ディスカバー・ニッケイ

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第21回 『移民がつくった街サンパウロ東洋街』著者、根川幸男氏にきく

ブラジルアクレ州リオブランコ宮殿博物館にて調査中の著者(2022年9月)。左は、ブラジルの外務大臣で、1903年にボリビアからアクレ地方の割譲を取り付けたリオブランコ男爵。

世界最大の日系人社会を構成するブラジル・サンパウロの日系人街をテーマにした『移民がつくった街サンパウロ東洋街 地球の反対側の日本近代』(東京大学出版会、2020年刊行)の著者で、国際日本文化研究センター特定研究員の根川幸男氏に、移民研究や本書が生まれる背景をきいた。


冒険譚としての「移民」の魅力

——移民の問題に興味をもったきっかけはなんだったのでしょうか。また、そのなかでブラジルの日系社会の歴史を研究された理由はなんでしょうか。

根川: 1992年、カルナバル見物のためはじめてブラジルを訪問した時、サンパウロ東洋街にあるペンションに宿泊しました。そこで多くの在伯日本人や日系人に接触して、彼らや彼らの祖先はなぜこんな地球の反対側までやってきたのだろう?と、素朴な疑問を持ちました。また、Sさんという、戦前にブラジルに移民し、サンパウロ州内陸のバストスという移住地(当時は開拓フロンティア)でカウボーイ(カパタイスという牧場支配人)をやっていたというおじいさんに出会い、かっこいい生き方だと思いました。

その方は中学生の時にハリウッド映画を見てカウボーイに憧れ、自分の土地を買ったうえでブラジルに移民したということでした。当時は、移民というのはいわゆる食いつめもの、というイメージを持っていたので、実家が愛媛県の大庄屋で父が県会議員であったというSさんのお話に、自分のステロタイプが崩されていきました。Sさんをはじめ移民の方々のライフストーリーをお聞きしていくうちに、ブラジル移民に強い関心を持つようになりました。

——移民をテーマに多くの人がさまざまな角度から研究をしていますが、一般的になぜ「移民」は、こうした研究者を惹きつけるのでしょうか。ご意見をお聞かせください。

根川: 研究を通じて、魅力あふれる人びとに出会えることが大きいと思います。一般的に移民研究のインフォーマントは、故郷を離れ、異国に渡り、さまざまな体験をし、多くの問題を乗り越えてきた人びとですから、それだけで冒険譚の主人公のような魅力的な存在であるわけです。

また、そうした個人や家族のライフヒストリーというミクロな生活史からグローバル化の実態やメカニズムを解明する手掛かりを得ることができるというメリットもあると思います。特に、人やモノのグローバルな移動が活発となる近現代を対象とした研究では、移民の存在や彼らが運ぶ言語や文化、生活習慣などは、政策や国民生活を変革していく無視できない要素となります。年間の国際移動人口が3億人に迫り、世界人口の3.5%が国境を越えて移動し、出生国とは異なる国で居住している現在、移民を視野に入れずにこの世界について考えること自体が無謀でしょう。

ただ、そうした研究上の理屈だけでなく、ブラジルの日系移民を調査していて、高揚感を覚えることが何度もありました。なぜ移民したのか?、なぜ奥地の開発前線へ入植したのか?、という質問に対して、インフォーマントの中には好奇心や冒険心を挙げる人が多くいました。人はなぜ海を渡るか?、先に紹介したSさんの例もそうですが、プッシュプル理論だけでは説明できないような人間を動かす原理をかいまみることも魅力の一つです。


実証主義的方法の研究アプローチ

——調査、研究にあたって、その方法として基本的な考えはどのようなものでしょうか。シカゴ派社会学者の功績について触れられていますが、この点についてご自身の研究手法をからめて教えてください。

