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第2回 ある帰米2世のあゆみ

「余は、関西学院で人間を学び、早稲田大学で日本を学び、オックスフォード大学で世界を学んだ」。これは、逓信大臣・拓務大臣を務めたこともある、民権政治家永井柳太郎1)の語りの一節であります。以下は、この言葉にあります関西学院出身の帰米2世カール・アキヤ・一郎(1909-2001、敬称略)2)についての小論であります。

1. 母、妹、弟と日本へ

カリフォルニア州サンフランシスコ生まれで6歳になるアキヤは、5歳の妹、3歳の弟とともに母親に連れられて、1915年、横浜の伯母のもとにやっ てきました。当時、在米日本人の間では、米国生まれの子どもを、どのように教育するかが喫緊の課題でありました。考え抜いた末の両親の決断は、子どもを母 国日本に送り、そこで教育を受けさせ、帰米させる、というものでありました。そうはいうものの、両親にしてみれば、幼い子どもがこれから先どのよう育って ゆくのか、身内に預けるとはいえ、子供の不憫さがひしひしと感じられ、多くの戸惑いがあったに違いありません。他方、幼い3兄弟は、何のために日本に行く のかを知る由もなく、いつもそばにいて、なにくれと優しくしてくれる母親との船旅を、不安や疑問を何も感じることなく、楽しんでいたことでしょう。

横浜到着後、弟は伯母宅にそのまま留まりましたが、アキヤと妹とはやがて大阪にいる母の次姉に預けられます。母子4人が横浜で過ごしていた間、ここ に至った経緯や事情、これからのことなどを母親がどのように子どもたちに語ったのか、こうした点についてアキヤは何も記していません。話しをしても判って もらえる年頃ではないので、また、話しをすることは、母親にとってはこころが裂けるような苦痛を伴うことなので、子供たちに何も話さなかったのかも知れま せん。いずれであれ、母親は、後ろ髪を引かれ思いで、日本を後にしたに違いありません。幼い兄弟もさることながら、母親の悲痛な思いが伝わってくる気がし ます。しかし、これは何もアキヤ家に特有のことではなく、当時、多く見られた「帰米家族」の悲しい別離の一コマといえましょう。

2. 関西学院中学部へ

小学校4年生のある日曜日、「歌が聴ける、お菓子がもらえる」との誘いにのり、日曜学校に行くようになります。そのうち教会での礼拝などにも関心を 持ちはじめ、こうしたことがキッカケでやがてミッションスクールである関西学院中学部に入学します。1923年のことでした。中学部では、毎朝の礼拝に参 加するだけでなく、YMCAの集会にも積極的に参加し、2年生時には、洗礼を受けるほどでした。

1927年、中学部卒業、専門部文学部英文科入学。1928,29年には夏休みを利用して一時帰国、今後の生活を見据えて農場などのアルバイトに精 を出します。そうした経験を経て、やがて、2世として自分の将来と真剣に向き合い、学院を出た後、日本に留まり、教育界に一生を捧げようと心に決めます。 ところが、1931年の満州事変は、この決意を揺がします。事変の勃発は、アキヤの思い描いていた平和な日本とはほど遠い、軍国主義を象徴するように思え たからです。このままでは、兵役に就かされ、やがては米国籍を失うことになるのではないか、思い悩んだ末の決断は、関西学院を中途退学し、日本の市民権を 放棄することでありました。それは帰米を意味します。満州事変と同年の1931年のことでした。

3. 関西学院での経験

帰米後のアキヤについて触れる前に、アキヤの関西学院での生活を、次の3点に絞ってまとめます3)。第1はキリスト教、第2は師との出会い、そして第3は講演部での活躍、についてであります。

