ディスカバー・ニッケイ

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それでも、日本人 (英語)

(英語) 真珠湾攻撃の直後、私は、「なんてことだ。私たちは一体どうなるのだろう?」と思いました。まさか強制収容所に送られるだろうとは考えもしませんでした。でも、自分たちは日本人か?とか、日系アメリカ人か?いや、日本人と同じようなものだろう。などといった、アイデンティティの問題はありました。ジルバを踊り、スウィング・ジャズを聴いていても、私たちが日系人であることには変わりませんでした。でも、自分自身を日本に住む日本人と重ねて考えることはできませんでした。そこに、我々は何者なのだろう?という激しい葛藤があったのです。

私にとってアイデンティティは深刻な問題でした。私は日本とは無関係でいたかったのです。でも鏡を覗くと、私は日本人なのです。それはまさに、アイデンティティの危機でした。そして自分が日系であることに罪悪感を感じました。日本人の名前を持ち、米のご飯を食べていることを含めて、です。当時の私は日本に行ったこともなく、日本に住む親戚とのやり取りもなかったので、日本への帰属意識はありませんでした。ですからその時期は、精神的に最悪の時代だったと言えます。そしてその一方で、私はアメリカ社会の主流に属していた訳でもないのです。私は日系社会に生きていました。私の友人たちは皆二世で、彼らもまた自分のアイデンティティに多少なりとも混乱していました。


アイデンティティ 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2002年2月18日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ、ジョン・パイ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ジョージ・ヨシダ氏は、1922年ワシントン州シアトルに生まれました。戦前、1936年にヨシダ氏は家族と共にカリフォルニア州ロサンゼルス東部に移り住みました。戦時中ヨシダ氏は、アリゾナ州ポストン強制収容所に収容されました。ヨシダ氏はビッグバンド・ジャズやスウィング・ジャズを聴いて育ち、強制収容所では「ミュージック・メーカーズ」というダンスバンドを結成し、ドラムを担当していました。収容者たちは、音楽を通して、自分たちが鉄格子に囲まれていることを忘れ、可能な限り日常を保つ努力をしました。1943年、ヨシダ氏は陸軍に徴兵されました。1945年に結婚したヨシダ氏は、カリフォルニア州バークレーに新居を構え、その後35年間ワシントン小学校の教員を務めました。

1987年に引退したヨシダ氏は、日系二世と三世のミュージシャンと共にスウィングバンド、「Jタウン・ジャズ・アンサンブル」を結成します。ヨシダ氏は、現在もドラム奏者として活躍していますが、彼にとって音楽は、戦時中の困難な時代を生きた、日系アメリカ人史を思い起こす手段となりました。またヨシダ氏は、「Reminiscing in Swingtime 1925-1960: Japanese Americans in American Popular Music」という本を執筆しました。 (2008年4月15日)

Sabrina Shizue McKenna
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サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。

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