https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/855/
日系ペルー人画家 (1932-2016年)
(スペイン語) [日本語]学校が閉鎖される前、既に別の事件が起きていました。当時、父を含め、学校だけは無害で、校長や日本から派遣されていた教員等は大丈夫だと思っていたのです。しかし、リマ市内で日本人経営の店が略奪され、その前には農場の没収もありました。多くの日本人がせっかく手に入れた農場を失ったのです。そして、商店も。多くの店は略奪にあい、すっからかんにされたのです。サンニコラスでもそうした気配が漂ってました。だからこそ、父は友人の助言によってすべてを手放したのです。それだけ、父のその友人は当時の空気(リマで起きていたことやその他の地でも起きようとしていたこと)を読んでいたのです。
その後、学校も取締の対象になり、校長は拘束されました。校長は誰も知らない小さな部屋を持っていて、そこでラジオ短波を聞いていたので、日本の戦況に詳しかったのです。そのニュースを、校長先生はラジオ体操が終わった後に、我々に伝えていたのです。警察の家宅捜索の末、すべてが発覚し、校長と多数の先生が拘束され、強制収容所に連行されました。
I*: 強制送還されたのでしょうか?
ええ。強制連行されました。聞いた話しによると、アメリカのテキサス州に送られたとのことですが、良く覚えていません。一緒にではなく別々に送還されました。アメリカ政府はそうした人達を一緒には送還しなかったようです。さすがに頭がいいですよね。そして、我々は路頭に迷うことになったのです。
* 「I」はインタビュワー
日付: 2007年9月6日
場所: ペルー、リマ市
インタビュアー: ハルミ・ナコ
提供: ペルー日系人協会 (APJ)
ベナンシオ・シンキ・ウアマン氏はペルーのリマ市郊外スペ地区に1932年に生まれました。画家として最も功績を残している日系ペルー人のひとりです。父親のキツケ・シンキ氏は広島県出身で、母親のフィロメナ・ウアマンは地元ペルー人の方です。多くの日本人移住者が入植したリマ北部のスペという町にあるサンニコラス農場で生まれ育ちました。同氏はペルーの国立美術大学に進学し、1962年に首席で卒業しています。
シンキ氏の作品には東洋、西洋、そしてアンデスの伝統文化の要素が組み込まれています。未知で好奇心をそそる世界を特徴ある超現実主義(シュールレアリズム)のスタイルで表現し、洗練された技術とそれまでにない像を描いたことで、ラテンアメリカの造形芸術の巨匠達と肩を並べることになったのです。 世界的にも表彰され、ペルー、日本、イタリア、アメリカ、コロンビア、エクアドル、ブラジル、ベネズエラ、パナマ、メキシコ等各地で個展や共同での展覧会に参加してきました。1999年には、ペルー日本人移民100周年記念事業の一環として名古屋の博物館でも展示を行いました。2006年11月リマで開催された第34回の「日本文化週間」では、多数の作品が展示されました。シンキ氏は、2016年に亡くなりました。 (2017年10月)
徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)
徴兵忌避者(1925年生)
世論に影響を与えるメディアの役割(英語)
JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)
日本の教育を受けさせるようにという父の遺言(英語)
1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)
大学で初めて知った強制収容の事実 (英語)
弁護士(1955年生)
収容所の中での教育(英語)
政治活動家(1927-2010)
日本語のスピーチ (英語)
プロアメリカンフットボール選手。(1971年生)
カリフォルニア州ガーデナで育まれた順応性と競争心 (英語)
弁護士 (1946年生)
二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)
テキサス州クリスタルシティーで別人の様になっていた父との再会 (英語)
教師(1937-2021年)
テキサス州クリスタルシティーで過ごした幼年期の思い出 (英語)
真珠湾攻撃を知った時のこと(英語)
日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)
強制収容を知る (英語)
戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)
真珠湾攻撃後に解雇された日系アメリカ人の鉄道労働者たち (英語)
初生雛鑑別師 (1923年生)