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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2022/6/24/nikkwi-wo-megutte-10/

第10回 舞鶴と桜と日系アメリカ兵士

昨年のいつだったか書店のノンフィクションのコーナーで「舞鶴に散る桜」(細川呉港著、飛鳥新社、2020年出版)という本に目をひかれた。サブタイトルに「進駐軍と日系アメリカ情報兵の秘密」とあったからだ。

舞鶴(京都府)といえば、日本海に面した港町で、戦後中国大陸やシベリアなどから日本海をわたって日本に引き揚げてきた日本兵や民間人たちの故国日本への玄関口となった地として知られる。しかし、それが進駐軍や日系アメリカ兵とどう関係があるのだろうか。そして、舞鶴の桜とは何を指すのか。興味を書きたてられて読むと、これまで知らなかった事実に行きあたった。

巻末の著者プロフィールによれば、細川氏は、1944年広島県呉市の出身で、出版社をへてフリー。現代中国、満州、モンゴル研究は長く、歴史に生きた無名の人物を掘り起こす作業を続けている、という。

2018年3月、著者は舞鶴市内の丘に桜を植えるイベントがあることを知る。そこには、戦後すぐに舞鶴に駐屯した、元日系アメリカ兵9人がハワイから参加するという。彼らは第二次大戦中ヨーロッパ戦線の活躍で名高い第100歩兵大隊とMIS(Military Intelligence  Service)という情報部隊に所属していた軍OBと関係者だった。

なぜ、かれらは戦後舞鶴にいて、そして戦後73年たってから舞鶴に桜を植えるためにやってきたのか。本書は、ひとりの日系アメリカ人の歴史をたどりながら、こうした疑問を解き明かす。以下、本書の大筋を追ってみる。


元日系アメリカ兵の思い 

舞鶴港を見下ろす共楽公園の一画に戦後、進駐軍の日系アメリカ兵士によって100本の桜が植えられた。その後桜は成長し見事な花を咲かせるようになったが、時代とともに枝が枯れたり倒木も多くなってきた。

このことを知った舞鶴在住のある人が1996年にブログに書いたところ、日本の各地に桜を植え、かつハワイの日系人にも興味のある人がこれに反応し、協力して舞鶴の丘に桜を植えようということになった。さらにこれを知らされたハワイの元第100歩兵大隊やMISの関係者が一緒に舞鶴を訪れることになった。

しかし、そもそもこの桜を植えようと考えたのはだれなのか。このことは長年不明だったのだが、ようやく1991年になって日本の新聞でとりあげられるなどして明らかになった。その人物がフジオ高木だった。

フジオの父高木森助は1913(大正2)年に、20歳で山口県岩国からハワイに移民した。現地で6人の子どもをもうけ、日本との間を行き来するが、1933(昭和8)年に最終的に日本に帰国する。このとき5人の子どもは一緒に帰国するがフジオだけはハワイに残された。

フジオは、ホノルルの高校を卒業するとサトウキビの製糖工場の機械整備工として働き、さらに真珠湾を浚渫する船に乗り込み整備工となった。そして1941年の12月7日朝、日本軍の真珠湾攻撃に遭遇、そのなかで日本の戦闘機がおよそ200ヤード先で不時着水するのを見る。戦闘機はまもなく沈没し、乗っていた日本のパイロットは海上に浮いていた。フジオは、男を捕まえようと近づいたが間もなく男は水中に没してしまったので、ライフジャケットなどを回収した。

ジャケットには名札のようなものが縫い付けてあり、フジオは仲間からその文字を読めと言われる。しかし読めなかったため「スパイだ」と責められ、船から降ろされ、やがて解雇される。この時の悔しい思いが逆にアメリカ人になろうと高木に決意させ、軍隊に志願。2度の挫折の後1943年ようやくMIS入隊。アメリカ本土ミネソタ州のキャンプ・サベッジで日本語の特訓を受けるなどしたのち、太平洋戦線に赴いた。

そして終戦を迎え、フジオは日本に駐留するが、その間に故郷の岩国の実家を訪れ子どものころから会っていない母親と再会、壊れた家を見て母親に「これで家を建て替えてくれ」と、お金を差出した。しかし母はこれを拒み「その金で日本人みんなのためになにかしてやれ」と言う。

1947年フジオは舞鶴に赴任したが、フジオたちには舞鶴ならではの特殊な任務があった。すでにアメリカとソ連の冷戦がはじまっていたなか、舞鶴に配備されたMISとGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のCIC(対敵諜報部隊)は、シベリアから引き揚げてくる日本兵たちからソ連の内部のようすを聞き出そうとした。また、引揚者のなかで、ソ連の思想に感化された者を探したり、ソ連のスパイを見つけ出そうとした。

舞鶴への引揚者について、舞鶴観光協会が以下のようにまとめている。

「……舞鶴港への引揚は、昭和20年10月、祖国をめざす人々を乗せて、引揚第一船『雲仙丸』により2100人の引揚者が入港したのを皮切りに、昭和22年に旧ソ連からの引き揚げがピークを迎え、約20万人が83隻の船で運ばれ舞鶴の地を踏みましたが、昭和25年、旧ソ連で捕虜となり極寒のシベリアで抑留されている人々は帰国がままならないまま、ソ連からの引揚が中断しました。引揚事業が再開された後は、舞鶴港だけが国内唯一の引揚港として、引き続き引揚者を受け入れました。昭和33年に最後の引揚船『白山丸』に乗って引揚者472人が日本の土を踏んでようやく舞鶴港でも引揚事業は完了。結局、最終的に舞鶴だけで66万余人もの引揚者を受け入れたことになり……」

フジオが赴任したときは引き揚げがピークを迎えたときで、フジオはCICのチーフとして働いた。このとき偶然フジオは引揚者のなかにいた実の弟に奇跡的に再会した。


日本人が喜んでくれる

舞鶴にいる間、母親に言われた言葉について考えていたフジオは、桜の木を植えることを思いついた。「日本人が喜んでくれそうだ」と思ったからだ。そこで桜の苗木100本を手配したが、苗木が東舞鶴駅に届いた翌日転勤で舞鶴を去ることになってしまった。そのため偶然駅で出会った同じ日系二世アメリカ兵たちに植付けを頼んだ。桜は、共楽公園の丘に70本、残りは近くの学校に植えられたとされている。1949年のことである。

こうしてフジオが贈った桜は、以後長い間舞鶴市民の目を楽しませた。フジオは自分のこの行為について自ら話すことはなかったので、長年苗木の贈り主がわからなかったが、1991年の読売新聞の真珠湾50周年記念に関する記事などではっきりした。1994年、舞鶴市は、ハワイで暮らすフジオ高木と妻弥生を舞鶴に招待した。

フジオはこれより6年前にも来日しているが、このときは、かつて彼が真珠湾で回収した日本兵パイロットの実家を探しあて訪ねた。遺族はこの日本兵の最期について知りたいのではないかと考えた末、真珠湾での自分の体験を話したのだった。

終戦後、日本人が食糧難で苦しんでいるときに、フジオはなぜ食べるものを援助するのではなく桜を贈るのか、とアメリカ兵にきかれたという。その答えは、いまも愛でられている桜の花が物語っているのだろう。  

(敬称一部略)

 

© 2022 Ryusuke Kawai

このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。

 

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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