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笠戸丸移民
日本を出たのはね、わしのお父さんは酢を作ってんですね。それで、その酢を持って、なんじゃ、お客さんのところへ行ってこいって。それで故郷を出て初めて、変わったとこへ行ったんじゃ。それで変わったとこへ行ったとこが、それがまぁ美しく見えるんじゃ。いやぁこんなに立派なところが、いいような感じがしてね。それからもう学校よりも、そのヴィアハ(旅行)するのが好きになってね。それが始まりじゃ。わしの。
一番最初はそんなに[移民は]なかったんじゃわ。北米だけでね。それで今度は北米ではイギリス人・・・アメリカ人が日本人いじめよったんじゃ。それで大人をいじめるわけにはいかんから、子供をいじめよったんじゃ。それはまぁ雑誌に書いてあったがね。それをわしは持っとったんじゃか、どっかへ貸したかなんかしてね。それでなんじゃね、日本政府が[北米への移民を]とめたんじゃ。それで今度はブラジル[への移民]が始まったんじゃ。ブラジルが始まったところで、今度は、そのcomeçou(始まった)家族がね、家族でなかったら来らんない。それでわしゃ一人だからそういうわけいかんもの。それでわしの隣の人は、なんじゃね、あの家族で、まぁブラジルへ来れたから。でわしも、そのお父さんがその人と一緒になりたかったらね、もう旅券出しとったもんだから。それでわしのお父さんもね、旅費ないから手伝って、始めは自分の旅費を払わにゃいかんもの。そして、日本語でなに、服、服(洋服)作ってくれてからね、きれ買ってね。初めてね。そんな風でブラジル来よった(笑)。
日付:
場所: ブラジル
提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.
児玉良一(こだま・りょういち)氏は1895年7月、広島に生まれました。1908年、ブラジルへの初の日本人移民を載せた「笠戸丸」にて、単身ブラジルへ入国しました。契約移民としてやってきたコダマ氏は、モギアナ鉄道線沿いにあるデュモント農園で4年間働き、その後、日本人として初めてブラジルの運転免許を取得。以後、運転手として活躍しました。笠戸丸移民についての知識は豊富で、Presidente Prudente市では「生きた百科事典」として知られていました。広島県人会や地元の文化協会でも活躍していました。 (1998年)
渡伯初期の生活
JACTOグループ創設者 (1911-2010)
見よう見真似で物にした仕事
ブラジル社会に恩返し-不足のテクニコを育成
『負け組み 』-日本敗戦認識運動
負け組みの主要メンバー
宗教心へのきっかけ
ブラジル奥地の殖民地での体験
大戦中の日系パラグアイ人の扱われ方(スペイン語)
二世日系パラグアイ人、研究者
パラグアイの最初の日本人移住地 (スペイン語)
日系人のパラグアイ農業へ貢献 (スペイン語)
両親に内緒で渡米
岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。
祖母に説得されて帰加した母 (英語)
医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)
カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)
アメリカ大陸へ (スペイン語)
日系ペルー人画家 (1932-2016年)
目立ちたくない外国人(英語)
在日三世・剣道家
先輩に触発されブラジル移民を決意
一世教育者(1911年生)