日本人の母、アメリカ人の父を持つフード系インフルエンサー、J. ケンジ・ロペス=アルトさん。当代随一の人気を誇り、インスタグラムのフォロワー数は50万人超え、さらにYouTubeチャンネルは約133万人と『ニューヨーク・タイムズ』のクッキング・チャンネルより多い登録者数です。著書3冊はいずれもベストセラーになり、昨年10月にシアトルで開催された近著『The Wok』のサイン会も大好評でした。自身の生い立ちや仕事の原動力、著作に込めた思いを聞きます。
国際色豊かな食事で育つ
料理家、フードライターとしてこれ以上ないほどの経歴を持つケンジさんだが、幼い頃から料理に特別な関心があったわけではない。確かに、アメリカで最も有名な料理家のジュリア・チャイルド氏や、日本でも「世界の料理ショー」で知られるグラハム・カー氏の料理番組を観て育った。しかし、画家のボブ・ロス氏が30分で油絵の風景画を仕上げる「ボブの絵画教室」も同じくらい好きだった。
料理に興味を持つようになったのは、父親の影響が大きい。父のフレデリックさんはペンシルバニア州西部の外れで育ったアメリカ人だが、中華料理に目がなかった。ケンジさんが生まれたボストンでも、その後転居したニューヨークでも、活気あるチャイナタウンに足しげく通った。ケンジさんは父親と中華料理を食べ歩き、週末には本格中華のレシピに挑戦して、料理への関心を高めていった。
日々の食事作りを担うのは主に母親だった。母の慶子さんは名古屋出身の日本人で、10代で単身カリフォルニアへ渡り、ジュニア・カレッジでデザインを学んだ。免疫学分野の遺伝学者となるべくスタンフォード大学大学院に通うフレデリックさんと出会い、1974年に結婚。
一家の食卓に上るのは、伝統的な和食よりもハンバーグやカレーライスなどの洋食が多かった。慶子さんは『ニューヨーク・タイムズ』を見てはアメリカの料理を覚え、ベティ・クロッカーのお菓子レシピもよく取り入れていた。
「子どもの頃は父と特別な料理を作るほうがずっと楽しかった。でも、今の僕は当時の母に近い立場です。子どもふたりの世話、それに食事作りは全て僕が担当しています。だから普段の料理は、楽しんだり工夫したりというよりも、さっさと終わらせるぜ!って感じですね」。
ケンジさんが手がける料理は、調理工程を細かく分析してある一方、一般家庭でも気軽に挑戦できるものばかり。実験的な料理を楽しむ父親と現実的な料理をこなす母親、ふたりの姿を見て育ったからこそ、今日のバランス感覚に優れた姿があるのかもしれない。
研究者一家から料理の道へ
両親は結婚後、母方の祖父母をアメリカに呼び寄せた。祖父は有機化学の世界的権威で、2019年の他界後に従三位(じゅさんみ)が授与されたコロンビア大学名誉教授の中西香爾(こうじ)さんだ。アメリカで職を得た初めての日本人有機化学者である。
「祖父は亡くなる直前まで毎日職場に通う、根っからの化学者でした」
祖母の泰子さんはあまり英語を話さず、主に日本語で会話を交わし、孫たちを心から大事にする愛情深い女性だった。ふたりとも最期までアメリカの地を離れなかった。
父のフレデリックさんは現在もハーバード大学で遺伝学者として教壇に立ち、小児科病院で遺伝学研究所を取り仕切る。そんな遺伝学者の父と化学者の祖父に囲まれて育ったケンジさんにとって、生物学の道へ進むのは自然の成り行きだった。高校生の頃から毎年、夏休みになると生物学の研究所へ足を運んでいたが、3年目の夏、はたと気付く。
「自分はそこまで研究を楽しんでいないな、と。僕は心が動くことならいくらでも努力できるけれど、そうじゃないものはまるでダメなんです。それで大学2回生の年を終えた夏、研究はいったん休もうと思いました」
夏休み中にできるバイトを探し、最初はウエーターをしようと考えていたところ、たまたま見つけたのが料理人の募集だった。レストランの厨房に足を踏み入れた瞬間、ケンジさんはもう夢中になっていた。
レストランでの調理は、効率がカギ。20ものオーダーを、一度に一定の質を保って素早く提供する。19歳のケンジさんにとって、アドレナリンが放出される実に面白い作業だった。
*本記事は『北米報知』2022月9月23日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したもので、シアトル生活情報誌『Soy Source』(2023年2月8日)からの転載。
© 2022 Elaine Ikoma Ko