根川: 私は、文献資料にもとづいた史料批判による文献史学の方法とともに、フィールドワークやインタビューによる野外科学の方法をバランスよく併用した実証主義的方法を重視しています。特に、都市のインナーシティへのアプローチと参与観察の手法はシカゴ派社会学の一部で開発されたものであるし、世界のユダヤ人街を描いたルイス・ワースの『ゲットー』(ghetto)は、東洋街の史誌を描くための直接のモデルになりました。

とはいえ、私は頭がよくないので、理論化や抽象化が得意ではありません。足で稼ぐタイプです。したがって、直接見聞きすることを重んじ、自分が知り合うことができた方々との縁を大切にしています。地縁・血縁とともに、学校縁や信仰縁といった、学校の同窓会や旦那寺、通った教会などのネットワークをたどって、人間関係を調べたりします。また、フィールドワークを、自分で歩き、自分の目で見ることを重視します。

現場百遍というか、可能であれば同じ場所を日時や季節を変えて何度も訪れます。東洋街なんかは、昔3年半ほど住んでいたのですが、就職でブラジリアに移ってからも、サンパウロに来たら、県人会なんかに泊めてもらって東洋街に宿を取り、朝昼晩と時間を変えて歩き回って人から話を聴いたりしていました。そんな中で、ご縁を持った方々は数知れません。『移民がつくった街 サンパウロ東洋街』にも書きましたが、この書はそうした人びとの記憶と語りの重なりの上に成り立っているのですね。

——ご著書では、日本人の海外移民と、世界各地の日本人町について触れられています。これらと比較して、サンパウロ東洋街などブラジルの日本人町の特色はどんなところにあるでしょうか。


日本人街は第二の故郷

根川: 日本から最も遠い場所に、まさに移民たちによって自主的に建設されたことだと思います。航空機での移動が一般化していなかった時代、地球の反対側に位置するブラジルの日本人移民の心細さは想像を絶するものでした。つらい戦争と勝ち負けの抗争を経験し、戦後にブラジルでの永住を決心した時、そこに第二故郷、心のよりどころとなる日本人街(新しい家郷)を欲したのは当然の成りゆきでした。この街のパイオニアたちが、ガルヴォン・ブエノ通りのど真ん中に朱塗りの大鳥居を建てた気持ちが、わかるような気がします。

東洋街は、何よりも、映画館という近代的なメディア発信の装置を核に形成された歴史的存在であるとともに、生きたエスニックタウンであることが魅力です。コロナ禍によるロックダウンで一時期客足が遠のきましたが、2022年の8〜9月に訪れた時はすっかり復活していて、以前のように、週末は人と車の混雑で歩けないほどでした。

東洋街は、90年代後半の数年間、ブラジルで最初に住んだ場所であり、自分にとっても「第二の故郷」として愛着を持っています。しばらく時間をおいて再訪すると、相変わらずあか抜けない街だなと思うと同時に、新しいお店や以前見なかった落書きが増えていて、変わらない中に新しい顔を見せてくれる点も魅力の一つだと思います。


——日本人の海外移民先では、祖国日本よりも「日本的」なものが残っていると聞くことがあります。ブラジルの日系社会ではこのようなものやこと、考え方などについてお気づきの点があったら教えてください。

根川: 何をもって「日本的」と言うかにもよりますが、まずはコロニア語と言われるブラジル日系人の日本語に残る表現や言い回しが思い出されます。いかにもブラジルの現代っ子という感じの三世の男の子から「帳面」や「火熨斗(ひのし)」(炭火を中に入れて、その熱で布のしわをのばす道具のこと)という言葉を聞いた時は、最初なんのことだかわかりませんでした。

ほかに思い当たるのは、家族(血縁)の結びつきが強いこと、特に農村部では客人(まれびと)を歓待するホスピタリティが強いことなどでしょうか。日本人移民の大部分が農村の住人だった頃、家族を主体とする営農で、家長を主体とし、主婦を要として一致協力しなければ生き残れなかったことなどが、こうした紐帯を強め、それが今でも残っているのかもしれません。しかし、これは日系人に限ったことではないかもしれません。家族の紐帯の強さは、ラテン文化の影響もあるかもしれませんね。