第1点につきましては、彼の生活は、キリスト教中心に展開した、ということです。彼は、キリスト教を学び、聖書を研究する過程で、つまり、キリスト 教青年会、聖書研究会、早天祈祷会などで学習・交流を続けるなかで、社会生活の何たるかを会得します。そうしたなかやがて、社会に対する諸々の疑問や矛盾 を感じ、自問自答を繰り返し、最終的に自分なりの答えを見つけます。「祈るだけで世の中は救えない」がこれであります。この答えは、直ちに、彼をして社会 事業や政治に対する強い関心を抱かせ、関心はやがて行動を促します。これに与って力のあったのが、第2の点である、多くの師との出会いであります。

学院在学中、彼は多くの師から直接間接に影響を受けました。社会事業への関心は、賀川豊彦4)や神崎キイチ5)の手伝いをするなかで、政治への関心は第1回普通選挙に立候補した河上丈太郎6)の 選挙応援を通して、それぞれ深められ、それらの活動から彼は、行動することの大切さ、実践することの重要性を会得します。学院内に「社会奉仕会」という組 織を作って、学外で奉仕活動に従事したこと、関東大震災時には率先して救援活動に参加したこと等は、その一例であります。他方、思想的には左翼思想への理 解を示してくれた内村順也7)からはデモクラシーの何たるかを教わり、帝国主義・ファシズム等の危なさを学びます。「君はアメリカへ帰り給え」との内村の一言は、教師になって日本に留まるべきか、帰国すべきか迷っていた時、帰米を決意させるアドバイスでもありました。

第3の講演部については、アキヤは、関西の大学や専門学校と共同して多様な学術講演会を開き、社会や政治を論じ、弁論を競い合いました。生活の基本 は文学にある、との考えを実践していた彼は、常に読書に励み、知識を吸収し、得たことを自分の言葉に翻訳する楽しさ・難しさを体得し、その過程で論理の展 開の仕方を学び取ってゆきます。学術講演や政談講演には「自信があった」所以であります。

アキヤは多くのものを関西学院で学び、それらを実践していった、換言すれば、アキヤの豊かな才能を開花させる土壌・雰囲気が関西学院に備わっていた、と申せましょう。

4. アキヤを取り巻く周囲の状況

関西学院在学中のアキヤを取り巻く周囲の状況を、次に簡単にみましょう。

日米関係に関しましては、1924年のいわゆる排日移民法の可決・成立を前に、関西学院理事会は、時の国務卿に以下の決議文を電送しています。「移民問題の満足なる解決法を発見せられんことを」8)。専門部学生もまた、「この法の撤廃を期す」9)旨の反対決議をしています。アキヤは当時、中学部の生徒でありましたが、政治に関心を持つ多感な性格の故、また自分に直接関係するする法律であるだけに、この問題に無関心ではなかったはずですが、散見する限り、アキヤはこれらについて一言も触れていません。

日本を取り巻く状況に関していえば、アキヤの在学中、陸軍現役将校学校配属令が発令され、全国の学校(中学、専門学校、大学)で、いわゆる軍事教練 が実施されことになります。これは、平和を信条とし、キリスト教主義教育を旨とする関西学院においても例外ではありませんでした。あるとき、アキヤのクラ スで軍事教練がボイコット運動にまでエスカレートしましたが、アキヤは級長として責任を感じ、配属将校に謝罪をし、事なきを得たことがありました。また、 先述の米国への一時帰国を巡って、憲兵隊から出頭を命じられたこともありました。嫌疑はすぐに晴れはしましたが、「スパイ」と疑われてのことでした。監視 の対象として帰米2世がよく遭遇した不快な経験の一コマでありました。

5. 帰米後の生活行動

帰米後、アキヤは、社会主義系の新聞『同胞』と関わり、日系企業で働く労働者のために奔走します。第二次世界大戦が始まると、彼は当然のことなが ら、反ファシズム、親米、民主主義を鮮明にします。強制収容所では民主化闘争を行い、志願兵にも応募しています。本来ならば、彼がリーダーシップを発揮し て深く関わったトパーズ収容所での成人教育プログラム10)――これに彼のそれまでの人生経験が強く反映されていると考えています――について触れるべきですが、紙幅の都合で省略します。

