償法成立から20年ということで、二世週日本祭や日系コミュニティー・サービス(JACS)がNCRRを表彰しました。5月にはカリフォルニア州下院から表彰されたナカノさん。残念ながら関節炎のため現在、三味線は弾けない状態で、NCRRの活動からも幾分遠ざかっていますが、健康維持に努めながら、タイムズ紙の隅から隅まで目を通し、時に孫のお守りをするなど、結構忙しい毎日です。そうした日々について語る口調からは、活動と音楽を通して収容補償という大義のために生きてきた深い充実感がうかがえました。まるで「ポストン・ソナタ」の第四楽章「祝典」に響く、ナカノさんの三味線のようです。それはまた、日本的であるということはどいうことか問いかけるとともに、大義のために闘い続けることの大切さを訴えかけているようでもありました。

*本稿は『TV Fan』 (2008年10月号)からの転載です。

© 2008 Yukikazu Nagashima

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