過渡期と多様化のブラジル日系人

——ブラジルなど南米の日系人の場合、日本での“出稼ぎ”経験や、日本に根をおろした人も多いと思います。また、日本から帰国してアイデンティティの危機に陥ったような「ロストジェネレーション」と呼ばれている世代もいると聞きました。ひと口に日系といってもさまざまでしょうが、いま、ブラジルの日系人は、どのような状況にあるのでしょうか。

根川: 過渡期と多様化——いい意味でも良くない意味でもこれに尽きるでしょうか。1950年代ぐらいまで、ブラジルで日本人/日系人というと農業移民が多かったのですが、比較的早く商業に転換している例が見られます。戦後のある時期まで、都市では、市場商人(フェイランテ)とか、理髪業とか、洗濯屋さんとか、日本料理屋さんとか、エスニック職業があったのですが、現在は職業・生業も多様化しています。経済的なレベルでも富裕層から底辺までカバーし、居住も北はアマゾンから南はアルゼンチン国境のリオグランデドスルまで、ブラジル全土を網羅しています。

日系社会の求心力の低下、三世、四世の日系社会離れなどと指摘されたりすることもありますが、日本文化協会を中心とした日系社会の一体化(不完全な)が行われていたのは、それほど長い時期ではないと思います。ブラジルと日本、どちらかにより比重を置くとしても、複数の国・地域を往復するトランスマイグラントも一般的になってきており、それが一種のアイデンティティになる傾向もあると思います。

私はブラジルに母方の親戚がいるのですが、三世、四世—私のまた従弟の世代では、日本に出稼ぎに来て定着した者もいるし、帰国して起業している者もいます。また、スペインの大学院を卒業して、バルセロナで子どもを育てながら働いている者もいます。では、彼らがずっと日本やスペインで暮らしていくかというと、「いつかはブラジルに帰りたい」なんて言っています。私のファミリーを見ても、多様化、グローバル化、流動化し、日系人のカテゴリを広げていると言えるかもしれません。

こうしたブラジル日系人の多様化を目の当たりにして感じるのですが、私は本や論文を書く場合、「ブラジル日本人移民」とか「ブラジル日系人」というふうに、「ブラジルの〜」と呼ぶことにいつも躊躇しています。『ブラジル日系移民の教育史』なんていう本を書いていますが、あれは主に日本人移民が集中したサンパウロ州とパラナ州北部を対象とした研究にもとづくものでした。パーセンテージでは日系人口の80%くらいはその地域に居住しているのですが、日系人はアマゾン河流域にも北東部や南部にも分布しているんですね。他の研究者の論考を見ていても、一地域や数ヵ所を調査しただけで、「ブラジルの〜」とか「ブラジルのおける〜」というタイトルを見かけるのですが、同じ日系人やコミュニティでも、今後はもっと地域性に注意を払うべきですね。

——夜の町で働く人など、表社会にあまり登場しないような日系人の歴史について、「日本人街が持っていたもう一つの顔」としてまだ書き足りない部分がある、と言われますが、この点についてもう少し教えてください。(アメリカの一世の歴史でも、こうした人たちのことはあまり触れられていないような気がします。)

根川: 私自身が酒を飲まないせいもあって、「夜の街」についてはたいへん不勉強です。ただ、私がブラジルに通い、住み始めた頃、90年代の初めから90年代後半、東洋街とその近辺には、ボアッチと呼ばれるナイトクラブがかなりありました。東洋街は夜の娯楽の街という性格も持っていたのです。私が連れて行ってもらったお店に集まる女性たちは、(見たところ)非日系ばかりでした。しかし、調査を進めると、60〜70年代頃までは、日系のバーやナイトクラブがかなり営業していて、そこでは日系のママさんに二世、三世の女の子たちが多く働いていたそうです。カラオケが入る前は、日本語ができないとお客さんとの間が持たなかったとか。

