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海を渡った日本の教育

第5回 女子教育(1)

戦前から戦後にかけて、ブラジルの日系コミュニティには、「花嫁学校」と呼ばれる女子教育機関が存在した。それらは、移民の子女に裁縫や料理などの 技能を教授し、日本人女性らしい良妻賢母型のしつけを施す学校施設であったが、後には日本の女学校課程に準ずる高等女学部やポルトガル語部を併設し、総合 学園的な教育機関として発展したものもあった。

中でも、日伯実科女学校、サンパウロ女学院、サンタセシリア割烹学校の三つは、「三大花嫁学校」と呼ばれ、日系コミュニティ内では抜きん出たステー タスを有していた。これらの学校を卒業した女性たちは、コミュニティの指導者層の男性と結婚してその夫人となる例が多く、みずからも日系婦人組織のリー ダーシップをとる者が多かった。また、サンパウロ州内陸部の諸都市やパラナ州にまで、卒業生による学校開設が行われ、広いネットワークを形成していた。今 回は、現在もその後身機関が学校法人として存続しており、筆者の手元に比較的多くの資料が集まってもいる日伯実科女学校とサンパウロ女学院について書いて みたい。

日伯実科女学校は、1932年3月3日、アンナ・ワルドマン女史の経営する裁縫学校に郷原満寿恵が日本人部を設けたのがはじまりとされる(郷原, 1983, p.19)。そして、早くも同年5月5日には「日伯裁縫女学校」として独立し、タマンダレー通りに校舎を定めた。その後間もなくガルヴォン・ブエノ通りに 校地を移し、「日伯実科女学校」と名をあらため、初等科・中等科・師範科・音楽科・生花科・料理科・体育科とともに日本語科を併設した(写真5-1)。ま た、寄宿舎を併設しており、この当時の写真から、すでにおそろいの制服を着用していたことがわかる(写真5-2)。さらにその後は、隣のアクリマソン地区 のカストロ・アルヴェス通りに移転して校地を拡大し、葡語科も併設するに至った。前回の聖州義塾の塾生でもあった川原潔(ブラジル日系初の医大生)も、こ の頃ポルトガル語教師として同校の教壇に立った。

裁縫学校を基盤とする女子教育機関で、戦前からの資料が比較的多く残っているのはサンパウロ裁縫女学院(現ピオネイロ学院)である。同学院は、1933年に赤間重次・みちへ夫妻によって開設された「裁縫教授所」を前身とする女子教育機関である。

『財団法人赤間学院創立五十年史』(1985)によると、1933年4月にサンパウロ市トラヴェッサ・サンパウロ通りに、赤間夫妻が「裁縫教授所」 を開設し、同年8月1日、コンセリェイロ・フルタード通り18番地に移転、同教授所を「サンパウロ裁縫女学院」と改称する。翌1934年には、同じコンセ リェイロ・フルタード通り116番地に移転している。また、1935年には、サン・ジョアキン通り216番地に移転し、日本語小学部・検定準備科・実科高 等女学部を次々と設置した。中でも実科高等女学部の設置には、「時代の要求に応じて(中略)単に裁縫技術の教授だけでなく、将来社会の教育界にその一端を になえる指導者の養成を期し、在伯邦人社会に於ける女子中等教育事業に先鞭をつけた」(佐藤, 1985, p.72)と、日系女子教育史における画期として指摘されている。また、この年の4月には校誌『學友』(3号から『學友会誌やまと』に改称)が創刊されて いる。1937年には、ポルトガル部を新設し、ブラジル私立学校令にもとづく私立学校として公認され、ポルトガル語名を「エスコーラ・パルチクラル・アカ マ・サンパウロ」とし、日本語名を「サンパウロ女学院」に改称する。付属寄宿舎大和女学寮を有し、1938年の時点で、在校生70名であった(写真 5-3)。

ヨーロッパ風の町並みのサンパウロ中心部を行き来したこれらの制服姿の女学生たちは、ひときわ人目を惹いたであろう。では、これらの女子教育機関 は、30年代後半から戦中にかけての、ヴァルガス政権下における外国語教育受難の時代をいかに生き抜いたのであろうか。日伯実科女学校の校長であった郷原 は、戦時下の状況を次のように回想している。

