ディスカバー・ニッケイ

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家での規律と躾 (スペイン語)

(スペイン語) 母は父の影のような存在でした。いつでも父の指示に従って行動するので、私は不快に思うこともありました。でもそれが我が家のやりかたなんです。

今でも覚えているのが、当時の日本人男性というのは妻や子に対しては非常に厳しかったということです。子が父親と一緒に食事するということはあり得ませんでした。食堂で父親と食事だなんて想像もできませんでした。子供達は他の子供達と、又は女中さんたちと食事をとり、大人だけがメインテーブルで食事をしていたのです。すごい習慣でしたね・・・。

父が息を引き取る直前のことを、私はよく覚えています。父は母に「フィロ、フィロ」と呼ぶのです。「よく聞きなさい。頼みがある。絶対にベナンシオに学校を辞めさせてはいけないよ。勉強させるんだ」って、最後の力を絞って母に言ったのです。 私もその時は子供ながらびっくりしました(涙が込み上げます)。あの時のことを思い出すと、胸がつまります。感慨深いものがありますから。それと同時に腹立ちをおぼえるんです。

というのも、その時の話しに戻りますが、父は母に私の進学について言い遺し、母に念を押したんです。すると母は、「何を言っているんですか。この子は私の子でもあるんですよ!貴方に言われなくとも、もちろんきちんと勉強させますよ!」って。 あれは、初めて母が父に口答えをした時だと思います。私は、あまりに驚いて、一瞬身体が動かなくなりましたね。私は枕元に、母はベットの端へいて、父にガミガミと他のことも言ってたのですよ。「何が起こってるんだ?」って、自分なりに不思議に思いましたよ。そして、その数時間後、父はこの世を去りました。


家族

日付: 2007年9月6日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: ハルミ・ナコ

提供: ペルー日系人協会 (APJ)

語り手のプロフィール

ベナンシオ・シンキ・ウアマン氏はペルーのリマ市郊外スペ地区に1932年に生まれました。画家として最も功績を残している日系ペルー人のひとりです。父親のキツケ・シンキ氏は広島県出身で、母親のフィロメナ・ウアマンは地元ペルー人の方です。多くの日本人移住者が入植したリマ北部のスペという町にあるサンニコラス農場で生まれ育ちました。同氏はペルーの国立美術大学に進学し、1962年に首席で卒業しています。

シンキ氏の作品には東洋、西洋、そしてアンデスの伝統文化の要素が組み込まれています。未知で好奇心をそそる世界を特徴ある超現実主義(シュールレアリズム)のスタイルで表現し、洗練された技術とそれまでにない像を描いたことで、ラテンアメリカの造形芸術の巨匠達と肩を並べることになったのです。 世界的にも表彰され、ペルー、日本、イタリア、アメリカ、コロンビア、エクアドル、ブラジル、ベネズエラ、パナマ、メキシコ等各地で個展や共同での展覧会に参加してきました。1999年には、ペルー日本人移民100周年記念事業の一環として名古屋の博物館でも展示を行いました。2006年11月リマで開催された第34回の「日本文化週間」では、多数の作品が展示されました。シンキ氏は、2016年に亡くなりました。 (2017年10月)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。