戦前の日伯新聞の経営者で三浦鑿という、反骨のジャーナリストがいましたが、この人の奥さんは元娼婦で、彼女の連れ子であった息子さんは明らかに混血であったと言われています。あまり記録には残っていないのですが、戦前に農村部から都市に出てきた移民女性の中には、日系に限らず水商売のお店で働いた人もいただろうし、1930年代のコンデ界隈にはすでにいくつかの料亭と呼ばれる料理屋ができていて、日本人女性たちが妍を競っていました。コンデも東洋街も、サンパウロという大都市のダウンタウンに位置するだけに、当然そうした「夜の顔」を持っていたわけです。

夜の印象というと、私は東洋街の中のサンジョアキン通りの坂下の高層アパートに住んでいたのですが、夜窓から夜景を見ると、サンパウロは割と真っ暗なんですね。その中で東洋街にはすずらん灯が点っていていて、中心部は夜も割と明るい。これは大したもんだと思いました。ACAL(日系の商工業組合であるリベルダーデ商工会)という組織は、市警と協力して、かなり治安維持にも力を入れていたと思います。治安が悪いと商売にならないですから。

街の商店主たちが飲みに集まるお店もあって、今後の移民研究やエスニックタウン研究では、こうした都市の持つ「夜の顔」について注意を喚起する必要があると思います。

——日本的ながらブラジルの文化に包まれたサンパウロ東洋街の変遷は興味深いものがあります。今後、東洋街はどのように変わっていくと思われますか。

根川: 『日本民俗学』という雑誌にも書いたように、コロナ禍でサンパウロ市がロックアウトされた時期、七夕祭りや新年会などの東洋街の行事はオンラインで開催され、飲食店ではオンラインによる受注とデリバリーに力を入れました。こうしたニューノーマルへの適合戦略には、若いデジタル世代の協力が必要で、彼らの参入を促しました。

2000年代頃に流行したJ-POPは、日本ではすっかりK-POPにとってかわられましたが、ブラジルの一部ではまだまだコアなファンがいるようで、文化周圏論的な意味でも興味深いと思います。

昨年8〜9月にブラジルを訪れた時、東洋街はすっかり活気を取り戻していて驚きました。前回は見なかったJ-POPファンを意識したような店も新たにオープンしていました。ただ、東洋街は空間的にも発展には限界があるので、日本文化協会やACAL、各県人会などは、ネットワークの拡大やイベント開催でデジタル媒体を利用した方向性へ発展していくものと想像しています。


昔と近未来が見える不思議な街へ

——ご著書を読んで、サンパウロ東洋街に行ってみたくなりました。この街の魅力について聞かせてください。

根川: 東洋街のパイオニアの一人、田中義数は、東洋街の前身となるガルヴォン・ブエノの商店街をつくるのに、浅草をイメージしたとされています。『移民がつくった街』に描いたように、この街は、1950年代から70年代頃、日系映画館を中心に発展してきました。戦後、娯楽を求めて日本映画をみるために多くの人びとがリベルダーデに集まってきて、その観客たちを当て込んで開店した商店が増え、やがて商店街を形成していくことになるのです。

映画館も商店街もいまや昭和レトロの世界ですね。日本でさえ、買い物客で歩けないほどにぎわっている商店街というのはめずらしいと思うのですが、東洋街に行けば、そういう昔懐かしい商店街の雰囲気を味わえる。といっても、歩いている人びとはひじょうにマルチエスニックな人種構成なのですが…

日系商店街ができる前のガルヴォン・ブエノ通りは閑静な住宅で、ソブラードと呼ばれる二階建てのポルトガル風建築もある程度残っています。東洋街は、そうした幾層もの歴史の上塗り(ところどころ塗装の剥げあがった)の上に成り立っています。