    あのいまわしい大東亜戦争の折は、日本語も話してはいけない時期に、日本語教育を継続出来たのも、偏えに父兄の理解と、視学官の取計らいの賜物で、校名 も、ニッポ・ブラジルでは風当たりが厳しいからと、ヌツクレオデエンシノ、プロフィショナール、リブレエスコーラ、インテルナショナルと登録校名を、視学 官自から届け出して下され、貴校に日本語を継続している事は自分は知っているけれ共日本語を教え日系ブラジル人を立派に育成し、日本文化をブラジルに導入 すると云う貴い主旨であるから、レスペイトして一度も教室の戸を開けた事はない。けれ共、公けにしない様にと、温情溢るゝお言葉を残して立ち去られる後姿 は、女神の如く尊く何度か、合掌した事でした(郷原, 1983, p.19)。

当時のサンパウロにおいて、ブラジル人視学官が日本語教育の行われているのを知っていて不問に付したというのはちょっと信じがたいことである。実 際、サンパウロ女学院の場合、1944年8月に、視学官が裁縫教室巡視中、一生徒の日本語で書かれた裁縫帳を発見・没収、学校の閉鎖命令が下されている (佐藤, 1985, p.74)。ただ、地方の日本人学校で戦時中も日本語教育を継続していた例もあるように、新国家体制下の当局の取り締まりも一様ではなく、視学官の中にも 相当柔軟で寛容な人物もいたという例証と取れるかもしれない。

サンパウロ女学院は、1941年には、タマンダレー通り849番地に移転。しかし、翌1942年12月に立ち退き命令が出、ヴェルゲイロ通り235 番へ移転。リベルダーデ地区を離れることとなった。先の「閉鎖命令」は、このヴェルゲイロ校舎時代のことであり、同学院は緊急対策として、校名を「エス コーラ・ヴェルゲイロ」と変更し、学校新設認可の申請を行い、2ヵ月後の1944年10月に認可された(佐藤, 1985, p.74)。

こうした裁縫女学校の教育内容とレヴェルであるが、『ブラジル日本移民70年史』では「その他一九三三年開設の日伯裁縫女学校やサンパウロ女学院な どの女子教育(いわば花嫁学校)も当時の社会事情にマッチした教育施設であったといえる」(ブラジル日本移民70年史編纂委員会, 1980, p.310)と、それらの価値を認めている。当時の日系コミュニティにおいて、女子教育機関=「花嫁学校」という認識があったにしても、教育内容とレヴェ ルにおいてそういった評価が適当であるかどうかは別問題である。

サンパウロ女学院の実科高等女学部は、「母国ニ於ケル実科高等女学校程度ノ学科及ビ技能ヲ教授ス」(岸本, 1940)と、当時の雑誌広告にうたっているように、「日本の女学校と同等の学力を習得する目的でつくられた」という。この高等女学部の卒業生であるGW 女史は、同学院で日本古典文学を学んだことが、後に「万葉集」や「古今和歌集」の研究に半生をささげる契機になったと語った。GWさんは、後にサンパウロ 大学日本語・日本文学科の古典文学の教授として活躍することになったのである。以上のようなことから、当時すでに「花嫁学校」というイメージを大きく上回 るような相当な内容とレヴェルの教育が行われていたということが推測される。

これら日伯実科女学校やサンパウロ女学院の他にも、同じサンパウロ市リベルダーデ地区のトーマス・デ・リマ通りに不二裁縫女学校(1941創立)が 確認され、他にも同地区に日系の裁縫学校があったことを関係者からのインタビューで確認している。「三大花嫁学校」の一つサンタセシリア割烹学校も同じ トーマス・デ・リマ通りにあった。また、当時の邦字新聞をひもとくと、バストス、リンス、プレジデンテ・プルデンテなど地方都市にもいくつかの裁縫学校が あったことが知られる。戦前すでにこのような女子教育が花開いていたことは、ブラジル日系コミュニティの特徴として、特筆すべきことではあるまいか。

参考文献
岸本昴一編(1940)『曠野』9号 暁星学園
郷原満寿恵編(1983)『姉妹-創立五十周年記念』第6号 日伯実科女学校
佐藤皓一編(1985)『財団法人赤間学院創立五十年史』財団法人赤間学院
竹下増次郎編(1938)『在伯同胞活動実況写真帖』竹下写真館
ブラジル日本移民70年史編纂委員会(1980)『ブラジル日本移民70年史』ブラジル日本文化協会

* 本稿の無断転載・複製を禁じます。引用の際はお知らせください。editor@discovernikkei.org

© 2009 Sachio Negawa

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About this series

ブラジリア大学の根川幸男氏によるディスカバー日系コラム第2弾。「日本文化」の海外展開、特に中南米での事例として、世界最大の日系社会を有するブラジルの戦前・戦中期 から現在にいたる日本的教育文化の流れと実態をレポート。