関西学院時代に培われた聖書研究(思索)、弁論術(表現能力)、奉仕活動(行動)が相互に作用し合うなかで、その後のアキヤの生き方は形づくられ た、と考えます。そうした世界観・人生観の延長上に、1987年受賞の栄誉あるーマーチン・ルーサー・キング・ジュニア記念生涯の業績賞は位置づけられる と言えましょう11)

6. まとめ

以上、ひとりの帰米2世のライフヒストリーを粗く描いてきました。ここで言い得ることは、学校教育やその時代の状況や精神は10代の多感な生徒や学 生に、色濃く反映されるものだ、ということではないでしょうか。community of orientation の持つ意味が改めて強調される所以であります12)


1)志賀太郎「永井柳太郎、疾風怒濤の青年期」、26-33頁参照、関西学院『関西学院高中部百年史』1989年。

2)カール・アキヤ・一郎に関する記述は、以下の資料を参照しました。
①カール・アキヤ著『自由の道太平洋を超えて』、1-245頁、行路社、1996年。
②「日系人の強制立ち退き・収容に関する実態分析」、19-43頁、関西学院大学社会学紀要104号、2008年。
③カール・アキヤの日記(馬小屋日記)。なお、この日記は、立命館大学名誉教授の山本岩夫氏のご厚意により関西学院大学史料編纂室に寄贈されています。
④関西学院発行の雑誌「クレセント」VOL11,nos.2 、84頁、1987年。

3)注2)の資料に加えて、関西学院、「資料室だより」、10-13頁、No.6 1988年、を参考にしました。

4)キリスト教伝道者、社会労働運動家。賀川が神戸で行っていた社会事業の手伝いをする。

5)アキヤの在籍中、神崎は高等商業学部の部長や学院の理事を務める傍ら、福祉活動・奉仕活動に精力的に従事。後に関西学院の院長や 理事長を歴任。1915年から同21年まで在米日本人会の書記長を務め、1920年には下院移民帰化問題委員会で、帰化権問題などについて、在米日本人の 立場を縷々説明。

6)30-40才代にかけて関西学院で教鞭をとったあと、衆議院議員。後に右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任。

7)内村鑑三の末弟

8)関西学院、『関西学院百年史 資料編Ⅰ』、1994年、98-99頁。

9)同前書、100-101頁。

10)1世や帰米2世を対象とする、日本語による米国研究・成人教育講座で、その目的は米化教育にありました。土日を除いてほぼ毎日、法律、外交、歴史、人文などの講話がなされ、アキヤはその責任者の一人でした。

11)マーチン・ルーサー・キング牧師を称え、平和と人権擁護に尽力・貢献した人に贈られる、ニューヨーク州制定の賞。

12)山本剛郎『都市コミュニティとエスニシティ』ミネルヴァ書房、1997年、83-84頁。Community of orientationとは人生の成長期をどういう状況下で過ごしたのかということが、その人のその後の人生を左右する、のではないかということ。詳細 は、リプセット「社会的移動と都市化」、鈴木広編訳『都市化の社会学(増補)』151-164頁、誠心書房、1978年。

© 2009 Takeo Yamamoto

About this series

The Migration Study Group was formed in 2005 with the aim of students living in the Kansai region working together to investigate and study issues related to immigration and relocation. This nine-part column introduces part of a joint study conducted by volunteer members of the group on the theme of "The experiences of students coming to Japan in the 1930s: A comparison of students from North America and East Asia."

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About the Author

Former chairman of the Migration Research Group. Ph.D. in sociology. Professor emeritus at Kwansei Gakuin University. Specializes in sociology (community theory). Researches issues facing Japanese Americans from a community perspective. Major publications include Urban Community and Ethnicity (1997, Minerva Shobo), Sociology of the Great Hanshin-Awaji Earthquake (co-edited, 3 volumes, 1999, Showado), and Sociology of Community Life (2001, Kwansei Gakuin University Press).

(Updated September 2012)

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