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https://www.discovernikkei.org/en/journal/2008/1/17/brazil-nippon-dayori/

2008年正月 三番叟の復活上演

ここまで何回かにわたって、ブラジルのある町の歴史にかんする話題を取り上げてきた。
原野に突如日本人移住地として現れたこの町は、今年、開拓からひとつの区切りになる年を迎える。ひとつの町の歴史としては長いとはいえない、ちょうど人が 平均的に生きる程度の年月というところだろうか。記念の年を、その歴史の最初から立ち会っている移民一世、その子供たち、その子供たち、その子供たち、つ まりおそらく四世あたりまでを含め、日系人皆でお祝いしようとさまざまな計画が立てられている。

2008年のお正月、その最初の催しとして「三番叟」の復活上演が行われ、大成功を収めたという知らせが届いた。今では町の人口の8割を占めることになったブラジル人にも大好評だったといい、翌日、舞台を提供した文化協会の役員は現地の新聞の取材に追われたそうだ。

三番叟復活の舞台

私の手元に、その舞台の写真がある。後述するある経緯から、三番叟鈴は私が日本から取り寄せて贈ったものだったが、その装束の本格的なことに驚い た。もち ろん自作である。無いものがあると、さてどこに行けば売っているかな、という発想をするのが普通になっていた私にとって、無いものはあるものを工夫して創 り出すという町の人たちの発想は常に新鮮だったが、装束?それは私が作るから、と事もなげに言った二人の舞手の言葉に、どこまで期待してよいのだろうとい う思いが実はずっとあった。インターネットを駆使して三番叟の舞台の画像を見ている姿など想像できないから、ふたりはずっと以前に教わった三番叟の記憶を 手繰り寄せ、つき合わせながら柄を決め、布地はいろんなものを流用してこれを作り上げたのだ。舞台を見ることはかなわなかったが、ブラジル人をも揺さぶる ものだったというのだし、きっと素晴らしい出来だったに違いない。写真とは言えこの見事な装束を見るとそんな思いになる。

日本人移民は、苦労もしたが、生活にまったく愉しみがなかったわけではもちろんない。野球のことはすでに書いたが、芝居もずいぶんあちこちで盛ん に行われている。戦後の一時期まで日本各地で普通に見られた村芝居の世界を、ブラジルに移民してきた日本人たちも同じように作り上げた。素人芝居だけでは なく、それを職業とする旅回りの一座があったところも日本と変わりない。

そんな旅回りの一座に、サンパウロ州の農村部を中心に活動する人気劇団があった。主宰は日本生まれの一人の女性である。幼少期に家を出て旅回りの一 座に身を投じ、憎まれ役として看板女優となったが結婚して引退、所帯をもった相手を口説いて家族でブラジルに渡ってきたが、不運にもご亭主は体を壊して働 けなくなり、一家を食わせていくために、昔とった杵柄ということでまた芝居に戻ったのだった。娘や息子を団員に、一座を旗あげした。

ちょうど各地に日本人集団地が勃々と出現する時期であり、芝居の注文はたくさんあった。ひとりだけとはいえ玄人のいる芝居である。見よう見まねの素 人の舞台とは一味違っていたのだろう。当初出し物は歌舞伎であった。三味線や太夫もちゃんと揃えた。サンパウロ州奥地のあちこち、にわか作りの舞台の上 で、例えば太閤記が、忠臣蔵が演じられていたかと思うと不思議な気持ちにならざるを得ない。三味線と浄瑠璃の音は、果てしなく広がるブラジルの土地で、ど こまで響いていったのだろうか。

三番叟のふたりの舞手は、この一座の役者であった。人気旅回り一座が日本人移住地に拠点をおいていたことで、戦後しばらくたって芝居というもの自体 の人気が落ち、主宰の女性も亡くなって一座が消滅したとき、そこがそのまま棲家となった。以後、ふたりはそこで踊りの師匠として暮らしてきた。ふたりが指 導する町の婦人会の踊りは評判で、あちこちのイベントに招待されている。

一座に関心をもち、いろんな話をうかがっているうち、話題になったのが三番叟だった。日本の民俗芸能の流れを汲んでいたと思われる、主宰の女性が日本で所属していた旅回りの一座では、必ず三番叟が最初の出し物だった。ふたりはその三番叟を仕込まれていた。

もう何十年もやっていないけれど、体が覚えているだろうからやろうと思えばできるだろう、開拓記念の年も近いから復活上演というのもいい趣向だ、や るなら装束は自分達で用意するよという先ほどの話、鈴がいるけどブラジルには鳴りのいい鈴がないからこれだけは日本から取り寄せるか、などなど話が弾ん だ。調べてみたら三番叟鈴というものが売られているから私がプレゼントしますよ、だから必ず復活上演やってくださいということで鈴を贈ったのが2006年 の10月ごろだったから、一年ちょっとの準備だったことになる。とうとう実現し、しかも大当たりだったというからうれしい話だ。どこかで再演してもらって この眼で舞台をなんとしてもみなければ。

ひとつだけ心残りがある。おふたりは三番叟鈴も自作するつもりでイラストを描いていた。日本から製品を取り寄せる、などというのは無粋なことだったかもしれない。ブラジル製の三番叟鈴が見られる機会だったのに。

© 2008 Shigeo Nakamura

About this series

This is a 15-part column that introduces the lives and thoughts of the Japanese community in a small town in the interior of the Brazilian state of Sao Paulo, interweaving the history of Japanese immigration to Brazil.

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About the Author

Researcher at Rikkyo University Institute of Asian Studies. From 2005, he served as a curator at a historical museum in a town in the interior of the state of São Paulo, Brazil, as a youth volunteer dispatched by JICA for two years. This was his first encounter with the Japanese community, and since then, he has been deeply interested in the 100-year history of Japanese immigration to Brazil and the future of the Japanese community.

(Updated February 1, 2007)

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