昭和レトロとコロニアル様式の混淆、鳥居やすずらん灯、漢字やカタカナの看板のひしめく通りに、アジア系だけでなく、ヨーロッパ系やアフリカ系、その混血のグラデーションを見るようなマルチエスニックな人びとが歩き犇めいている。東洋街は、そうした一昔前と近未来を同時に見るような不思議な魅力をたたえていると思います。

——今後、移民や日系については、どのような研究を予定されているか、お聞かせください。

根川: 現在、科研費プロジェクトで、近代日本人のグローバル移動、特に移民船航海における人びとの記憶や体験について研究を進めています。従来の移民史が対象としてきた送出国(地域)、受入国(地域)という陸で生活する人びとを対象とするのではなく、第三のフェーズとしての移動の過程、海や河川、船、航路体験に注目しています。

また、自分の研究でも手薄だったアマゾン—アマゾン川流域の日系コミュニティについても意識的に研究を進めようと思っています。従来の研究だと、日本人の移民船体験は、神戸からサントスまでということになっているのですが、戦前のアマゾン移民だと、リオデジャネイロで下船し、船を乗り換えて、アマゾン河口のべレンまで行き、また船を乗り換えて支流に入り、さらに小さいガイオーラという川船に乗り換え、何日もかかって、最後はカヌーで入植地までたどり着いていたりする。

また、戦後移民の例ですが、1958年のアクレ州キナリ植民地へのケースだと、ベレンからボッカ・ダ・アクレという上流まで三回船を乗り換え、神戸から約4ヵ月かかって、やっとアクレ州の州都リオブランコまでたどり着いている。もう世界の最果てです。日本人の移民集団による史上最長の航海ではないかと思います。日本人移民は、こうした長い長い航海の中で、しけや船酔い、外国人(白人・黒人)との接触、差別や特別待遇、めずらしい風景や風物、食べ物、動植物を観察し、時には麻疹やコレラに感染したりして、航路体験の中で自分たちの価値観や世界観を変容させていく。

日本の移民史研究では、移民母村とか送り出す側と受け入れ側の国・地域、つまり陸にいる間の移民を主に捉えてきたのですが、私はその過程、つまり船の上にいる期間の移民を捉えてみたいと思っています。何十年という移民の一生の中では、わずか数十日から数ヵ月ですが、移民たちにとっては忘れられない思い出なんですね。船の中で作り上げたネットワーク(同船者のつきあい)は、ブラジル到着後も長く続く例が多かったようです。

東洋街の発展には、日本語新聞の宣伝や協力を必要としましたが、例えば、東洋街の創設の第一人者・水本毅とサンパウロ新聞社長の水本光任は同じ移民船で来た同船者だったと言われています。また、東洋街の四大行事の一つ「東洋祭り」や「七夕祭り」の都道府県別の演し物は、移民船内で行われていた演芸会の延長にあるのではないかと考えています。東洋街を創設した第一世代、田中義数にしても、水本毅にしても、一世たちはみんな移民船航海を経験してブラジルに渡ってきたのです。

現代ヨーロッパを代表する知性の一人で歴史家でもあるジャック・アタリは、その著『海の歴史』の中で、世界史の重要な出来事はすべて海で起こっていると指摘していますが、海から見る移民史もさまざまなことを私たちに教えてくれます。

根川幸男(ねがわ さちお): 1963年大阪府生まれ。サンパウロ大学哲学・文学・人間科学部大学院修了。博士(学術)(総合研究大学院大学)。移植民史・海事史・文化研究専攻。ブラジリア大学文学部准教授を経て、現在、国際日本文化研究センター特定研究員。同志社大学、滋賀県立大学などで兼任講師。主要著書:『「海」復刻版』1〜14巻(柏書房、2018、監修・解説)、『ブラジル日系移民の教育史』(みすず書房,2016)、『越境と連動の日系移民教育史——複数文化体験の視座』(ミネルヴァ書房、2016。井上章一との共編著)、Cinquentenario da Presenca Nipo-Brasileira em Brasilia.(FEANBRA、2008、共著)

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© 2023 Ryusuke Kawai

このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。

 

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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